朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分2023/09/05

 100年前の関東大震災の際、関東の各地に自警団が結成され、朝鮮人に対する殺害行為を行なったことは周知のことでしょう。 ところで新聞等のマスコミは被害者側に寄り添う意見ばかりを記事に出していて、加害者側の自警団にどのような言い分があったのかについて、全く報じていませんねえ。

 『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房 1963年10月)に、当時の自警団組織から、次のような「詰問状」が政府あてに出されたという資料がありました。 自警団たち自身がどう考えていたのかを示すものとしてそれなりの価値があると思い、紹介します。 出典は大正12年10月23日付けの『東京日々新聞』で、大震災報道が解禁になってからの記事でしょうから、実際に詰問状が出されたのはもっと前のことと思われます。 引用に当たっては、分かりやすく一部書き改め、また原文と同じ段落を設けました。

今頃になって検挙は何事ぞ 関東自警同盟から内相法相に詰問状

新時代協会 菊池義郎氏ほか32名、労働共済会 中西雄洞氏ほか52名、自由法曹会 野田季吉氏ほか12名、城南荘 菊池良一氏ほか数名、満鉄調査課 綾川武治氏ほか8名が発起となり、市内各区に設けられた自警団を傘下に集めて、こんご関東自警同盟を組織し、昨今各方面に火の手をあげている自警団の検挙騒ぎに対する対抗策を講じた結果、左の決議を可決し、これを内相法相に致すことになった。

我らは当局に対して、左の事項を訊す。

1、流言の出所につき、当局がその責を負わず、これを民衆に転嫁せんとする理由は如何。

1、当局が目の当たり自警団の暴行を放任し、後日に至りその罪を問わんとする理由は如何。

1、自警団の罪悪のみ独りこれを天下に暴き、幾多の警官の暴行はこれを秘せんとする理由は如何。

我らは当局に対し、左の事項を要求す。

1、過失により犯したる自警団の傷害罪は、ことごとくこれを免ずること。

1、過失により犯したる自警団員の殺人罪は、ことごとく異例の恩典に浴せしめること。

1、自警団員中の功労者を表彰し、特に警備のために命を失いたる者の遺族に対しては、適当の慰藉の方法をとること。

‥‥幹部の菊池義郎氏いわく、「某方面より鮮人襲来の恐れあり、男子は武装せよ、女子は避難せよ、〇〇と見れば、〇して差し支えないと触れ回ったのは何者であったか。 当局はこれを横浜に強盗を働いた某らの宣伝であるというも、直接我らに伝えたものは、明らかに他にあった。 ところが今日になって自警団の功績はことごとく顧みられず、全国7千万の同胞から凶器無頼の悪徒と見られ、事情を知らざる外人よりは血に飢えた蛮人のように誤解されている。 もっとも中には殺人強盗を働いたエセ団員も混じっていたけれど、これらは我らの仲間ではなく、我らの責任に負うべきものではない。 そこで名誉回復のために決議を当局に致すことになったのだが、汚名をそそがぬ以上は一同死すとも止まぬ決心である」 (以上『現代史資料6』148~149頁)

 〇〇は戦前の新聞によくある伏字で、おそらく「鮮人と見れば、殺して差し支えない」になると思われます。 当局はこれを「横浜で強盗を働いた者の宣伝」としたようですが、自警団はこれを確かに当局から聞いたとしています。

 自警団は早い段階に「凶器無頼の悪徒」、そして外国人から「血に飢えた蛮人」という悪評が立ち、警察による捜査・検挙が始まりました。 その汚名に対して自警団自身が何とか弁明しようとしたのがこの「詰問状」ですね。 彼らの主張をまとめると、次のようになるようです。

 我々は流言飛語を純粋に信じ込んで武装し事件を起こしたが、それは社会を守るためだった。 政府当局が流言飛語を流して「殺してもいい」とまで言い、我々自警団の暴行を黙認し、また警察官も暴行していたのに、当局の責任が問われないのは納得できない。 我々は社会を守るために必死に立ち上がったのにその功績を無視し、我々に責任を転嫁して汚名を着せようとするのは許せない。

