北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1)2024/04/24

 北朝鮮のスパイであり日本人拉致犯であった「辛光洙」について、韓国の雑誌『週刊朝鮮』にちょっと詳しく解説されていました。 北のスパイが日本でどのような工作(スパイ)活動をしていたのか、私も関心のあるところです。 韓国語を忘れないためにも、翻訳してみました。 ところどころに私の説明を挟みます。

北に堂々と送還されたスパイ辛光洙 日本人拉致も彼の作品だった  (『週刊朝鮮』2803号 2024年4月8日 36~39頁)

2000年9月2日午前10時ごろ、板門店を通して63人の、いわゆる非転向長期囚が北朝鮮に送還された。 言葉は非転向長期囚であるが、北朝鮮の南朝鮮革命戦略を遂行するための破壊・転覆活動を行なって検挙された武装共匪(パルチザンを含む)や南派(南朝鮮に派遣)されたスパイたちだ。 北朝鮮は板門店の北側地域の統一閣にキム・ヨンスン(金容淳)党対南担当秘書、キム・イルチョル(金鎰喆)人民武力相、子供たち(花童)など500余人を整列させて、いわゆる革命英雄たちの機関を熱烈に歓迎した。朝鮮中央TVから、彼らの送還を平壌に中継した。 彼らの中には、死刑宣告を受けた、日本迂回浸透スパイであるシン・グァンス(辛光洙)が含まれていた。 辛光洙とは、誰なのか?

 「金容淳」はかつての北朝鮮ニュースによく出てきていましたねえ。 私にはちょっと懐かしい。 「花童」というのは、北朝鮮での歓迎式なんかに花束などを持って並んでいる子供たちのことです。 日本語で何というのでしょうかねえ、

辛光洙は1929年6月27日、日本の静岡県で出生した。 日本に徴用で引っ張られて来た父と母がそこに居住していたためである。 彼が16歳になった1945年、光復(解放)後すぐに家族は帰国した。 1948年、辛光洙は浦項中学校(慶尚北道)に通っている時に、いわゆる2・7闘争(左翼暴動)に加担し、警察の追跡を避けてソウルに逃げ、普成中学校(ソウル)4年に編入した。 1950年6・25南侵戦争(朝鮮戦争)が勃発するや、北朝鮮軍の義勇軍に自ら入隊し、越北した後、北朝鮮軍下士官として戦争に参加した。

 2・7闘争とは、政府樹立のために南朝鮮で行なう予定だった選挙に反対するために南朝鮮労働党が起こした暴動。 この2カ月後に、済州島で4・3事件が起きました。

朝鮮戦争後、功績を認められて1954年10月にルーマニアのブカレスト工科大学機械学部に入学し、1960年に卒業するまでの6年間、滞在した。 帰国後、政務院(現在の内閣)傘下の科学院機械工学研究所で研究技師として在職した。 1971年2月に中央党に召喚されて人民武力部(現在の国防省)偵察局傘下の対南工作機関である198部隊所属として2年5ヶ月間、スパイ訓練所である清津招待所で工作員教育を受けて、対日工作に投入された。

六回にわたって成功した日本浸透工作

辛光洙は1973年から1984年までの12年の間、何と六回も日本に浸透し、成功的工作任務を遂行した。 このうち三回は日本人の身分を盗んで合法の形で浸透した。 第一回の浸透は、1973年7月2日だった。 北朝鮮の元山連絡所(スパイ浸透基地)で無電機と米国紙幣2万ドルなど、工作の道具を準備して工作船に乗り、日本の石川県猿山海岸に浸透した。 任務は北朝鮮に帰国した者の縁故家族を包摂(抱き込む)し、日本内に地下組織を構築することだった。 辛光洙は浸透後、大阪に移動し、帰国者の縁故を使って工作対象者であるホン・ギョンセン(65 女)を探す。 1961年、北朝鮮に帰国した一人息子のイ・ジンベ(45)の写真と自筆の手紙を渡して、協力しなければ北朝鮮の息子の身の上が危なくなると言って脅迫し、包摂した。 彼女の斡旋で近くの履物工場に配達員として就職し、朝鮮総連系のキム・チャフン(51)を紹介されて、彼の義父であるウン・ムアム(79)が管理する観光地有料道路の通行料徴集員として再就職して、活動拠点を確保した。 辛光洙は大胆にも、1960年1月に北に帰国したウン・ムアムの次男のウン・ヨアン(43)を人質に、同じ手法で彼を包摂した。

 北朝鮮スパイが敵国に密入国して活動することを「浸透」、敵国内でのスパイ活動を「工作」、自分の味方に引き込んで組織の一員にすることを「包摂」と言うのですが、日本人には馴染みにくい言葉です。 「包摂」は左翼用語の「オルグ」が一番近いですかねえ。

縁故を利用した工作で、縁故者家族を包摂

また縁故を利用した工作で、朝鮮総連系の在日同胞であるコ・ギウォン(高基元 52)を通して、大阪の朝鮮総連系の初級学校長出身の衣類商のキム・キルウク(金吉旭 57)と彼の義弟のイ・ジェヒ(37)まで包摂した。 辛光洙は彼らを民団(在日本大韓民国団)に偽装転向させて韓国に自由往来する道を開き、韓国にいる親戚や友人たちを包摂して地下組織を構築するよう指示した。 これは北朝鮮のスパイ網を扶植する典型的な手法である縁故線工作である。 すなわち血縁と地縁などの縁故関係を媒介に包摂するやり方である。

 ここまでが第一回目の「浸透」「工作」活動です。 ここでは触れていませんが、辛光洙はこの時に東京で「朴春仙」という在日女性を騙して同棲し、そこを活動拠点としました。 彼女は後に『北の闇から来た男』という本を出版して、その時の様子を明らかにしています。 「金吉旭」は日本人拉致の実行犯で国際手配されていましたが、最近韓国で死亡したと伝えられました。  (続く)

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック