戦前の朝鮮部落の状況2025/10/01

 朝鮮人は日韓併合(1910年)前後から日本(当時は内地)に出稼ぎに来るようになります。 だんだん来日人数が増えてくると、各地で民族コミュニティがつくられ、いわゆる朝鮮部落(朝鮮人集住地区)となっていきます。 この朝鮮部落の状況について、近年発行された岩波新書『在日朝鮮人』では、次のように書かれています。

(1920年代以降に形成された)集住地区は、朝鮮人が衣食住の暮らしとその文化を守ることのできる空間でもあった。 朝鮮語で話をし、チマチョゴリを着、民族料理を食べるなど、生活様式と文化を維持する機能を果たしていた。 規模の大きい集住地区には米屋、八百屋、雑貨屋、菓子屋などのほか朝鮮料理の食材を売る店、朝鮮服を扱う店、ドブロクを売る店、漢方薬店なども生まれた。 女性の祈祷師(ムーダン)や漢文を教える老人がいる集住地区もあり、朝鮮の村がそのまま移ってきたかのようであった。 そこでは、親睦会や契(けい)と呼ばれる頼母子講(たのもしこう)のような互助組織がつくられ、さらに文化活動や教育活動なども展開されるようになった。(水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』岩波新書 2015年1月 33頁)

 100年前に半島から来日した朝鮮人たちは自分たち同士でかたまるようになり、民族文化をそのまま持ち込んできたことが分かります。 これを現在の日本に引きつけて考えると、今アジアや南米などの各国から多数の人が来日して働いていますが、彼らはそれぞれの国同士で集住するようになって民族コミュニティを作っていく過程と重なりますね。 では当時の朝鮮部落は周囲の日本人からどう見られていたか‥‥。

このような朝鮮人集住地区は、日本人の眼には「猥雑」「不潔」としか映らず、理解不能な異文化が日本社会の中に移植されたかのように見えた。 取り締まり当局は、朝鮮人集住地区を犯罪の温床、さらには民族運動の拠点として警戒・監視の対象とした。 1928年秋、京都で行なわれた昭和天皇の即位式の際に、朝鮮人集住地区は一斉取り締まりの対象となるなど、しばしば警察の取り締まりを受けた。 (同上 33頁)

 昔の朝鮮部落と今の外国人たちが形成する民族コミュニティは、周囲の日本人から「理解不能な異文化」と見られ、摩擦を起こすようになる点が共通していますね。 

 とすれば今日の外国人問題を考える際には、〝100年前の朝鮮人問題がどういう経過をたどって現在に至ったのか”を知ることが大きな参考になるのではないかと考えます。 そこで朝鮮部落(朝鮮人集住地区)の歴史と状況について、調べてみました。   (続く)

  【拙稿参照】

「朝鮮部落」を探訪したユーチューブ動画 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/04/9773065

「朝鮮部落」の思い出(1)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262

「朝鮮部落」の思い出(2)       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331

神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞      https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772

小松川事件(3)―李珍宇が育った環境   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502

かつて日本人は朝鮮部落をどう見ていたか(1)2025/10/08

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622 の続きです。

 まずは、〝在日朝鮮人はどのような暮らしをしていて、日本人からどのように見られていたか”のお話です。 いま世に出ている在日の歴史は「民族受難とそれに対する闘い」という視点での記述がほとんどですから、〝被差別と被害”が強調されています。 それは在日側から見た〝被差別と被害”であり、そして〝日本と闘う”ことが強調される歴史となります。 〝われわれは日本からこれほどの差別を受けてきたが、それに対してかくのごとく果敢に闘ってきたのだ”という歴史ですね。 

 それでは〝闘う”相手とされた日本側から見て在日はどうであったのか、こういう視点での叙述は在日の歴史の本では、朝鮮人は日本人からこれほどの差別を受けていたという証拠とするか、朝鮮人差別を正当化するものとされて無視するものでした。 しかし在日の歴史を研究するには、客観性を担保するためにこのような違う立場からの記録も十分に知っておかなくてはなりません。 そこで、かつての在日を直接観察した記者や行政などの記録を紹介します。

 

大阪毎日新聞記者 井上吉次郎 「大大阪と移入鮮人の問題」 『大大阪』第4巻11号 (1928年)

猛烈な人口の都市集中現象の背後には、必ず都市における失業者の群れと生活の低下減少が現れる。 特に大大阪に集まる集中群の如き、主たる目標を物質的生活の獲得に置いて居るものについて、過剰人口の流れる方向は決まって居る。 大都市にドン底生活は付き物だ。 大阪では特にそれが目につく。 ‥‥ 大大阪に押し寄せる集中群のうち、この法則にはずれないものは鮮人移入者である。 ‥‥男女鮮人の数の増加は街頭の瞥見でも分かる ‥‥ 鮮人人口が飽和度に達した都市では異民族の姿が判然と映る 

日鮮同祖論などは学者がいかに明快に証明しても、異民族観念が一般的に成立している事実は動かせない。 融和は必要だ。 けれども必要と感じて融和に努めることは意識的努力であって、異民族観念の明白に成立して居る確証である。 これが人口の消化を極めて不良ならしめる。 また中に散見する白衣の朝鮮婦人、雨に傘なく天気に傘持つような姿は生活の破綻を示す。 生活破綻者の行く道はただ一筋だ。 しかして、これは恐ろしい道である。  ‥‥ 生活の破綻は民族的色彩を生地に出し、かつその民俗群の増加はますます内地社会への同化を困難にして、大大阪市の懐の中に異殊社会を抱くことになって、社会的不安が永久に去らぬ。 

ドン底生活者は都市の生活水準を下げる。 ドン底生活は大都市に必ず伴う生活現象であるが、これがあるは都市の名誉でもなく幸福でもない。 これの除去は都市計画のプランに入れるべき重要問題だ。 都市計画というのは、決して街区の整理だけの言葉でない。 (以上、杉原達『越境する民』岩波現代文庫 207・208.210・211頁より再引)

 日本では明治期に資本主義が勃興して経済が発展したのですが、同時に資本家と労働者、地主と小作人などの階級格差が大きくなり、底辺層が形成されました。 朝鮮から出稼ぎにきた労働者はこの底辺層に組み入れられます。 当時の朝鮮人の多くは日本語が出来なかったので、低賃金の単純肉体労働者とならざるを得なかったからです。 さらに、ここに書かれているような「生活破綻者」が出てきたのですが、一方では安い賃金ながらも質素倹約に努めて故郷の家族に送金する朝鮮人も多くいました。

 記事は「移入鮮人の問題」とあるように、まじめに暮らしている朝鮮人よりも「生活破綻者」の方に注目します。 問題なくおとなしく過ごしている人よりも、問題を起こす人の方に目が行くのは仕方ないことかも知れません。 これは今日の外国人問題でも同じですね。

 「内地社会への同化を困難にして、大大阪市の懐の中に異殊社会を抱く」とあるように大日本帝国内に異民族コミュニティーが生じて、「社会的不安が永久に去らぬ」とまで記しています。 ここも現在の日本の外国人問題を彷彿とさせますね。 「底辺層」「低学歴」「言葉が出来ない」「単純肉体労働」「若い独身」「借金まみれ」と言われているように、〝昔の在日朝鮮人”と〝今の外国人”とには共通性を見ることができます。 現代の外国人問題の原点は、100年前に渡来した朝鮮人に遡ると言ってもいいのではないかと思います。

 

大阪市社会部調査課 酒井利男 「朝鮮人労働者問題上・中・下」 『社会事業研究』第19巻5~7号 (1931年)

生活の不潔、不衛生、乱雑、群衆性に基く団体的の暴行、騒擾、所有観念の欠乏、群居生活による喧騒と破倫的行為、粗暴怠惰なる性情 

朝鮮人労働者の好ましからざる特質も彼らの本性に基くものであると言わんよりも、むしろ教育の普及せざることによるものと見る方が至当である。 ゆえに朝鮮人労働者の欠点はこれを民族的欠陥に帰することなく、彼らの労働素質や一般生活標準の向上を期するためには、今後どうしても教育の普及に力を注ぐべきである。 (以上、杉原達『越境する民』岩波現代文庫 215・216頁より再引)

