韓国ホルホル動画―한국물결(韓国の波)2025/07/05

 韓国に「한국물결(韓国の波)」というユーチューブがあります。 自国を誇らしげに自画自賛するような映像ばかりで、いわゆる「ホルホル動画」と言われるものです。 「ホルホル」はもともと韓国語だそうで、詳しい意味は検索して調べてみてください。

 この中で2025年6月18日に、日本に関連したものが公開されました。 題名は「ハングル導入、日本の伝統学者たちが激烈に反対した理由!??」 「日本右翼vsハングル 教育戦争  日本文盲率→ハングルで解決した実話」です。 https://www.youtube.com/watch?v=xKOSUJKO1yc&t=71s  

 韓国語の勉強のつもりで視聴してみたところ、まあまあ聞き取りやすかったです。 しかし内容はデタラメで、突っ込みどころが多いですねえ。 本国の韓国人はこんなデタラメ動画で「ホルホル」するのか!?と妙に興味深いものでした。

 これは韓国の「ホルホル動画」ですが、一方日本の「ホルホル動画」では「日本最高!」「日本人はすごい!」「世界が驚愕!」などと日本人が「ホルホル」しているのとよく似たものですね。 どちらも一部の自国民の「癒し」になっているようです。 韓国と日本の「ホルホル動画」比較検討なんて、研究対象として面白いかも知れません。

 今回はこの韓国「ホルホル動画」を翻訳してみましたので、お読みいただければ幸い。 取り急ぎの翻訳ですので、日本語としてはこなれていない部分があります。 なおバカバカしい内容ですから真剣になる必要はなく、軽く読み流せばいいです。

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(導入)   2024年、東京大学大講堂、日本最高の言語学者たちが集まった学術大会で衝撃的な発表があった。 「日本の未来のために、ハングルを第2の文字として導入すべきです」。 この一言に、学界は大騒ぎになった。

(本文)  実は5年前に論争が始まったのですが、これがどのように日本社会を変えたのか? そしてなぜ伝統学者たちは激烈に反対したのか? すべては2019年の大阪の小さな小学校から始まりました。

 西成区、日本で最も貧しい地域の一つ。 ここで小学校の校長である田中ヒロシ(弘?)は深刻な問題に直面していました。 自校生徒の40%が学習不振児童でした。 特に日本語の読み書きで深刻な困難を抱えていたのでした。 漢字、ひらかな、カタカナ、三つの文字を同時に学ばねばならない子供たちがへとへとに疲れています。

 田中校長は偶然に韓国の文盲率が世界最低水準という記事を読みました。 そしてハングルの科学的構造について、知るようになったのです。 「24個の文字ですべての音を表現できるなんて、日本語は基本的に覚えねばならない文字が2000個以上というのに。」

 田中校長は果敢に試してみました。 放課後、特別プログラムとしてハングルを教え始めたのです。 目的は簡単でした。 ハングルで先ず初めに読み書きの原理を覚えた後、日本の文字を学ぶようにしたのです。

 最初は生徒の親たちも反対しました。 「なぜ子供が韓国の文字を勉強しなければならないのか」というのです。 しかし3カ月後、驚くべきことが起りました。 学習不振児童に分類されていた子供たちがハングルで読み書きを始めたのです。

 子供たちは初めて自分の考えを文字で表現する喜びを知るようになったのです。 8歳のユキ(由紀‥‥?)は、このように言いました。 「漢字が難しすぎて、あきらめました。 しかしハングルはレゴ・ブロックみたいです。 組み立てれば文字になるのが不思議です。」

 6か月後、さらに驚く結果が現れました。 ハングルを最初に学んだ子どもたちが日本の文字の学習にもメキメキと上達したのです。 文字の構造と原理を理解するようになり、複雑な漢字も直ぐに覚え始めたのです。 ハングルはまるで学習の入門道具のようでした。 子供たちはハングルで自信を持ち、その自信で日本の文字に挑戦することができたのです。 

 この話は日本の教育界に波紋を起こしました。 2020年、大阪教育長は10ヵ所の学校に試験的に事業を拡大しました。 結果は衝撃的でした。 参加した生徒の識字率が平均35%向上したのです。