 自警団は自分たちの純粋無垢性を訴えて、悪意はなかったと主張しているようです。 そこには自分たちによって殺された朝鮮人に対する思いやりが全く見られないことに注目されます。

 政府当局が「朝鮮人を見たら殺しても差し支えない」と触れ回ったとされますが、事実かどうかは確認できません。 しかし「震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人多数‥‥各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるよう至急相当の手配、相なりたし」という電話をかけたのは事実のようで、同年12月の国会質問で出てきます。 「一朝有事の場合に速やかに適当の方策を講ずる」というのが、実際に朝鮮人を見ることになる現場では「殺しても差し支えない」となって広まったのではないか、そして自警団はそれを信じて実行していったのではないか、と思われます。

 ところが警察は一転して自警団の捜査・検挙に乗り出しました。 これは何故か、という点について考えてみました。

 警察は多数の朝鮮人を予防検束し保護したのですが、自警団は警察を襲撃してこれらの朝鮮人を殺す事件が多発しました。 警察にとっては、自分の検束保護下においていた者を外部の人間が襲撃して殺したのですから、警察の面目丸つぶれです。 また自警団は朝鮮人と思しき者を確認せずに次々と殺していったため、日本人も多数犠牲になりました。 こんな事情から自警団を放置する警察が批判されたために、自分たちを棚に上げて自警団の捜査・検挙に乗り出したと思ったのですが、どうでしょうか。

関東大震災―自警団は警察も襲撃した2023/09/10

 関東大震災時に発生した流言飛語により、かなりの数の朝鮮人が警察等に予防検束されました。 しかし自警団はそんな警察等に保護された朝鮮人まで襲撃して殺害しました。 例を挙げてみます。 

9月3日午後3時  亀戸町神町巡査派出所  被害者1名  棍棒をもって頭部その他に乱打し殺害す

9月4日午前11時  東葛飾郡船橋町警察署  被害者十数名  鳶口・竹槍をもって傷害す

9月4日午後4時  東葛飾郡船橋町  被害者38名  船橋警察署へ引き渡さんとして護送中に日本刀その他にて殺害す

9月4日夜~5日午前  児玉郡本庄警察署  被害者約38名  警察官の護送中の鮮人を仕込み杖・長槍・熊手等にて殺害す

9月4日夜~5日午前  熊谷町  被害者約15名  警察官護送中の鮮人を日本刀・鳶口・鉄棒にて約13名を殺害し、2名を傷害す

9月5日正午  東葛飾郡中山村  被害者3名  官憲に引き渡すため護送中の途中、日本刀にて殺害す

9月5日午後7時  那須野村巡査駐在所  被害者2名(日本人含む)  東那須野駅に着いた列車内より下車せしめ、日本刀・棍棒をもって殺害す

9月5日午後8時  多野郡藤岡町警察署  被害者16名  警察署において鮮人を保護するを憤り、同署に臨み騒擾殺害す

9月6日午前2時  大里郡寄居警察署  被害者1名  署内保護中の鮮人を日本刀・棍棒・竹槍等にて殺害す

 それ以外に自警団は、朝鮮人と誤認されて追われて警察に保護された日本人も襲撃し殺しました。

9月4日午後9時  群馬郡倉賀野町巡査駐在所  被害者1名  巡査が被害者を保護中、駐在所より連れ出して殺害す

9月5日午前2時  東葛飾郡南行徳村  被害者3名  軍隊が被害者を保護のため同行途中に殺害す

9月5日午前8時  下都賀郡家中村巡査駐在所  被害者1名  鳶口・棍棒等をもって乱打し、傷害の結果、死に至らしむ

9月5日午後1時  千葉郡検見川町巡査駐在所  被害者3名  針金にて後手に縛し、竹の棒・鳶口等にて殺害す

以上は当時の司法省資料に、立件起訴された事件として掲載されたものです。 ですから確実性のあるものです。 それ以外に加害者を特定できなかった等で立件起訴されなかったものが多数ありますから、実際の事件ははるかに多かったことは確実です。