 「不潔、不衛生、乱雑、暴行‥‥」。 当時(100年前)の朝鮮人集住地区の様相を端的に表現する言葉がずらりと並べられています。 今の欧米にある移民・難民スラム街を実見した時に出てくる感想とほとんど同じですね。 そして今の日本内に形成され始めている外国人の民族コミュニティの一部はすでにそんな状況になりつつあるという話もあります。 それに対する周囲からの視線は、やはり厳しいようです。

 つまり、〝100年前の朝鮮人”と〝現代の外国人”とでは共通する問題点があると言えます。 周囲の日本人はまるで「好ましからざる特質も彼らの本性に基く」のように厳しい差別的な見方を露骨に表すこともあるようですが、朝鮮人の中にはまじめに働いて周囲の社会と摩擦を起こさないように努力している人も多くいました。

 記事では朝鮮人が「好ましからざる特質」を有するのは、「教育が普及していない」ことをその原因としています。 だからこそ、この記事では「朝鮮人労働者問題」の解決法について、100年前の大阪の行政担当者は「民族的欠陥に帰することなく‥‥教育の普及」が必要だという主張をしたのでした。

 一方、現代の日本の外国人問題の解決は「教育」だとして、これに熱心に取り組む人が多いと聞きます。 私もこの考え方が妥当だと考えています。     (続く)

戦前の朝鮮部落の状況    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622

 

【拙稿参照】 

入管闘争―善人だから闘うのか、善人でなくても闘うのか https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/05/25/9588921   ――当たり前ですが、在日にもいい人もいれば悪い人もいます。 「ピン」もおれば「キリ」もいるのです。

かつて日本人は朝鮮部落をどう見ていたか(2)2025/10/15

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/08/9808117 の続きです。

大阪区裁判所検事 三木今二「内地に於ける朝鮮人とその犯罪について」司法省調査課『司法研究』第17集 報告書集第二 (1933年)

朝鮮人が群衆的騒擾性、付和雷同性を多分にもち、かの万歳騒擾(1919年の三・一独立運動)、元山罷業の騒擾(1929年の植民地期最大のゼネスト)または光州学生騒擾(1929~30年の抗日学生運動)等は彼等のこの性癖に帰するものがあると謂われて居る。

その群衆騒擾性付和雷同性は彼等の闘争心の強きこと、一般に信仰なく常に焦慮不安を抱いて居ること、教育なきために分別理性に欠くるところがあり、何等かの衝動を受けくると之を抑えることが出来ないで各々他人を中心として妄動するに基づくものであろうが、内地に於ける朝鮮人には生活の脅威に対する焦慮不安が自暴自棄の観念を起こさせると自然に醸成されつつある民族意識に支配されることによって、些細なことに端を発し凶暴なる騒擾を惹起するおそれがある。 (以上、杉原達『越境する民 近代大阪の朝鮮人史』岩波現代文庫 2023年3月 200頁より再引)

 当時の在日朝鮮人の犯罪を直接担当した治安当局者の発言ですが、「群衆的騒動性」「付和雷同性」「焦慮不安」「自暴自棄」などの言葉の連発は、今なら差別発言だと問題になることでしょう。 現代の欧米の異民族スラム街での犯罪や暴動が時おりニュースになっており、担当の治安担当者も同じような感想を持っているだろうなあ、と想像します。 今の日本でも一部民族コミュニティに対してそのような傾向が指摘されているので、気になるところです。

 

 近年に発刊された岩波新書『在日朝鮮人』に、戦前に形成された朝鮮人集住地区(朝鮮部落)について、次のように記述されています・

(1920年代以降の)このような朝鮮人集住地区は、日本人の眼には「猥雑」「不潔」としか映らず、理解不能な異文化が日本社会の中に移植されたかのように見えた。 (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』(岩波新書 2015年1月 33頁)

 100年前の戦前において日本人から朝鮮人を見た時の正直な感想は、「猥雑」「不潔」「理解不能な異文化」というものだったのでした。 そして100年経った今、各地に一部外国人民族コミュニティができていてその様子がユーチューブなどで公開されていますが、そこで出てくる感想と大きく違わないことに注目されます。

 