 しかし、この時から激烈な反対が始まりました。 日本の伝統文化保存会会長の山田ケンイチロウ(健一郎?)は記者会見を開きました。 「これは日本文化に対する冒瀆です! 千年以上続いてきたわが伝統を、韓国のものに代替しようという試みは認めることができません!」

 東京大学国文学科名誉教授の佐藤マサヒロ(正弘?)も強く批判しました。 「日本語の美しさは複雑性にあります。 漢字の形態美、ひらかなの流麗さ、カタカナの簡潔さ。 これが日本精神の精髄です。 ハングルなんかに代替できるものではありません。」

 右翼団体はデモを始めました。 「日本の魂を守れ!」「ハングル教育反対!」 プラカードを持ったデモ隊が文部科学省の前に集まりました。 (3:19にデモ写真。プラカードにある漢字が滅茶苦茶!)

 しかし現場の声は違いました。 大阪のある親は、涙を流して言いました。 「うちの息子は難読症(学習障害の一つ。ディスレクシア)がありました。 小学3年生なのに、自分の名前もちゃんと書けなかったのです。 しかしハングルを学んで初めて私に手紙を書いてくれたのです。 「『엄마, 사랑해요(お母さん、愛してる)』と、たとえハングルだとしても、それの何が重要だというのですか?」

 論争が激化した2021年、意外な人物が現れました。 日本のノーベル文学賞受賞者である村上春樹でした。 彼は韓国語を勉強しながら、ハングルの美しさを知るようになりました。 「ハングルは文字を民主化した革命的発明品です。 私たちがハングルから学ぶべき点があるなら、学ばねばなりません。 それが本当の知恵です。」

 村上の発言は大きな反響を呼びました。 若手学者たちが声をあげ始めました。 早稲田大学の若い言語学者である橋本ユイ(結‥‥?)は、衝撃的な研究結果を発表しました。 「日本の機能性文盲率が先進国のなかでは最高水準です。 成人の30%が複雑な文書を理解できません。 これはわれわれの文字体系の複雑性と関係があります。」 彼女は提案しました。 「ハングルを代替文字ではなく、補助学習道具として活用しよう」ということです。 「ちょうど水泳を学ぶ時、補助道具を使うように」です。

 2022年、九州のある私立学校が電撃的にハングル並行教育を導入しました。 校長の中村ケイコ(恵子‥‥?)は、次のように説明しました。 「私たちは日本の文字を捨てるのではありません。 むしろ、もっとちゃんと教えるためにハングルを活用するのです。 ハングルで文字の原理を理解した生徒たちが漢字ももっともっと早く覚えます。」  1年後、この学校は日本全国学力評価で1位を占めました。 特に国語部門で圧倒的な成績を収めたのです。

 伝統学者たちは相変わらず反発しました。 「一時的な成果に幻惑されてはダメだ!」「日本のアイデンティティが消えてしまう!」

 しかし変化はすでに始まりました。 2023年、日本政府は「多文字教育特別法」を制定しました。 ハングルを含めた多様な文字教育を許容する法案でした。 もっとも劇的な変化は東京の名門私立大学で起きました。 伝統を重視することで有名なこの学校がハングル教育を導入したのです。 「我が校の学生たちがグローバルリーダーになろうとするなら、多様な考え方に知らなければなりません。 ハングルはその良い道具です。」

 2024年現在、日本全体で500の学校がハングル教育を実施しています。 その結果は驚くべきものです。 学習不振児童の割合が50%減少、識字率20%向上、創意的な作文能力35%増加。 もっと重要なことは、子供たちの変化でした。 ハングルと日本の文字を同時に学んだ子供たちは、柔軟な考え方をするようになりました。 12歳のサクラ(桜‥‥?)は、次のように言います。 「ハングルで日記を書いて、漢字で詩を書きます。 それぞれの文字の感じが違っていて、面白いです。」

 大阪の田中校長は、退職を前に次のように回顧しました。 「最初は本当に怖かったです。 売国奴という非難も受けました。 しかし子供たちの笑顔を見て確信しました。 教育は伝統ではなく、未来のためのものだと。」