 流言は9月2日には広まり始めていて自警団が組織されていき、朝鮮人を探しての殺害が始まります。 朝鮮人たちはそれから逃れるために行動するのですが、その一つが警察に逃げ込むことでした。 警察は流言にあるような犯行(井戸に毒を入れるなど)を行なわせないために朝鮮人を予防検束するのですが、これは自警団から朝鮮人を守ることと同じになります。

 だから多くの朝鮮人たちは警察に逃げ込み、また朝鮮人と誤認された日本人も逃げ込んだのでした。 しかし自警団は警察を襲撃してまで、こういう朝鮮人・日本人を殺害したのでした。

 この時に自警団は、自分たちを制しようとした警察官にも暴行を加えています。 本庄警察署では「自警団はさらに『鮮人に味方する署長を殺せ』と打ちかかったので、部下巡査二名とともに田んぼ伝いに危機を逃れたが、この際に警官二名が竹槍で突かれ重軽傷を負った」(本庄事件)という記事があります。

 〝警察に任せたから安心″とはならず、自警団は警察をも恐れず朝鮮人殺害の意思を固め実践したと言わざるを得ないですね。 政府当局から「朝鮮人を見れば殺しても差し支えない」と殺害のお墨付きを得たと思い込んだ自警団が、警察への襲撃をもいとわなくなったと考えられます。

 なお警察が自警団から朝鮮人を保護するのに成功した場合もあります。 鶴見警察署長の大川常吉で、韓国の『中央日報』が記事にしていますね。 https://japanese.joins.com/JArticle/308500?sectcode=A10&servcode=A00

【追記】

 当時の記録を読んでいると、自警団が警官を朝鮮人と誤認して襲うという事件がいくつか出てきます(寄居事件など)。 なぜ誤認したのかというと、朝鮮人は白衣を常用していたので、日本人から見れば〝白い服を着た人=朝鮮人″というイメージがありました。 一方、警官の制服は夏冬用の二種類があり、夏の制服は白色だったのです。 大震災は9月1日ですから、警官は白の制服を着ていたので、朝鮮人と誤認したのです。 

 白の制服といえば当時の海軍も白の軍服でした。 ですから海軍の人が被災地を訪れた際に、朝鮮人と疑われたという記録があります。 そんなこと、誤認するものなのか?と思われるかも知れませんが、記録を見る限り、本当に誤認したとしか言いようがありません。

 自警団は警官や海軍軍人と朝鮮人との区別もできないほど混乱していたのです。 〝白い服を着ていれば誰であれ朝鮮人だ″となったようで、〝自分は警察官だ″と言っても、自警団は信じずに〝警官の服を着た朝鮮人に違いない″と言い返したという記事がありました。

 自警団は「朝鮮人は殺してもいい」というデマを信じ込んだことが引き金となって冷静さを失い、集団狂気状態になったと言えるのかも知れません。 

【拙稿参照】

朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/05/9615245

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/31/9613843

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591

関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/21/9611387

関東大震災―自警団を擁護した政治家の発言2023/09/15

 関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺事件について、マスコミのほとんどが被害者側に寄り添った記事ばかりを出していて、加害者側である自警団の言い分を出していません。 過去の歴史を見る時、一方の立場だけを知るのではなく、対立する立場の見方も知って検討するのが筋だと私は考えています。 そこで拙コラムでは、自警団側から出た「詰問状」なる文書を紹介しました。  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/05/9615245

 これは当事者から出た文書ですが、それ以外に自警団側に立った政治家が、国会質問という形で自警団を擁護する発言していたので、これも紹介します。 政治家は憲政会・立憲民政党所属の永井柳太郎で、大日本育英会(後の日本育英会、現在の日本学生支援機構)の創立者として有名です。 彼は大震災の三ヶ月半後の12月15日に、国会で質疑演説をしています。 引用に当たっては、分かりやすくするために一部書き改めています。