 次に戦後に発表された資料ですが、法務省の方が在日朝鮮人の歴史を簡潔にまとめています。

森田芳夫「数字からみた在日朝鮮人」 『外務省調査月報』第1巻 第9号 1960年12月

(戦前の)朝鮮人は故郷にあっては純朴な農民であったが、教育が不十分、日本語が未熟なまま貧困の身で生存競争の激しい異郷に流入したために、治安や労務面で日本内の社会問題とされ、それに日本内が経済不況で、失業者が多い年もあったため、日本政府は行政措置により就職や生活の見通しのたたないものの渡航阻止を行なった。

(戦後の)在日朝鮮人には、女が少なく、老人が少ないこと、教育程度が低い者が多いこと、また職業の上で、農業従事者が少なく、定職のない者が多いことなどが犯罪率を高くする要因となっている。 今後、年齢構成の変化と教育程度の高まりと、生活の安定と共に、犯罪率は低下することであろう。 (以上、『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』明石書店 1996年6月 65~66、32頁に所収)

 在日朝鮮人史に関心のある人なら、森田芳夫は必ず知っておかねばならない人物です。 戦後法務省官僚として、客観的統計資料に基づいて在日朝鮮人の実情を分析・研究した方です。 彼は戦前の在日朝鮮人について「純朴な農民であった」「教育が不十分」「日本語が未熟なまま貧困の身」と簡潔に評しましたが、その通りだった言うしかありません。

 さらに戦後の在日朝鮮人について、「年齢構成の変化と教育程度の高まりと、生活の安定と共に、犯罪率は低下するだろう」と見通しました。 これは65年前(1960年)の分析ですが、それ以降の在日の歴史を見渡せばその通りの経過となっていますね。

 「教育程度の高まり」と「生活の安定」は在日自身が努力してきたものです。 つまり在日が自ら望んで日本社会に馴染んだというか統合されたというか、端的に言って同化されてきたということです。 その結果が「犯罪率の低下」に繋がったのでした。

 ここは今の外国人問題の解決に向けて何を努力すべきか、ヒントを得ることができると考えます。

 

 大阪では1969年に矢田教育事件が起きた影響と思われますが、翌年の大阪中学校長会内部文書が暴露されました。 中学校に通う在日朝鮮人子弟がどんな様相であり、教育関係者が彼らをどう見ていたのかが記されています。 当時の底辺校に勤務したことのある教師なら、心の中で〝さもありなん”と思うでしょう。

大阪市立中学校長会「昭和45年度研究部のあゆみ」 

朝鮮人子弟は、一般的に利己的・打算的・刹那的・衝動的な言動が多く、それが情緒不安定、わがまま勝手、ふしだらな傾向、実行の伴わないみせかけの言動となってあらわれる。 罪悪感に欠け、性的早熟、自己防衛的でその場限りのウソも平然とし、同じあやまちや不注意も繰り返す。 半面、外国人ということを卑下して、日本人のように振る舞おうとし、無気力になったり、荒々しくなったりする。 (永井萌二『見知らぬ人 見知らぬ町』1971年7月 五味洋治『高容姫』文春新書 2025年6月 65・65頁より再引)

 「利己的」「打算的」「刹那的」「衝動的」「情緒不安定」「わがまま勝手」「ふしだらな傾向」「実行の伴わないみせかけの言動」「罪悪感に欠け」「性的早熟」「その場限りのウソも平然」「同じあやまちや不注意を繰り返す」‥‥。 教師たちが在日朝鮮人子弟たちによほど困っていて、それを正直に書いてしまったのでしょう。 今ではこんな発言は許されません。 しかし上述してきたような在日朝鮮人社会のなかで、このような子弟が生まれてきたと言えば理解してもらえるでしょうか。

 これを今の外国人問題に引きつけるなら、彼らの子弟のなかに学校の授業についていけず、上記のような在日朝鮮人子弟と同じ振る舞い、時には悪の道に走る例が見られることです。 かつての在日子弟と同じような歩みを今の外国人子弟が歩んでいるのではないか、ということです。 とすれば、これまで日本人教師たちが取り組んできた在日朝鮮人子弟教育の経験は今の外国人子弟教育に生かしているのだろうか、同じような悩みを繰り返しているのではないか、という疑問を抱きます。