 現在、日本の文部科学省は2025年から「文字の多様性教育」を正式教育課程に含める予定です。 ハングルは選択科目として提供されます。 伝統学者たちの憂慮と違って、日本の文字は消えることはありませんでした。 むしろハングルを通して、日本の文字の特性がもっと理解するようになったという評価が多いです。

 東京大学の言語学者である高橋教授は言います。 「ハングルは鏡です。 その鏡を通して、われわれは日本の文字の長点・短点を客観的に見ることができるのです。」

 もっとも大きな変化は、子どもたちが自信を持ったことでした。 文字の学習に挫折していた子供たちが、今は二つの文字を自由に駆使します。 「私は日本人です。 そしてハングルも書くことができます。 それが私を特別なものにしました。」 9歳のケンタ(健太‥‥?)の言葉です。

 2024年、ユネスコは日本の多文字教育の試みを「21世紀の教育革新事例」に選定しました。 全世界が注目しています。 伝統と革新が衝突して融合する日本の試みがどんな結果を生むのか。 一つ確実なことは、壁はすでに崩れたということです。 千年の伝統も、子供たちの未来の前では一歩退くということを、日本は見せてくれました。 今日も日本のどこかで子供たちがハングルと日本の文字を同時に学んでいます。 子供たちは二つの文字の美しさを知っている新しい世代になるのです。

 伝統学者の山田は、最近のインタビューで立場を少し変えました。 「相変わらず憂慮しているが‥‥ 孫娘がハングルで書いた手紙を受け取った時、少し理解したよ。 『할아버지 사랑해요(おじいちゃん、愛してる)』とハングルで書かれていたのだが‥‥。 何、愛には文字が重要ではないからね。」 変化は続いています。 そしてその変化の中で、新しい可能性が開かれているのです。 奇跡は続きます。

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 この韓国「ホルホル動画」は14日間で再生数が4.3万、「いいね」が812、コメント投稿数が92。 そこそこの人気を得ているようです。 コメントの内容を読むと、賛成・称賛が多く、苦言を呈するものはほとんどないですねえ。 やはり「ホルホル動画」は一部の韓国人の「癒し」になっているように思われます。

 これは日本の「ホルホル動画」が一部の日本人の「癒し」になって再生数を上げているのと同じでしょう。 また在日外国人ユーチューバーが日本をヨイショする「日本ホルホル動画」を作成して、かなり稼いでいるようです。

 なお北朝鮮の「ホルホル動画」ですが、今年の正月に平壌で行なわれた在日朝鮮学校生たちによる「설맞이 공연(迎春公演)」が公開されています。 https://www.youtube.com/watch?v=7SVaapoRT_Y 

 これは元帥様「ホルホル」であって、韓国や日本なんかのような自国「ホルホル」でないところに特徴があると言えそうです。 朝鮮学校の教育目標はこれだと思えば、興味深いものです。 カルト宗教の宣伝映像を見ているような感覚に陥りますね。

金時鐘氏への疑問(16)―猪飼野詩集2025/07/12

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/23/9784276 の続きです。

㉓ 『猪飼野詩集』は猪飼野で詩作されたものではない

 私は金時鐘さんの代表作『猪飼野詩集』を読んで、彼は1949年来日して以来ずっと大阪市の猪飼野で暮らしておられたと思っていました。 ある金時鐘研究者も、次のように論じています。

1949 年6月に済州島から渡日し、最初に生活を始めたのが「猪飼野」であり、「猪飼野」は、その後も長年の間、彼の生活の拠点となった地である。 金時鐘は、これまでに何度も「猪飼野」の町を作品のテーマや背景として描いてきた。 1978 年には、「猪飼野」で生活する当時の在日朝鮮人の様子を描いた第4詩集『猪飼野詩集』を発表した。 

file:///C:/Users/Takeshi/Downloads/lcs_34_2_okazaki.pdf 

 しかし金さんは、『猪飼野詩集』を書き公開した時は猪飼野ではなく、吹田市に住んでおられました。 彼は次のように回想します。

私はこの夏の始めまで30年近く、大阪府吹田市の、東海道本線(JR)の電車や列車が地鳴りを立ててひっきりなしに行き交う、線路の間際に住んでいました。 (「善意の素顔―より良い理解のために」 藤原書店『金時鐘コレクション11』2023年8月 所収 55頁)