政府はこれらの朝鮮人を保護し、指導し、教化することにおいて全力を尽くさねばならないのでありまして、平常の時におけるよりも、ことにそのことが大切なのであります。 しかるにこの度の大震災に際しまして、政府が朝鮮人を保護し指導すべき処置を過まったがために、遺憾なる事件を出来(しゅったい)したのであります。

最近政府のなすところを見ますと、しきりに各地におきまして自警団を検挙して、その検挙せられたる者がすでに数千名に達している。 起訴せられたる者、また数百名の多きを算しまして、鮮人事件の全責任は、ただただ自警団にのみ存するがごとき感があることは、私のすこぶる怪訝に耐えないところであります。

私はかの震災当時において、人心が不安に耐えなかった時において、鮮人襲来の報道に接して、ただでさえ不安に耐えなかった人心がますます不安に満たされました場合に、各地に自警団が組織せられて、それらの自警団の人々が身を挺して公安維持の大任に就きたることに対しては、衷心より感謝すべきであるのみならず、我々日本国民は、一旦緩急あるに際しては、各々出て国難に当たる精神を失わざることを見ざるを得なかったのであります。

故にその自警団に属して、公安維持の大任に就きたる者のなかで、特に功労ありし者は、その功労に対して政府が適度に表彰をして、それによってますます義勇奉公の精神を鼓舞し、社会奉仕の思想を激励するこそ当然と思うのでおりましたのに、そのこと、いまだ行われずに先立って、かえって自警団検挙のことが起こって、鮮人事件の全責任は挙げて自警団に存するがごとき感があることは、国民思想の向上発展のために、私はこれを悲しまざるを得ないのであります。

 自警団に「事件」の全責任を被せるな、自警団は「公安維持の大任に就いた」のであってその功績を認めよ、という主張です。

 次に、国家最高機関からの指示命令があったからこそ自警団は組織され「事件」が起こったのであるから、その責任を糾弾すると言います。

その時の内務省が各地の地方官にあてて発しましたところの電報(9月3日早朝発信)をここに写して持ってきております。 ‥‥「東京付近の震災を利用して、在留鮮人放火、投弾、その他の不逞手段に出んとする者あり」 「鮮人は不逞の行動を敢えてせんとす。現に東京市内においては、放火をなし、爆弾を投擲せんとしてしきりに活動しつつある」 「東京地方震災を利用して、鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんと既に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎ放火せる者あり。‥‥鮮人の行動に関し、厳密なる取り締まりを加えられたし」

こういうような電報がその当時の内務省の最高官から発せられましたので、その命令に接したところの各地の地方長官はまたその命令を管下の郡役所に伝え、管下の郡役所はまたこれを管下の町村に伝達することに努めました結果、かの自警団の組織を見るに至ったのでありまして、自警団の組織は明らかに国家の急に応じ、公共の安寧を保持せんとする赤心に出でたるものであることは、一点の疑いもないのであります。

自警団に属する人々の活動は、ひとえに平素より信頼する官憲の報道を信じ、官憲の命令を奉じたるの結果に過ぎないのでありますから、もし自警団に罪ありとすれば、国法に照らしてこれを処断することは私、もとより拒むものではないが、その自警団をしてその罪を犯さしめたる、当時の官憲そのものの責任、またこれを糾弾せざるを得ないと言うほかない。

もし、当時この報道を出した者が何らの責任なく、この報道が事実であったとしてもこれを許すならば、その命を奉じて公安維持の大任に当たった自警団の人々もまたこれを許し、特に罪状ある者もまたこれを酌量するのが当然ではないかと思うのであります。 (以上 『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房 1963年10月 478~480頁)

 その主張をまとめますと、政府最高機関から各地へ朝鮮人が「放火、爆弾投擲その他の不逞行動」をしているというデマ情報を流した、だから自警団を結成して「公安維持の大任」を果たすべく立ち上がった、この自警団の行動は「国家の急に応じ、公共の安寧を保持せんとする赤心に出たるもの」であり、悪意はなかった、ということです。