 

 なお私の経験からすると、1980・90年代の在日朝鮮人子弟教育は学力向上よりも「本名を呼び名乗る」ことに重点をおいていて、教育というものからちょっとずれていたように記憶しています。 なにしろ教育研究集会では〝うちの学校で何人の在日生徒に本名宣言させたか”を発表していましたし、テレビで「二つの名前で生きる子ら」というドキュメンタリー放送をしたりしていましたから。 在日の子は通名(日本名)を名乗って朝鮮人であることがバレないかと怯えながら暮らしているから不良の道に行くのだ、本名を名乗れば不良にならない、なんて言うヘンテコな活動家がいましたねえ。 この「本名を呼び名乗る」取り組みは今の在日外国人子弟の教育問題に果たして繋がっているのだろうか、私は疑問に感じています。    (続く)

かつて日本人は在日朝鮮人をどう見ていたか(1)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/08/9808117

戦前の朝鮮部落の状況    https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622

水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734

在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638

在日の低学力について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169

 

【在日の本名についての拙稿】

第21題「本名を呼び名乗る運動」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai

第85題(続)「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai

第84題 「通名と本名」考   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai

「部落民宣言」と「本名を呼び名乗る」運動 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/10/28/9435562

「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(1)2025/10/21

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/15/9809571 の続きです。

 拙ブログでは下記【拙稿参照】にあるように、朝鮮人集住地区(いわゆる「朝鮮部落」)について私の思い出や記憶のあるままに記してきました。 これまでの日本では在日韓国・朝鮮人の歴史の本が多く出版されてきましたが、それは「民族受難とそれに対する闘い」に重点を置いた歴史がほとんどです。

 一方、彼らが普段どのような生活を送ってきたのか、その実態について彼ら自身は「民族受難」を語るものとして紹介するくらいでした。 「朝鮮部落」という特徴的な環境で生活してきたことを客観的に見る視点は多くなかったですねえ。 そういう中で、金賛汀さんの『在日、激動の百年』(朝日新聞社 2004年4月)には戦後の「朝鮮部落」が取り上げられており、在日の歴史を語る上に重要な記録を残していると思いました。 今回はその部分を引用・紹介したいと思います。

「朝鮮部落」の消滅

戦後、1960年代末ごろまで日本の各地に多くの「朝鮮部落」が点在していた。 私の学生時代(1961年ごろ)、朝鮮大学校では夏休みを利用して各地の朝鮮人多住地域に入り、「朝鮮部落」の子供たちを集め朝鮮語や朝鮮史の学習会を開いていた。 「朝鮮部落」の人たちは私たちを温かく迎え入れ、彼らの家屋を宿泊所として提供し、食事の世話までしてくれた。 私たちが寝泊まりした家屋はバラックに少し手を加えた程度の粗末なもので、河川敷のような場所にひとかたまりになって20,30軒びっしりと立ち並んでいた。 所によっては不法建設ということで、電力会社や市の水道局から電力の配線工事を拒絶され、水道管の敷設もできず、近くの日本人の民家から自分たちで配線工事をして、水道管を繋ぎ特別料金をはらっている「朝鮮部落」も少なくなかった。 その周辺の日本人から、そこは異郷のような特殊な目で見られており、道路一本隔てた日本人社会とはほとんど交流がなかった。 多感な若者の感性は「特殊部落」を見る日本人の言動に蔑視と嫌悪の感情を感じ取ったり、やり場のない怒りを覚えたものである。 (金賛汀『在日、激動の百年』朝日新聞社 2004年4月  173頁)

 金賛汀さんは「朝鮮部落」の様相をよく観察しておられますねえ。 「(朝鮮部落)周辺の日本人から、そこは異郷のような特殊な目で見られており、道路一本隔てた日本人社会とはほとんど交流がなかった」なんていうのは、正にその通りでした。

 ところで3年前の毎日新聞に、朝鮮部落でも在日と日本人との間に「共生」の歴史があったというような記事が書かれていて、驚いたことがあります。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772 この毎日の記事のような「共生社会を体現してきた集落」は、もしあったとしたら極めて特殊事例でしょう。 金賛汀さんが記しているように、朝鮮人たちは「朝鮮部落を見る日本人の言動に蔑視と嫌悪の感情を感じ取ったり、やり場のない怒りを覚えていた」のが実際だったと思い出されます。 とてもではありませんが、「共生」というものから程遠かったです。