 この「善意の素顔」は1997年11月の講演です。 ですから「30年近く」前は1968年頃になりましょうか。 ある方が1970年代に金時鐘さんの吹田の家を訪問したら、「林」という表札が掲げられていたという思い出話をどこかで書いておられたのを覚えています。 従って金さんは、1968年頃から1997年まで吹田市に住んでおられたことは確かと思われます。

 とすれば1968年以前は猪飼野に住んでおられたのだろうと考えて、金さんの書いてきたものを探してみました。 すると2019年の『朝日新聞』文化・文芸欄に金さんの回想エッセイがあり、その中で次のように語っておられるのを見つけました。 

猪飼野かいわいで10年余り暮らしましたが、 (金時鐘⑦「語る―人生の贈り物―『猪飼野』なくてもある町」 2019年7月26日付『朝日新聞』) 

 http://shiminhafiles2.cocolog-nifty.com/blog/files/342e98791e69982e99098e38080e8aa9ee3828b.pdf

 ですから、金さんは1949年に来日してから1960年代前半までの「10年余り」を大阪市猪飼野に住んでおられたことになります。 それから1968年頃までの数年間はどこに住んでおられたのか、探してみましたが不明ですね。 そして1968年頃に吹田市に引っ越して、そこで「30年近く」生活されたことになります。 さらにその後は、おそらく今の住所である奈良県生駒市に引っ越されたのでしょう。

 まとめますと彼の日本での住所は、猪飼野に1949~1960年代前半、しばらく不詳の後、吹田市に1968年頃~1997年頃、生駒市に1997年頃~現在になると考えられます。

 吹田に住んでおられた時、つぎのような事があったそうです。

選挙のたびに繰り返される笑えない喜劇だが、ぜひ一票をと、朝鮮人の私の家まで尋ねてくれる熱心な運動員たちがいる。 (「足元からの国際化」『金時鐘コレクション8』2018年4月 135頁)

 この散文は1993年8月に発表されたものですから、「私の家」は吹田市にありました。 金さんの家は選挙権を有さない外国人宅ですから、公職選挙法違反(戸別訪問禁止)には問われなかったのでしょう。

 ところで、彼の代表作『猪飼野詩集』は1970年代に『季刊三千里』で連載された詩などを集めたものです。 その年代を測るに、それは朝鮮人集住地区である猪飼野で詩作されたものではなく、日本人ばかりがいる吹田市内の一角で詩作されたものだったのでした。 そしてそこでは彼と周辺の善意な日本人たちと間にどのような軋轢があったのか、上述の「善意の素顔」でそのエピソードが語られていて、興味深いものですので一読をお勧めします。

 彼が『猪飼野詩集』を書いたきっかけは、1973年2月の地名変更で「猪飼野」という町名が消えたことでした。 彼にとって猪飼野は、1960年代前半までのわずか10年余りの生活だったのですが、

在日朝鮮人の生活史が地のまま保たれている ‥‥苦難の故郷を見棄ててきた者のうしろめたさから在日民族団体の常任活動家となって、いっぱしの組織活動家になっていったのもまた、在日朝鮮人運動の拠点地域だった猪飼野でありました (『金時鐘コレクション4』366頁)                                                                                                                                                                                                   

とあるように、思い入れ深い場所でした。 彼はこのような「猪飼野」の地名が消えることが、「日本の保守政権はたゆみなく、戦前の軍国日本の痕跡を消し去ることに注力してきました」(同上、367頁)と同列に考えておられますから、「猪飼野」の地名変更に反対する意味で『猪飼野詩集』を書かれたと思われます。

 しかし実際にその猪飼野に住んでいる人は

『イカイノ』と聞くだけで地所が、家屋が、高騰一方の時節に廉く買いたたかれるといい、ひいては縁談まで支障をきたしている(同上、366頁)

