こんな学生さんがいるのですねえ2024/07/02

 今日のハフポスト日本版に「日本の植民地支配は『現代人には関係ない』のか。エンタメ・美容・食だけじゃない、韓国の街と市民運動に学ぶこと」という長ったらしい標題の記事が出ました。 https://news.yahoo.co.jp/articles/477f9a81112b7f753b27b4af60674ff2eb0c663f 

 今どきこんな学生さんがいるのだな、珍しいなあなどと考えながら読んでいると、2年半ほど前に書いた拙ブログを思い出しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/11/06/9437960 

 この時に週刊朝鮮の編集後記に出てきた日本人学生さんの言っていることと、今回のハフポストに出てくる学生さんの発言がほとんど全く同じです。 ということは、同一の日本人学生グループのようです。

 彼らは一橋大学のゼミ生と思われますが、資料を悉皆調査して研究するのではなく、社会に主張することの方に重点が置かれていると思われます。 しかも「現代人には、差別と排除の構造を解体していく責任がある」などと、上からの目線で大人たちに要求するような意見ばかりが前面に出てきています。

 ゼミならば教官は、賛成意見も反対意見もすべて収集して検討することを学生たちに指導すべきだと思うのですが、どうなんでしょうか。 テキスト自体が偏ったものを使っているのではないか、あるいはゼミ自体が運動団体化しているのではないか、という疑問を抱きます。

 4年前の毎日新聞に、「在日コリアン『差別生んだのは、私たちの社会』 京都女子大ゼミ生学ぶ 座学や学校訪問、一から理解深め」と題する記事が載り、拙ブログでも取り上げました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/15/9141168 

 よく似た大学ゼミが日本の東西にある、ということなのでしょうかねえ。

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2)2024/07/05

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684 の続きです。

https://www.youtube.com/watch?v=XlKtYk_nQR0&t=18s

職業選択権がなかった陶工たち (4:18)

それでは、この陶工たちはどのようになったでしょうか? 磁器製作は技術を学ぶのに時間が多くかかります。 また安定的な磁器供給のためには、官窯に適正人員が常に必要だったでしょう。 だから官窯で陶器を作る陶工たち、沙器匠は世襲職になります。 1542年に編纂された法令集があります。 『大典後続録』という法令集ですが、これを見ると沙器匠はその業を代々に世襲すると規定されています。 また先ほど申し上げた『経国大典』には、王室磁器管理機関である司甕院、「司甕院」といいます、この司甕院所属の沙器匠の人員を380人に規定しました。 定員が380人で、これを維持しろという意味ですね。 最初は全国の沙器匠1140人を3年単位で選び出して交代させました。 

ところでこれは粛宗の時に、最初から官窯の周辺に村を作って暮らす専属職人たちで官窯を運営しました。 どういうことかと言いますと、職業選択の自由、居住地移転の自由が剥奪された世襲職人だったという意味です。 この人たちは窯を焼く木を探して 京畿道広州のなかを移動し続けて窯を築き、陶器を作りました。 320基を越えました。 今発掘調査されたものだけです。 この広州内の窯周辺には、沙器匠たちとその家族で大きな村を成しました。

 文禄・慶長の役以前の15世紀の朝鮮では、陶磁器の公的生産機関として官窯が整えられました。 なお後述しますが、慶長の役の際、日本軍はこの官窯がある広州には至っていません。 ということは広州官窯の陶工は、日本に連行されなかったのでした。

飢え死にした陶工たち (5:47)

ところが1697年のある春の日、その広州で陶工39人が一度に飢え死んだのです。 どうしてそうなったのでしょうか? 陶工はその職業が賤しい工人です。 身分は賤民であったり、平民であっても賤民扱いを受ける「身良役賤」の人たちが大部分でした。 彼らは陶器を焼くという業務以外には、何の仕事もしてはならないのでした。 1697年、広州の官窯から中央政府に送った報告書には、このように書かれています。 「彼らは農業や商業で生計を立てる道がなく、昨年は私的に陶器を焼くこともできず、みんな飢えるようになりました。」 一人二人でもなく、40人にもなる専門職業人が一度に飢え死んだのです。 飢え死にした者は39人であり、力尽きて動けない者が63人です。 家族がちりぢりになった家が24戸出ました。 残った人たちも、陶器を作れない境遇だったといいます。