 そうであるのに政府機関の責任を問わず、すべての責任を自警団だけに負わせるのは間違いだ、自警団を許しあるいは酌量すべきだ、と訴えています。

 簡単に言うと、虐殺事件のきっかけを作って煽り立てた国家にこそ責任がある、だから実行者である自警団への処罰を軽くせよ、ということですね。 100年経った今、虐殺事件の国家責任を叫ぶ人たちがいますが、これと重なって見えます。

今回は自警団側を擁護した当時の政治家の発言を紹介しました。 朝鮮人虐殺事件を考える際の材料としていただければ幸いです。

【拙稿参照】

関東大震災―自警団は警察も襲撃した http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/10/9616540

朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/05/9615245

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/31/9613843

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591

関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/21/9611387

水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265

水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282

関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058

関東大震災の朝鮮人虐殺  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009

関東大震災の日本人虐殺  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607

関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629

「十五円五十銭」の練習―こんな在日がいるとは!? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/15/9347314

韓国人が台湾植民地支配を論じる(1)―『週刊朝鮮』2023/09/21

 日本は朝鮮半島だけでなく台湾も植民地統治をしていました。 しかし朝鮮と台湾とでは同じ日本の植民地支配を受けたのにも拘わらず、その植民時代の歴史をどう考えるかについて、大きな違いを見せています。 

 韓国ではもう一つの植民地であった台湾についてどう考えているのか。 韓国の週刊誌『週刊朝鮮』に台湾の植民地史についてちょっと詳しく書かれていたのがありましたので、訳してみました。

 なお論者は医学出身者で、退職後に台湾に語学留学した方です。 読めば分かると思いますが、専門は違っていても歴史についてかなり詳しいし、文才がおありのようで、まとまった文章になっていると思いました。 原文は『週刊朝鮮2756』2023年5月1日 58~62頁にあります。

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同じ植民地支配 台湾はなぜ日本に好意的なのか? キム・ウォンゴ ソウル大学胸部外科 名誉教授

李登輝(1923~2020)は台湾の第七・八・九代総理を歴任した有名な政治家として、台湾の民選総統であり、最初の本省人(台湾現地出身)総理だった。 日帝支配の時代、彼と彼の父はみんな創氏改名をした。 彼は日本を訪問するたびに靖国神社を参拝しながら、靖国神社を巡る論難は「中国と韓国が無理に作った問題」という主張も広げた。 また尖閣列島(中国名 釣魚島)を巡る紛争でも公開的に日本側に立つこともあった。 甚だしくは2015年のあるインタビューでは、「70年前には日本人として祖国(日本帝国)のために闘った」と発言することもあった。

もし我が国でこのような政治家がいたならば、その政治的運命はどうなっただろうか? 答えは聞く必要もないだろう。 もちろん李登輝もそんな親日行跡のために、生前に一部批判に揉まれたことはあったが、大体に大きな問題とならず、死後まで高い評価を受けた。

台湾総統官邸が日帝総督府の庁舎

国立台湾大学と国立台湾師範大学は、長い歴史を誇る台湾の代表的高等教育機関である。 それぞれ、1928年に設立された台北帝国大学と1922年に設立された台湾総督府台北高校を母体としている。 実際にホームページでも、その時からを開校年度としている。 反面、似たような脈絡の国立ソウル大学校の場合、日本植民地時代の京城帝国大学を中心に様々な官公私立専門学校などが統合されて設立されたと明らかにしているが、開校年度は厳然と解放後の1946年10月15日となっている。

台湾と韓国には、解放以降も植民地時代の総督府庁舎が残っていた。 けれど中央庁と呼ばれていた朝鮮総督府庁舎は日帝残滓清算過程の一環として、28年前である1995年に解体・撤去された。 しかし台湾総督府庁舎の場合、今まで台湾総統府(台湾総統の官邸)建物として使用され、変わらず威風堂々とした姿を維持している。