のでした。 地名が消えたのはその住人には理由があったようですが、金さんは〝そこの住人でなくなったから反対した”と言えるようです。

 『猪飼野詩集』は、金さんが同胞のいない吹田で生活していた時に同胞集住地区である猪飼野に通いながら過去のノスタルジーに浸りつつ書いたものと言えるのではないかと思われます。 つまり『猪飼野詩集』は〝もはや住民でなくなった金時鐘が書いた詩集”ということです。 研究者が『猪飼野詩集』を論じる際に、吹田に言及しないのが不思議ですね。       (続く)

金時鐘氏への疑問(1)―在留資格       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/26/9763626

金時鐘氏への疑問(2)―韓国戸籍・墓参り   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/03/31/9764818 

金時鐘氏への疑問(3)―教員免許・公務員就職 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/05/9766006

金時鐘氏への疑問(4)―日本語・創氏改名   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/11/9767588

金時鐘氏への疑問(5)―政党加入・4・3事件  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/18/9769221

金時鐘氏への疑問(6)―4・3事件(その2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/23/9770375

金時鐘氏への疑問(7)―4・3事件(その3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/04/28/9771478

金時鐘氏への疑問(8)―西北青年団      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/02/9772477

金時鐘氏への疑問(9)―韓国否定と北朝鮮容認 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/09/9774295

金時鐘氏への疑問(10)―北朝鮮批判と擁護代弁 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/14/9775437

金時鐘氏への疑問(11)―スキー客・新井鐘司  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/19/9776467

金時鐘氏への疑問(12)―崔賢先生       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/24/9777663

金時鐘氏への疑問(13)―石鹸工場・民戦    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/13/9782053 

金時鐘氏への疑問(14)―吹田事件       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/18/9783181

金時鐘氏への疑問(15)―ハングル       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/06/23/9784276

金時鐘氏への疑問(17)―豊田先生2025/07/17

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/07/12/9788376 の続きです。

㉔ 豊田先生はいつ訓導(正規教員)になったのか?

 豊田先生は金時鐘さんの小学校時代の担任でした。 担任の名前は1986年の立風書房版『在日のはざまで』では「金田」先生となっていましたが、後の2001年平凡社版では「豊田」先生に訂正されました。 それ以降の著書では、「豊田」先生となっています。

 この先生について、金時鐘さんは次のように記しています。 

(1941年12月、中学進学を控えていた時に真珠湾攻撃を聞いて)思わず万歳を叫んだ‥‥ 時は来た、という思いでした。 少年戦車隊のような、学校でも奨励しているどこかの兵学校に進むべきだと、親に無断で担任の「豊田」先生に勇んで申し出ました。 あとで知ったことですが、この「豊田」先生は当時はまだ訓導、今で言う教諭ではない代用教員の朝鮮人教員で、めったやたらと平手打ちを食らわせる猛烈な大日本帝国教員でありました。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 40頁)

 金さんは真珠湾攻撃のニュースを聞き、小学校(当初は普通学校、後に国民学校)を卒業したら兵学校に進もうと豊田先生に申し出ます。 ですから金さんが6年生の時です。 その時の豊田先生はまだ訓導(正規教員)ではなく、代用教員でした。 

5年生のときの理科の時間に李君が答えた解答をめぐっての思い出話です。 先生は6学年のときまで担任であった「豊田」という朝鮮の先生でした。 この先生は代用教員として採用され、がむしゃらにがんばってなんとか一人前の教師になった先生です。 教諭に当たる「訓導」になったのは私たちが卒業したあとのことだったようです。 (同上 62~63頁)

 ここでも、豊田先生が訓導になったのは「私たちが卒業したあと」とあります。 ところが、金さんが卒業前の6年生の時に、豊田先生は訓導になったという記述があります。

小学校4年のときから卒業するまでの担任の先生は「豊田」という朝鮮の先生でした。 この先生は代用教員として採用され、がむしゃらにがんばってなんとか一人前の教師になった先生です。 一人前、つまり「訓導」になったのは私達が小学校6年になったときでした (『金時鐘コレクション8』藤原書店 2018年4月 46頁)