 李朝時代、朝鮮では陶工は身分が「賤民」であったことは覚えておかねばならないことです。 「조선팔천(朝鮮八賤)」に「공장(工匠)」があって、これに当たるのではないかと思います。 汗水流して働く肉体労働者は、奴婢なんかと同じ賤民階級だったのです。

官窯から逃亡した者はむち打ち百回、そして懲役3年の刑に処罰されるという、そんな規定もあります。 それくらいに辛かったために逃亡した人がいて、そのために逃亡した人を処罰する規定まであったくらいに辛かったという話です。 朝鮮政府は守ることのできない法で、耐えることのできない義務を、国家の需要のために強制していたのです。

この報告書に、こんな話が出てきます。 「사번」私的に陶器を焼くことができなかったという件が出てきます。 個人用途で陶器を焼いてはならない。 つまり官窯にある器物と装備を使って、私的に陶器を焼いて売って自分の生計維持をしてはならない、ということです。 国家の財産と施設で個人の利得を手に入れた犯罪行為、犯罪だとして処罰する、としていたのです。 しかしながら、こんな状況で「사번」個人用途で器を焼くことは公公然に行なわれ、黙認された慣行となっていました。 なぜなら農業もできないようにして、農作業も商売もできないようにするのですから、そこにある装備、遊休装備を利用して私的利得、営利行為をすることを黙認してきたのです。 ところがこれを公式的にちゃんと禁止し始めたのでした。 

 「사번」が何なのか分かりません。 普通は「四番」となるのですが、それでは意味が通らないようです。 煩わしいという意味の「事煩」もありますが、これも意味が通りません。 分からないので、そのままハングルで表しました。

禁止された営利行為、技術の失踪 (8:26)

集団餓死が起きて57年が過ぎます。 1754年7月17日、当時の国王英祖がまたこのように宣言します。 竜が描かれた王室用の陶磁器の他に青花白磁生産を禁じると命じます。 この価格の高い回回青顔料が奢侈の風潮を助長するという、そんな理由でした。 よくご存じのように、英祖は潔癖症と言われるくらいに質素でした。 本人だけ質素でしたらよかったのですが、社会全体にこの質素を強要したのです。

英祖はまた次のように話します。 「技巧と奢侈の弊害を防ぎ、職人たちの仕事を減らす、装飾のついた扇の製作を禁止する」と。 社会内でお金が回り、生産活動を維持しようとするなら、高級製品も作られねばなりません。 ところが英祖は最初からすべてのものを禁止する方向に、国家経済を主導していったのです。

 これは日本では質素倹約を旨として贅沢禁止を命じた〝寛政の改革″と同じようなものなんでしょうねえ。 高級品を作らなくなったら、生産技術は低下するということです。なお英祖がこのような贅沢禁止令を出したというのは、ちょっと調べてみましたが、分からなかったです。

英祖に続く正祖も、政策は似たものでした。 在位15年目の1791年9月24日、正祖はこのように命じます。 「怪異な陶器を秘密裏に作った者は処罰せよ」。 そして4年後に正祖はまた次のような命を下します。 耐熱製品、「匣鉢」と言います、「匣鉢を蓋にして塵や破損を防ぐ高級磁器の製作を禁じる」。このように蓋をかぶせて使う陶器を作る行為を「匣燔」と言います、こう言えば、もう少し高級な製品が連想されるのでしょう。 そしてこれを禁止したのです。

 「匣鉢」「匣燔」なんて全く知らなかった単語です。 本文で説明してくれているので、意味は分かります。 韓国でも一般人は知らない専門用語なのでしょうねえ。 次からは「匣鉢」を「蓋付き高級磁器」、「匣燔」を「高級磁器製作」と訳します。

そして正祖がこの官窯に人を送りました。 この官窯に御史(地方行政を監視する官吏)を派遣して状況がどうなのか調べて来いと言ったのです。 そうしたら御史は戻って来て高級磁器製作を許容すべきだ、高級製品を作ることができるからと報告します。 そうしたら、この御史を「とんでもない」として義禁府(大罪人の取り調べを行なう官庁)に引き渡して取り調べをさせます。 高級磁器製作を禁じ、御史監察を指示した理由はこうです。 「陶器の浪費は奢侈風潮の一面である、高級磁器製作を禁止すれば沙器匠たちは利得できないとは、これより怪しいことがあるだろうか?」