 

「朝鮮部落」はその成立の過程を大きく分けて二つに分類される。 一つは日本人地主が借家や長屋を建てたが、環境が劣悪なため日本人が住み着かず、朝鮮人が借り、そこに同胞が集まって住み着き、合法的に朝鮮人が多住した場所。 代表例は大阪の猪飼野地域である。 もう一つは戦前、住宅が借りられず、河川敷などの国有地にバラックを建てて住み着いた人々が集まってきて「朝鮮部落」が形成された「不法占拠」的な集落である。 いずれの「朝鮮部落」にせよ、そこには貧しく喧騒に明け暮れる劣悪な住宅、生活環境であったが、異郷に住む朝鮮人の拠り所でもあり、在日が民族的な感情・雰囲気を異郷で維持した温床(おんどこ)でもあった。 (同上 174頁)

 朝鮮部落は、ここでは二つに分類されています。 一つはおそらく同和地区を念頭に入れていると思われます。 「環境が劣悪なため日本人が住み着かず、朝鮮人が借り、そこに同胞が集まって住み着き」というのは都市部の同和地区でよく聞く話でした。

 一方で、もともとは同和地区でないのに劣悪な住宅が並んでスラム化した地域が同和地区扱いされる場合もありました。 例えば大阪で生まれ育った人が「猪飼野」を同和地区と思い込んでいるのを知って、驚いたことがあります。 住環境が劣悪で周囲からの評判が悪く不動産価格が安くなるので在日韓国・朝鮮人住民が多くなってスラム化して「朝鮮部落」となったところです。 本来の意味の「同和地区」ではないのですが、混同する人が多いようですね。

借地・借家を中心として形成された「朝鮮部落」は、戦後の借地借家法などが居住者保護の立場を重視したことから、家賃や地代をきちんと払っている限り、そこから強制的に追い立てられることがなくなり、定着がより強固なものになった。 (174~175頁)

 「朝鮮部落」は劣悪な環境ですから、周囲と比べれば家賃・地代は安いです。 しかし、きちんと支払っていれば追い出されることはなく、定着していきます。

 もう一つは河川敷などの不法占拠。 この場合は、家賃も地代もありません。 終戦直後の混乱のなかで、住む家に困った在日たちが不法占拠してバラックを建てて「朝鮮部落」を形成するパターンですね。 これは今でも日本各地に残っていて、ユーチューブなどで時々探索するような映像が出ています。

 どちらの「朝鮮部落」も、金さんは「貧しく喧騒に明け暮れる劣悪な住宅、生活環境であったが、異郷に住む朝鮮人の拠り所でもあり、在日が民族的な感情・雰囲気を異郷で維持した温床(おんどこ)」と、的確かつ簡潔に表現していますね。 「朝鮮部落」を体験していたからこそ書けたのでしょうねえ。

 後者の河川敷等の不法占拠の「朝鮮部落」について、もう少し詳しく説明されています。

その「朝鮮部落」のうち「不法占拠」的な「朝鮮部落」が1960年代ごろから少しずつ消滅していった。 日本経済は1955年ごろから高度経済成長期を迎えたが、池田勇人内閣が成立した1960年ごろから政策的な後押しを受け経済成長はさらに進展した。 日本経済の発展につれ、戦後の長い期間、失業状態が続いていた在日の人々にも就労の機会が増え、生活状態の改善がもたらされた。 それに伴い生活環境の劣悪な「朝鮮部落」から抜け出す人々が増えていった。 また1959年末から始まった北朝鮮帰還事業には「朝鮮部落」に住む人々が多く帰り、「部落」消滅に拍車をかけた。 さらに高度経済成長を支えた大規模な公共投資により、河川敷の改修工事が進展して、河川敷を不法占拠していた「部落」の人々はいくばくかの保障と、提供された公共住宅に分散して入居することで、多くの「朝鮮部落」が消滅していった。 (同上 174頁)