 豊田先生が正規教員である訓導になった時期は、金さんが小学6年生の時と小学卒業後の時という二つの矛盾した記述があることが確認されました。 ささいなことかも知れませんが、事実関係の間違いは全体の信用性に影響するものです。

 

㉕ 鼓膜を破るほどの体罰を加える帝国教師

 次に豊田先生はどういう人だったか。 金さんは次のように言います。

それだけに厳しさもまた格別で、もうのべつ幕無しにぶん殴るわけです。 鼓膜を破る生徒が何人もおるというほどの厳しい先生でした。 (『金時鐘コレクション8』 46頁)

 先生は何人もの子どもに「鼓膜を破る」ほどの体罰をする暴力教師だったそうです。 私は旧日本軍のビンタは鼓膜を破らないように殴ると聞いていたので、軍隊より凄まじい体罰です。 しかも体がまだできていない小さな子どもを相手に、大人が殴っていたというのですから驚きです。 耳から出血して難聴・耳鳴りを起こした子どもが続出し、病院に運ばれたこともあっただろうし、治らずに聴覚障害者となった場合もあっただろうと思うのですが、問題にならなかったのでしょうか。

 そして金時鐘さん自身が、「豊田」先生でなく校長先生からですが、鼓膜を傷めるほどに殴られたと言います。

私は、「いいえ」という打ち消し一つ身につけるために、鼓膜を傷め鼻血をださねばならなかったほど‥‥ (『朝鮮と日本に生きる』 49頁)

 この小学校では、校長先生さえも生徒に鼓膜を傷つけるほどの体罰をしたというのですから、代行教員でしかなかった豊田先生はさらに激しい暴力を多くの子どもに加えていたのでしょう。 ただいくら軍国主義全盛の時代だったとはいえ、まだ小学生という小さな子供を相手に暴力的体罰が横行していたというのは、ちょっと信じ難いのですがねえ。

この先生は、骨の髄から「皇国臣民」の教育をしないとだめだと思いこんでいる朝鮮の教員であります。 (『金時鐘コレクション8』 46頁)

忠節の帝国教師 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 72頁)

(金さんは解放後、教員養成所の事務職嘱託に就職) 小学校教員速成養成を目指した教員養成所は、当時行政整備がついたばかりの道学務課が管掌した教育施設でしたが、その道学務課を牛耳っていた特任教育官がなんと、北国民学校といわれた小学校の折の、6学年の担任であった猛烈な大日本帝国教員、かの豊田先生こと金達行(キムタルヘン)奨学士でした。 さすがに気が咎めたのか、君こそ教師にふさわしい勉強家だと、肩を叩きながら教師資格の付与を考える余地があるとの素振りも見せてくれていました。 (同上 143~144頁)

 豊田先生は「忠節の帝国教師」「猛烈な大日本帝国教員」ですから、「一途な皇国少年」(同上 46頁)の金さんには覚えがめでたかったと思われます。 だから終戦(解放)後に偶然に出会った時、金さんを「君こそ教師にふさわしい勉強家だと肩を叩きながら」激励したと思われます。 しかし金さんはその時の先生の様子として、「さすがに気が咎めたのか」と記しました。

 金さんによれば、「帝国教師」だった先生は戦後に米軍政下の李承晩政権下の教育関係公務員になっていたようですから、いわゆる「親日派」ですねえ。 ですから生き方はぶれておらず、一貫していたことになります。  一方の金さん自身は「皇国少年」から「南労党員(共産主義者)」へ秘密裏に転向していました。 先生は教え子の金さんが共産主義者になったことを知らず、「皇国少年」の思い出だけを持っていたから金さんを激励したのでしょう。 ところが金さんは、その先生が自分をみて「さすがに気が咎めた」といいます。 果たしてそんなことがあり得るのだろうか? 「気が咎める」なら、転向した金さんの方ではないのだろうか‥‥ という疑問を持ちます。

 金さんにとって豊田先生は悪い意味も含めて印象深い教師だったようで、様々なエピソードを記憶しておられます。 ところがそんな金さんは、その先生の名前が「豊田」だったのか「金田」だったのか、冒頭のように混乱していたというのが不思議ですね。       (続く)