すでに7ヵ月も前に高級磁器製作禁止問題が案件に上っていました。 御前会議で、です。 朝廷ではこのような合意がなされていました。 どういう合意かといえば、「以前にもそれなりに生計を立てていたはずなのに、困っているとは敢えて言えないのではないか。」 だからどのように生計を立てていようがいまいが知らないし、ともかく高級磁器製作することを禁止するというのです。

 「御史」とは暗行御史のことで、地方行政を監視するために秘密に派遣した国王直属の官吏です。 韓国ドラマの時代劇に時おり出てきますね。 

 高級磁器を生産しなくなったということは、そんな技術がなくてもできるキムチ甕などの日常雑器ばかりを生産したということです。 ただし官窯ですから、納入先は朝廷に限られます。

もっと本質的な理由がありました。 技術者だけに差別的に適用されるという、偽善的な倫理と法です。 「사번を許容すれば貴賤の区別がなくなり、法秩序が確立しない。」 사번を許容すれば、その者たちは金儲けをするようになる、そうなれば貴賤の身分区別がなくなり法が確立しない、というのです。 これが正に国王の正祖も言だったのです。 賤しい沙器匠が利益を得れば規律が守れない‥‥そんな社会のなかで、先端窯業技術者が飢え死にしていったのです。 技術者が死ねば、技術も一緒に死にます。 (続く)

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3)2024/07/10

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602 の続きです。

https://www.youtube.com/watch?v=XlKtYk_nQR0&t=18s 

技術放置の惨酷な結果 (11:42)

 原文は「放置」ですが、「放ったらかし」あるいは「無視」「軽視」という意味ですね。

先端磁器製造技術の保有国がその技術者と生産品を軽視した結果は惨酷でした。 1597年の丁酉再乱(豊臣秀吉の慶長の役)の時、日本の将軍たち、鍋島直茂そして島津義弘は行く先々で朝鮮の沙器匠を大挙して連行していきます。 朝鮮の記録では連行したとなっていますが、日本の記録では自発的に応じて行ったとなっています。 この日本軍が荒らし回った慶尚道と全羅道、忠清道、咸鏡道、江原道です。 官窯がある京畿道広州は含まれていませんでした。 ですから各地域で民窯を運営していた沙器匠が大挙して拉致された、という意味です。 

 ここは私が知らなかったところで、慶長の役の際、鍋島や島津などの日本軍の進軍経路には確かに京畿道広州はないですねえ。 ですから官窯の陶工たちはこの時に日本に連行されなかったということです。 日本軍が朝鮮人陶工を連行したというのは、民窯の陶工(沙器匠)だったということは間違いないでしょう。 従って官窯の陶磁器生産技術は奪われることなく残ったのでした。

 ところで先述したように官窯では定員が1140人から380人に減らされたのですから、排除された陶工たちは各地の民窯に行ったものと考えられます。 そこには官窯の白磁生産技術を持った陶工も含まれていたでしょう。 ですから日本軍が民窯の陶工を連行した中に白磁を焼くことを知る者がいたと推定できます。 さらに彼らが日本で有田焼や薩摩焼の白薩摩など、磁器生産を始めて発展させたと思うのですが、どうでしょう。

 なお日本の進軍経路に「咸鏡道」が入っているのは、その前の文禄の役のことと混乱したと思われます。 文禄の役では加藤清正が咸鏡道まで進軍しましたが、慶長の役では日本軍は朝鮮半島南部に限られます。

その連行された陶工たちが本国朝鮮に帰還したという記録は、どこにもありません。 しかし本人たちが本国送還を拒否したというのは、日本の記録はもちろん朝鮮通信使の記録にもたくさん出てきます。 理由は十分に考えられるでしょう。 朝鮮では名前を残せなかった朝鮮沙器匠の後孫たちが、日本では「李参平」「沈壽官」、このような名前になって、今もその後孫たちが活動しているのですから。 朝鮮では無名でしかなかったあの賤しい身分の人たち、ひょっとしたら飢え死ぬ運命に置かれたかも知れないあの人たちが日本に行くと、とてつもなく素晴らしい製品を作っているのです。