 これは大体その通りだったと同意するところです。 不法占拠ですからいつかは出て行かねばなりませんが、1950~60年代の高度経済成長とともに経済的に余裕ができたために「朝鮮部落」から抜け出た人は少なからずいました。 しかし、出て行こうともせずに居残った人も多かったのです。 1960年代までは「維持」、それ以降に「縮小」、というのが私の印象です。

 なぜ出て行かなかったかというと、やはり民族を同じくする同胞がいて居心地が良かったことが挙げられると思います。 「朝鮮部落」では朝鮮人たちが協力し合う関係が強固に形成されていて、その核となったのが朝鮮総連の分会でした。 部落の子供たちは生まれた時から顔馴染みで、一緒に朝鮮学校に通っていました。(ただし多産家庭などでは、授業料無料の公立学校に通わせる場合も多かった) 彼らは周囲の日本人から冷たい目で見られているからこそ、部落内の団結は強かったと言えます。 このような民族コミュニティの居心地の良さゆえに、特に年取った人はそこから出て行き難かったのでしょう。    

 さらに付け加えて、在日たちは劣悪な住宅と環境での生活に我慢していたについてですが、それは彼らが“自分らはいつかは祖国に帰る、この日本は仮の住まいだ”という意識を有していました。 だから自分たちが住む地域にさほど愛着がなく、だからお金をかけて自分たちの生活環境を改善していく動きにはなかなか行かなかったことです。

 それが1970年代に入って、そんな祖国志向が薄れ、日本に定着志向へと変化したのでした。 それは日本では高度経済成長期と重なり、在日も経済的に余裕が生じた時期なのでした。     (続く)

 

【拙稿参照】 「朝鮮部落」を探訪したユーチューブ動画 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/05/04/9773065

「朝鮮部落」の思い出(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/12/9508262

「朝鮮部落」の思い出(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/19/9510331

神戸の「朝鮮部落」―毎日新聞  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/11/9516772

小松川事件(3)―李珍宇が育った環境 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/04/12/9576502

「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(2)2025/10/27

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/21/9811055 の続きです。

 朝鮮人たちは高度経済成長の恩恵を受けて経済的に余裕ができ、家を購入したりして部落外に出て行こうとする動きが現れてきます。 金賛汀さんは次のようなデータを出しています。

日本人が「朝鮮部落」を敬遠し、近辺地域の地価が他に比較して安価であったことから、高度経済成長で収入を確保できた在日の人々が土地を購入して、持ち家を建設する事例も多くなった。 1960年代、70年代の在日の住宅事情についての調査資料が存在しないので、当時の状況は不明であるが、1983年、神奈川県が在日朝鮮・韓国人についての調査を実施した結果によると、表8のようになる。

表8 神奈川県在住韓国・朝鮮人の住宅所有統計

              外国人   県下一般

総数              100    100

持ち家             57.1    55.7

借家              41.6    43.8

 うち公営、公団・公社     4.1     7.1

 うち民営(含アパート)    34.7    30.5

 うち給与住宅         2.8     6.1

その他・不明          1.3     0.5

                       (%)

この統計から判明することは在日の人々の持ち家比率が日本人よりわずかであるが高く、反対に公営・公団などの住居率が低いことである。 それはかつて「国籍条項」を盾に在日の入居が拒まれていた影響であろう。 戦前、1934年ごろの東京都での在日の家屋所有について報告書は「目下在京朝鮮人はその数4万(実数3万9552人)を数へるも、自分の家作(バラックを除く)に住むものは十指に足りぬ状態で‥‥」と記述しているのと比較すると調査時の1985年には持ち家比率が57.1%になっており、隔世の感がある。 (以上、175~176頁)

 金さんは神奈川県のデータを出して、在日の持ち家の割合が日本人よりも高くなった事実を明らかにしています。 これはおそらく全国的に見られた傾向と考えられます。

 ぐっと年代を下げたバブル経済およびそれ以降のことですが、家を借りようとすると「外国人お断り」で苦労した外国人が〝だったら購入しよう”となる場合が多いという話を聞いたことがあります。 不動産賃貸の外国人差別は今も続いているようです。 かつての在日の苦労が再現されているようですね。

多くの「朝鮮部落」の消滅は在日社会にさまざまな影響をもたらした。 まず、朝鮮民族意識のありかたの変化である。 在日が集団で生活する場があった時代、その地域の人々は朝鮮民衆の生活、文化的風習を色濃く保って生活していたが、日本社会に分散して生活するにつれ、民族文化、生活感覚を温存できる条件が急速に失われていき、そして同化の速度を速めた。 また、時を同じくして在日社会もかつてのように皆一様に貧しかった時代から、富めるものと貧しいものに階級分化が急速に進んだ。 経済成長の波に乗り、1960年ごろから事業を起こして成功する人々も増えた。 戦後、在日の人々の主要な職業は「パチンコ屋」「土方」「ホルモン焼き屋」「屑屋」であったが、「パチンコ屋」は電子科学分野の目覚ましい発展を背景に機械化と店舗の大規模化を成し遂げ、「土方」の親方は公共土木事業の増大で土木建築会社に成長し、「ホルモン焼き屋」は大型の焼肉料理店に生まれ変わり、「屑屋」は産業廃棄物処理業者へと変貌した。 (同上 176頁)

1983年3月の神奈川県の調査では在日の人々で事業を営む人は調査対象の29%に達し、その事業の年間売上額が5億円以上の事業所が6%にもなった。 住む住宅が確保され、就労の機会もあり、事業で成功する人が増える状況のもと、彼らの日本定住の意思は確固たるものになり、同化の進行による民族意識の希薄化がそれに拍車をかけた。 (同上 176頁)

 金さんの見るところでは、〝在日韓国・朝鮮人は「朝鮮部落」という強固なコミュニティが解体し、自分たちが従事してきて得意分野となっていた「パチンコ屋」「土方」「ホルモン焼き屋」「屑屋」が発展して定着し、日本社会に貢献する存在となった”ということですね。

 在日は日本への同化がさらに進んでいって、今はその最終段階に差し掛かっているのです。 在日の歴史の終着点は、〝日本社会に同化吸収されて、その一員となる”となりましょう。  これを日本側から見れば、〝わが日本文化は在日朝鮮人の文化を取り入れて、文化の幅が広く深くなった”ということです。 歴史を振り返ってみると、古代にあっては朝鮮半島からの渡来人が日本で活躍し、中世にあっては同じく朝鮮半島から陶磁器の技術と文化が伝わりました。 そして彼らが有していた文化は日本文化の一部となることによって、日本の文化がより深みと広さを持つようになっていったのです。

 戦後80年の歴史(戦前を含めると100年以上の歴史)を歩んできた在日たちも、近い将来に〝日本の一部となる”という最終地点に行くものと考えます。 逆に言えば、在日は100年かかって日本に吸収されて同化し、同時に今度は日本文化が在日文化をも柔軟に取り込んで変化していくということです。 それによって日本民族は新たな民族へと変わっていくのです。

そして現代の外国人問題に引きつけて言うならば、彼らもまたこれまでの100年単位の在日の歴史と同じ軌跡をたどって日本人の一部になるだろうし、またそうなっていくことを願っています。     (終わり)

戦前の朝鮮部落の状況             https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622

かつて日本人は在日朝鮮人をどう見ていたか(1)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/08/9808117 

かつて日本人は在日朝鮮人をどう見ていたか(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/15/9809571

「朝鮮部落」―金賛汀さんの体験(1)       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/21/9811055

 

【同化に関する拙稿】

水野・文『在日朝鮮人』(21)―同化      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/23/8197450

「同化」は悪だとされた時代          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/15/8018723

同化されない外国人              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/01/8206320

李青若(2)―「あなたは同化しているね」   https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/12/06/9546013

「差別・同化政策」考             http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daigojuuyondai

在日朝鮮人は外国人である          http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuudai

(続)在日朝鮮人は外国人である        http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daiyonjuuichidai

「同化教育」考               http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daikyuujuunidai

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(1)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/07/30/9513291

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(2)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/03/9514505

『ハンギョレ』中村一成氏への違和感(3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/08/06/9515348

在日韓国・朝鮮人自然消滅論(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/11/26/9734747

在日韓国・朝鮮人自然消滅論(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/01/9736094