もう少し過去にさかのぼってみよう。 日本の昭和天皇(1901~1989、在位1926~1989)は、1923年に皇太子の身分で当時の植民地だった台湾を訪問し、熱烈な歓迎の中で12日間、汽車で台湾全域を回って視察した。 しかし、当時同じ植民地だった朝鮮の地は暗殺の危険性などでついに訪問できなかった。

同じ日本の支配を受けた韓国と台湾だが、一体なぜこのようなかけ離れた違いが生じたのか? 筆者はこのたび台湾国立師範大学に語学研修に消え、試験と面接を通して最上級クラスのうちの一つである「両岸差異面面観」という過程を受講することになった。 文字通りに中国大陸と台湾の間の各種の違いを多様な側面から探る授業だ。 ところで興味深いことに、台湾の歴史を扱うチャプターの討論項目中「同じく日本統治を受けたが、韓国と比較して台湾はなぜ日本を嫌わないのか?」という質問が入っていた。 もちろん授業時間も十分ではなく、クラス構成員のほとんどがヨーロッパ出身の学生たちなので興味を引くには難しいと判断したのか、先生の簡単な説明だけで進められたが、筆者としてはこの興味深いテーマをそのまま置いておくことはできなかった。

「反清復明」鄭成功の母が日本人

台湾が日本を嫌わない一番の理由は、日本の植民地支配以前にもすでに多様な外勢の占領を受けた経験があるからだ。 大航海時代が到来して、積極的にアジアに進出したオランダ勢力が1624年から1662年まで台湾を占領して、植民地支配をした。 その後、オランダ勢力を追い出して台湾を領した反清復明の闘士である鄭成功(1624~1662)も、台湾の立場から言うと厳然たる外勢であった。

長くない台湾の歴史で「鄭成功」という人物の登場の時から、もう日本との間の特別な関係が形成されたと見ることができる。 正しく鄭成功の母親が日本人であり、鄭成功自身も子供の時に日本で育ったためである。 このような背景を持った鄭成功であるだけに、自分の母国語に他ならない日本語に精通していて、台湾を支配する頃には日本と活発な交易に乗り出した。

同じ時期に、韓国と日本の関係はどうだったか?鄭成功が活躍していた時、朝鮮は数十万人の死亡者が出た壬辰倭乱(1592~1598 文禄・慶長の役)の痛手をずっと秘めていた。 戦争が終わって60年が過ぎて、国交も朝鮮通信使の訪日を契機に表面上は既に回復していたが、侵略戦争を引き起こした日本に対する反感は相変わらずだった。

明に続いて大陸を掌握した清は、名君康熙帝の頃に大規模に軍隊を派遣し、1683年についに台湾の鄭氏王朝を滅亡させた。 しかし、当時原住民たちと明に忠誠を誓った移住漢族たちで構成された台湾人たちの観点から見ると、清国はオランダとスペイン、そして鄭氏王朝に続くもう一つの侵略者に過ぎなかった。 清は台湾征服の次の年である1684年に台湾府を設置し、行政的に福建省に所属させたが、台湾を効果的に掌握できず、積極的な関心を寄せなかった。 反面、東アジアの戦略的要衝地である台湾に対する西欧列強の関心は19世紀まで続いた。 1854年に日本を開港させたアメリカ海軍のペリー(1794~1858)提督は、当時フィルモア大統領に「台湾は名目上清国の所属だが、実際に独立的な存在」という報告書を送り、アメリカの保護領としなければならないという主張もした。

その後の1895年の日本の植民地統治直前の状況も、台湾は韓国と完全に違った。 何よりも台湾は中国の一つの島にしか過ぎず、国家でなかった。 これに反して韓国はたとえ清国に朝貢をしてはいたが、政治的・経済的・軍事的観点から、台湾と違って厳然たる独立国としてのアイデンティティを持っていた。