소지등록という書類があります。 旧韓末(19世紀末~20世紀初)に外交担当部署である統理衙門の書類を集めた文書です。 1891年2月16日付けに、李ポンハクという人が建議した内容が記されています。 内容は次です。 「我が国の職人は100種の製造技術が極めて遅れていて、特に沙器匠・陶工が深刻なので、外国製品に押されて廃業するのが多数である。 だから日本の職人二人を雇用して学ばせたいのでご許可を願いたい」。 はっきり言って、ゲームは終わったのです。 あのように白磁と青磁を生産していた彼の国は影も形もなくなり、日本から学ばねばならないから許可をくれ、というのです。

 「소지등록」というのが、どこを探しても見当たりません。 仕方なくハングルのままにしました。

 結局、朝鮮はかつて白磁・青磁を生産するほどの技術があったにもかかわらず、その技術は消滅し、今や日本からそれを学ばねばならなくなったのでした。

このような状況を1900年のロシア政府の調査団が次のように要約します。 「韓国人たちは製造技術の分野ではかつて隣国の日本人たちの師匠だった。 日本は陶器や漆器などを韓国から学んでいった。 しかしそれから、韓国人たち自身はこの製造技術を完成させることができなかっただけでなく、過去の水準を維持する能力さえ持たなくなった。 最近ではさらに退歩して、ほとんど例外なく悲しい状態に置かれている。 現在の粗雑な磁器製品を見れば、かつて日本人たちが韓国人たちからその技術を伝授されたということは想像できない」ということです。

1881年です。 調査視察団、紳士遊覧団といいます。 その調査視察団の団員として日本に行って来た若い官僚、魚允中が高宗に次のように報告します。 「日本に何か隠し事があるのかどうかは我々の問題であって、彼らの問題ではない。 我々が富強の道を歩むようになれば、彼らはわざわざ隠し事をすることはない。 隣国の強さは我々には福ではない」と言うのです。

 最後の「隣国の強さは我々には福ではない」という魚允中の言葉は、おそらくは、日本が強国であれどうであれ、まずは自国が強国とならねばならない、だから日本に頼ろうとしてはならない、強国の日本は我々には幸福をもたらすものではない、という意味と思われます。

あきれたことに、後日高宗は、皇帝になった高宗は、強国となった隣国の陶器会社であるノリタケに大韓帝国の李花模様の入った湯器を注文して使ったのでした。 先端窯業技術国家の完全な没落です。

いま私たちは「朝鮮」でもなく「大韓帝国」でもありません。 我々はこの技術を持って世界で活動している「大韓民国」で暮らしているのです。 「地の歴史」 パク・ジョンインでした。 

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602 

【追記】

 日本に連行された朝鮮人陶工は、「李参平」「沈壽官」という名前で有田焼や薩摩焼を興しました。 このうち沈寿官については、司馬遼太郎が『故郷忘じがたく候』という小説にしており、これに基づいて最近「ちゃわんやのはなし」という映画まで制作されました。

 司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』の題名は、江戸時代に京都の町医者が薩摩焼の村を訪ねた際に、村の庄屋さんである「伸侔屯」が「故郷忘じがたしとよく言われるが‥‥」と語ったのを聞いたところから取ったものです。(下記参照) 「故郷忘じがたし」は中世~江戸時代の日本の慣用句であり、庄屋さんはそれを口にしたのでした。 ですから自分の故郷を具体的に思い出したのではなく、世に〝故郷忘じがたし″という諺がありますが私も一度訪ねてみたいものです、という程度のものでした。

 先祖が日本に連行されてから200年、今風に言うと〝在日六世″あるいはそれ以上で、朝鮮に残っているはずの親戚らとは縁が切れています。 そして日本ではそれなりの地位を得て経済的にも安定した生活を送っていました。 果たして賤民身分として暮らした朝鮮の故郷を「忘れられない」という感情・感覚を有していたのかどうか、疑問です。

 しかし、司馬はこれを〝薩摩焼の朝鮮人陶工たちは日本軍に強制連行されてきたが、故郷をいつまでも忘れられずに民族を維持してきた″という風にアレンジして小説を書き、世に広めたと考えられます。 (終わり)

