金時鐘氏への疑問(17)―豊田先生 ― 2025/07/17
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/07/12/9788376 の続きです。
㉔ 豊田先生はいつ訓導(正規教員)になったのか?
豊田先生は金時鐘さんの小学校時代の担任でした。 担任の名前は1986年の立風書房版『在日のはざまで』では「金田」先生となっていましたが、後の2001年平凡社版では「豊田」先生に訂正されました。 それ以降の著書では、「豊田」先生となっています。
この先生について、金時鐘さんは次のように記しています。
(1941年12月、中学進学を控えていた時に真珠湾攻撃を聞いて)思わず万歳を叫んだ‥‥ 時は来た、という思いでした。 少年戦車隊のような、学校でも奨励しているどこかの兵学校に進むべきだと、親に無断で担任の「豊田」先生に勇んで申し出ました。 あとで知ったことですが、この「豊田」先生は当時はまだ訓導、今で言う教諭ではない代用教員の朝鮮人教員で、めったやたらと平手打ちを食らわせる猛烈な大日本帝国教員でありました。 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 2015年2月 40頁)
金さんは真珠湾攻撃のニュースを聞き、小学校(当初は普通学校、後に国民学校)を卒業したら兵学校に進もうと豊田先生に申し出ます。 ですから金さんが6年生の時です。 その時の豊田先生はまだ訓導(正規教員)ではなく、代用教員でした。
5年生のときの理科の時間に李君が答えた解答をめぐっての思い出話です。 先生は6学年のときまで担任であった「豊田」という朝鮮の先生でした。 この先生は代用教員として採用され、がむしゃらにがんばってなんとか一人前の教師になった先生です。 教諭に当たる「訓導」になったのは私たちが卒業したあとのことだったようです。 (同上 62~63頁)
ここでも、豊田先生が訓導になったのは「私たちが卒業したあと」とあります。 ところが、金さんが卒業前の6年生の時に、豊田先生は訓導になったという記述があります。
小学校4年のときから卒業するまでの担任の先生は「豊田」という朝鮮の先生でした。 この先生は代用教員として採用され、がむしゃらにがんばってなんとか一人前の教師になった先生です。 一人前、つまり「訓導」になったのは私達が小学校6年になったときでした (『金時鐘コレクション8』藤原書店 2018年4月 46頁)
豊田先生が正規教員である訓導になった時期は、金さんが小学6年生の時と小学卒業後の時という二つの矛盾した記述があることが確認されました。 ささいなことかも知れませんが、事実関係の間違いは全体の信用性に影響するものです。
㉕ 鼓膜を破るほどの体罰を加える帝国教師
次に豊田先生はどういう人だったか。 金さんは次のように言います。
それだけに厳しさもまた格別で、もうのべつ幕無しにぶん殴るわけです。 鼓膜を破る生徒が何人もおるというほどの厳しい先生でした。 (『金時鐘コレクション8』 46頁)
先生は何人もの子どもに「鼓膜を破る」ほどの体罰をする暴力教師だったそうです。 私は旧日本軍のビンタは鼓膜を破らないように殴ると聞いていたので、軍隊より凄まじい体罰です。 しかも体がまだできていない小さな子どもを相手に、大人が殴っていたというのですから驚きです。 耳から出血して難聴・耳鳴りを起こした子どもが続出し、病院に運ばれたこともあっただろうし、治らずに聴覚障害者となった場合もあっただろうと思うのですが、問題にならなかったのでしょうか。
そして金時鐘さん自身が、「豊田」先生でなく校長先生からですが、鼓膜を傷めるほどに殴られたと言います。
私は、「いいえ」という打ち消し一つ身につけるために、鼓膜を傷め鼻血をださねばならなかったほど‥‥ (『朝鮮と日本に生きる』 49頁)
この小学校では、校長先生さえも生徒に鼓膜を傷つけるほどの体罰をしたというのですから、代行教員でしかなかった豊田先生はさらに激しい暴力を多くの子どもに加えていたのでしょう。 ただいくら軍国主義全盛の時代だったとはいえ、まだ小学生という小さな子供を相手に暴力的体罰が横行していたというのは、ちょっと信じ難いのですがねえ。
この先生は、骨の髄から「皇国臣民」の教育をしないとだめだと思いこんでいる朝鮮の教員であります。 (『金時鐘コレクション8』 46頁)
忠節の帝国教師 (『朝鮮と日本に生きる』岩波新書 72頁)
(金さんは解放後、教員養成所の事務職嘱託に就職) 小学校教員速成養成を目指した教員養成所は、当時行政整備がついたばかりの道学務課が管掌した教育施設でしたが、その道学務課を牛耳っていた特任教育官がなんと、北国民学校といわれた小学校の折の、6学年の担任であった猛烈な大日本帝国教員、かの豊田先生こと金達行(キムタルヘン)奨学士でした。 さすがに気が咎めたのか、君こそ教師にふさわしい勉強家だと、肩を叩きながら教師資格の付与を考える余地があるとの素振りも見せてくれていました。 (同上 143~144頁)
豊田先生は「忠節の帝国教師」「猛烈な大日本帝国教員」ですから、「一途な皇国少年」(同上 46頁)の金さんには覚えがめでたかったと思われます。 だから終戦(解放)後に偶然に出会った時、金さんを「君こそ教師にふさわしい勉強家だと肩を叩きながら」激励したと思われます。 しかし金さんはその時の先生の様子として、「さすがに気が咎めたのか」と記しました。
金さんによれば、「帝国教師」だった先生は戦後に米軍政下の李承晩政権下の教育関係公務員になっていたようですから、いわゆる「親日派」ですねえ。 ですから生き方はぶれておらず、一貫していたことになります。 一方の金さん自身は「皇国少年」から「南労党員(共産主義者)」へ秘密裏に転向していました。 先生は教え子の金さんが共産主義者になったことを知らず、「皇国少年」の思い出だけを持っていたから金さんを激励したのでしょう。 ところが金さんは、その先生が自分をみて「さすがに気が咎めた」といいます。 果たしてそんなことがあり得るのだろうか? 「気が咎める」なら、転向した金さんの方ではないのだろうか‥‥ という疑問を持ちます。
金さんにとって豊田先生は悪い意味も含めて印象深い教師だったようで、様々なエピソードを記憶しておられます。 ところがそんな金さんは、その先生の名前が「豊田」だったのか「金田」だったのか、冒頭のように混乱していたというのが不思議ですね。 (続く)
【追記】
この「豊田」先生(金達行)のその後について、『なぜ書きつづけたか なぜ沈黙してきたか』で金時鐘さんは次のように語っています。
金時鐘: 1953年に栄養失調がたたって肺炎と結核で倒れて、生野に戻って猪飼野の生野厚生診療所というところに入院したのよ。 大家という同胞の先生がそこの院長だったけど、その嫁さんがなんとこの忘れられない金達行先生の長女や。
金石範: で、金達行はどこに行ったの? 死んでたの? その時は。
金時鐘: その診療所でぱったり出会った。
金石範: じゃ、日本に来てたわけか。
金時鐘: ‥‥彼は、僕を見て、ほんまに震えましたよ。
金石範: 近くに住んどったの? 大阪に住んどったのか!
金時鐘: 済州島らか逃げてきて、自分の娘と一緒に住んでおったようです。 いつか出会ったら、一・二発くらわしてやろうと思っとったけど‥‥ (以上、金石範・金時鐘『なぜ書きつづけたか なぜ沈黙してきたか』平凡社ライブラリー 2015年4月 57~58頁)
この診療所というのは、『朝鮮と日本に生きる』に出てくる次の診療所のようです。
なんとか体調を取り戻した私は1956年の9月、3年にも及んだ入院治療から抜け出しました。 診療所側の要請もあって事務長職を引き受けての退院でした。 (金時鐘『朝鮮と日本に生きる』岩波新書2015年2月 282頁)
金時鐘さんによれば、あれほど憎んでいた暴力教師は李承晩政権下で教育官僚となっていたのですが、いつの間にか済州島を脱出し、大阪の診療所院長の妻となっている娘のところに住んでいたといいます。 ところが金時鐘さんはその診療所の事務長に就職したのでした。 金達行へのあれほどの憎しみはどうなったのでしょうか?
また、なぜ「彼(金達行)は僕を見て、ほんまに震えました」となるのでしょうかねえ。 金時鐘さんは密入国者ですから、ご本人こそ密告されたら一巻の終わりで「震え上がる」と思うのですが‥‥。
もう一つ、金時鐘さんは皇国少年から共産主義者(南労党員、共産党員)へ転向されたのですが、かつて担任教師として身近にいた金達行に対する憎しみを、日本に来て今に至るまで残しておられるところに驚きます。 (2026年4月19日 記)
コメント
_ チキンマン ― 2025/07/21 11:52
_ 辻本 ― 2025/07/22 00:28
_ 辻本 ― 2026/04/19 21:00
そのなかで、それまで皇国少年だった金時鐘さんは南労党に入って共産主義者になり、担任教師で皇国の忠節を誓う暴力教師であった金達行さんは李承晩政権下で教育官僚になるなど、それぞれがそれぞれの道を歩んだと言えます。
人びとはその時々を精一杯生きていただけです。
何が正しかったのかなんて、言えるわけがないでしょう。
そうであるのに金時鐘さんは、自分は正しかったとか、金達行が悪かったとか、そんなことを何十年も経って老境に入る年齢になっても論じておられのですが、果たしていかがなものかと考えます。
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