台湾はわが国より15年前の1895年4月17日に日本の植民地となり、日治時代(日帝時代を指す台湾式用語として「日拠時代」ともいう)が始まった。 脱亜入欧の旗幟の元、ヨーロッパ列強と肩を並べるために国力を強めていたなかで、ついに日清戦争に勝利して、その対価として得た台湾の土地は日本としての会心の最初の植民地だった。 当時の日本は、自分たちも西欧列強に劣らず植民地経営をうまくやれるとして模範事例を作るために、最初から格別な努力を傾けた。 草創期に台湾に来た日本人たちの主力が企業家と投資家だったこともこのような理由のためであった。 彼らは立ち遅れていた台湾経済の活性化を通して、現地人たちの雇用創出と生活条件の向上に大きな役割を果たした。 当時日本の総理だった伊藤博文(1841~1909)は「もし我々が台湾経営に失敗するとしたら、日章旗も輝きを失うのだ」と言って、植民地支配を成功させるために奮発するよう促した。 (続く)

韓国人が台湾植民地支配を論じる(2)2023/09/26

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/21/9619300 の続きです。

 昔に韓国人は、台湾人も同じく日本植民支配に苦しんだのだから日本の歴史問題追及に同調してくれるだろうと思い込んでいたことがありました。 しかし実際に台湾人と話をしても、そんな話題にはならなかったと言います。 ですから韓国人が台湾の植民地史にさほど関心を持たなくなっているのが現状でした。

 今回の『週刊朝鮮』の論稿は韓国では珍しく、台湾の植民地時代とその後の歴史を扱い、自分たち韓国との比較を試みています。 自国と台湾との歴史認識の違いを冷静に見ているようで、私には好感の持てる論稿です。

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台湾で模範植民事例を作ろうと努力

もう一つ重要な事実は、当時日本は日清戦争で勝利した対価として得た戦争補償金で、国家財政に大きな余裕があった点であった。 1895年4月17日、日本の下関で締結された条約第4条には「清は軍費賠償金として、純銀2億両を日本帝国に支払うことを約束する」と明治されていた。 後日、日本が三国干渉で遼東半島を放棄せざるを得ないようになると、その代わりに追加賠償金を要求し、純銀2億両は全部で2億3400万両にまで増えることになる。 これは銀1万3000トンに当たるものすごい額で、当時の日本の7年間の税収に該当する金額だった。 このような豊かな財政を元に、台湾に対する積極的な投資がなされ、結果的に雇用率が大幅に増加するなど、台湾の全般的な経済状況が大きく活性化した。 鉄道、港湾、教育施設等、以前になかった社会インフラ構築も本格化した。 このように清支配の時代よりすべての生活条件が向上すると、満足する台湾の人も段々増えてきた。

細かいところの経済運営方針も優れていた 。当時の日本は台湾で砂糖と樟脳産業に多くの投資をしていたが(当時台湾は世界の樟脳生産の70%を供給していた)、植民地支配でよくみられる搾取のやり方ではなく、台湾のエリート層に彼ら所有の砂糖・樟脳生産施設を自分で運営できるように許容した。 さらに当時の台湾の経済はやはり日本で需要が高い換金作物に基礎を置いていたため、これまた日本の経済と補完しており、日本との利害がよく一致していた。

日清戦争賠償金で台湾に投資

反面、台湾が植民地になった1895年、わが国の事情は違った。 日々国力が衰退していく状況で、朝鮮の地に対する主導権をめぐって日本と清国の間で日清戦争(1894~1895)が起こっていた。 このために壬辰倭乱以降初めてわが国に入ってきた日本の大規模集団は、やはり台湾と違って軍人たちだった。彼らは戦争過程で清国軍人だけでなく、朝鮮の民間人たちも大量虐殺し、朝鮮人たちの反日感情を大きくしていった。 さらに日清戦争が終わって数カ月後である1895年10月8日には、日本人の浪人たちによって明成皇后閔妃が悲惨に殺害される乙未事変が起きて、日本人に対する怒りが更に一層加わった。

日韓併合の前年である1909年10月26日には、当時ロシアが清から租借したハルピンで、ロシアとの諸般懸案を解決するための会談をしようと訪問した伊藤博文を安重根義士が暗殺する事件が発生した。 これに刺激を受けた日本政府は、日韓併合以降万一の事態に備えて、常に軍出身の人士を朝鮮の総督として派遣する方針を定めた。 このために歴代朝鮮総督9名がすべて陸軍または海軍の大将たちで、彼らは抑圧的政策を繰り広げるしかなかった。 反面、台湾では初期には朝鮮と同じで軍の将軍たちが総督として派遣されたが、1919年から20年近い経済活性化と関連した民間人出身の総督が派遣された。

もう一つ、重要な変数となったのは日露戦争だった。 1904年2月8日に勃発したこの戦争は、日本が最初に予想していたことより、とんでもなく多くの軍事費がかかり、国家財政が危なくなるほどに困難に陥った。 莫大な戦争賠償金を受け取った日清戦争の時は違って、ロシアの頑強な拒否で戦争賠償金を一文も貰えない状況になった。 これは当時の日本の財政に大きな打撃を与え、日韓併合以降も台湾のように大きな投資をできない決定的理由となった。当時の日本は、日露戦争前には金で1170万ポンドの価値を保有していたが、戦争費用で何と4000万ポンドを支払わねばならなかった。 結局、不足分はイギリスとアメリカから借りるしかなく、こんな財政赤字が韓国への新規投資を不可能にした。

そうなると仕方なく日本政府は朝鮮の開発に必要な費用を朝鮮から搾取したお金で充当しようとした。 鉄道や電話、学校などの基盤施設を作る時、台湾の場合は日本政府のお金で支援したが、朝鮮では韓国人の土地と財産などを搾取して、これを日本の事業家たちに転売する形で開発に必要な投資金を確保した。

さらに当時軍出身である朝鮮総督たちは、台湾の総督に比べて経営能力が劣っていた。 当時の日本が韓国で行なった大規模投資産業の中に、木綿と牧畜業があった。 しかし当時の米作をする土地も不足していた朝鮮で、このような計画が成功するはずがなく、結果的に米不足事態まで誘発し、飢饉に苦しめられるようになった。 1936年の統計を見れば、当時の日本政府は日本人たちから一人当たり平均12~13円の税収を納めさせ、台湾人たちには一人当たり4~5円を納めさせた反面、朝鮮人たちには辛うじて2~3円しか納めさせることができなかった。 このような劣悪な状態の朝鮮経済は、日中戦争(1937~1945)が勃発すると、日本政府が朝鮮半島を戦争の拠点として、数千人の朝鮮出身労働者を軍需工場に投入し、さらに奈落の底に落ちた。やがて太平洋戦争(1939~1945)まで始まると、朝鮮で生産される米の相当部分が軍用に略奪され、朝鮮民衆の飢饉をさらに深化させた。 そうであるが、台湾の場合には戦争によって日本と台湾との海上運送が思わしくなくなって、台湾としては幸運にもこのような略奪から逃れることができた。 (続く)

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 やはり韓国人が論ずる朝鮮植民地支配は過酷でなければならず、そのために首を傾げざるを得ないような歴史を語っておられますねえ。

 朝鮮総督府は各地に水利組合を設立させて灌漑事業を促進し、また化学肥料の普及や品種の改良もあったので、反収生産量はかなり上昇しました。 また米不足になったのは、換金作物として日本(当時は内地)に輸出し、代わりに満州等から雑穀を輸入するという経済構造が原因です。 朝鮮人民の主食は、昔から米よりも雑穀でしたからねえ。

 1910年の日韓併合以前にたびたび起きた飢饉による大量餓死者の発生は、植民地時代にはなかったと思いますが。

韓国人が台湾植民地支配を論じる(1)―『週刊朝鮮』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/21/9619300

【拙稿参照】

朝鮮の雑穀食              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/01/11/1107420

日本の白米至上主義           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/01/06/1095566