『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/02/9647749

『故郷忘じがたく候』の元となった逸話(2)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/01/09/9649336

【追記】

昨年12月11日と18日付けの『ハンギョレ新聞』に薩摩焼沈壽官のことが出ていましたので、ご参考ください。 日本語版は下記です。 朝鮮人陶工に関しての俗説・憶説を批判していますね。

https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48627.html

https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48692.html

朝鮮人陶工の歴史(1)―こうして歴史は作られる2024/07/15

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962 の続きとしてお読みください。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役―韓国では〝壬辰倭乱・丁酉再乱″)の際に、鍋島や島津などの日本軍は朝鮮人陶工を連行し、自領で陶磁器を焼かせたという歴史が語られており、最近映画まで制作されています。

 ところで鹿児島の沈壽官について、韓国の『ハンギョレ新聞』が通説・俗説を批判する記事を出しました。 2023年12月12日付けで日本語版が出ています。 https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48627.html  記事のタイトルは次のようです。

日本に拉致された「ある朝鮮人陶工の神話」…真実は本貫も族譜もわからない

ノ・ヒョンソクの時事文化財_拉致された陶工の神話を探る(1)

 この記事の中で注目すべきことは、『ハンギョレ新聞』は第15代沈壽官さんを取材し、その際に次のような質問と応答があったことです。

―沈壽官先生の先祖は朝鮮で陶器を作っていた職人だったのでしょうか。 それとも白磁を作っていた職人だったのでしょうか。

「日本に来た私の先祖の1代目の職人(沈当吉)は陶磁器を焼いた人ではないと考えています。 陶磁器も土器もどちらも作っていなかったようです」

 沈さんの初代先祖は陶工ではなかった、ということです。 それまで薩摩焼の起源は、〝島津軍が朝鮮人陶工を連行してきて陶磁器を焼かせた″ことから始まるという話だったのですが、それとは明らかに違っています。 ですから記者と同行した教授らは驚きました。

全く予想できなかった返事が返ってきた。7月29日、九州の鹿児島県みやま市にある陶芸家の沈壽官さんの窯の作業場の会議室で開かれた沈さんとの対談の場は、パン・ビョンソン教授の調査団のメンバーを当惑させ疑問を持たせた。

 『ハンギョレ新聞』は沈さんの発言に対して「全く予想できなかった返事」「当惑」「疑問」と驚いています。 ところが沈壽官窯の公式HPにある「沈家のあゆみ」には次のように書かれています。 http://www.chin-jukan.co.jp/history.html

「慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈 当吉はいた。 ‥‥見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で、祖国を偲びながら、その技術を活きる糧として生きていかねばならなかった。 陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したのである。」

 これを読めば、沈壽官家の初代(一世)である沈当吉は朝鮮で陶磁器を焼く陶工技術者で、その技術を持ったまま日本に連行された、と思うでしょう。 しかし当の子孫がそれを否定したのでした。 沈当吉は最初から陶工ではなかったというのです。 さらに沈さんは話を続けます。

「土器や陶磁器を作った人たちは姓もない賎民でした。 先祖の沈当吉には姓があり、幼い頃には讃(チャン)という名前もあったそうです。 400年前の朝鮮では姓を持つ人は一部だったと思います。 当時鹿児島を支配していた島津一族の軍が釜山(プサン)で捕らえて連れてきた捕虜をキンカイ、つまり『金海』と呼んでいました。 人の名前の代わりに釜山近郊の金海(キムヘ)の地名で呼んでいましたが、後にこれが彼らの姓になりました。 私たちの先祖は初代は陶工ではなかったと私は考えています。 焼き物(陶磁器)はここに来てからするようになったようです。 陶工が幼名を持っているなんてありえませんから」

 沈さんは、〝土器・陶磁器を作る人は「賤民」であって姓がなかった、しかし自分たちの初代である沈当吉には姓があり幼名もあった、 だから初代は賤民ではなく、もっと身分が高かった、そんな身分の高い人間が陶磁器を焼くはずがない″と話したのです。 彼は「私たちの先祖の初代は陶工ではなかったと私は考えています」と言い、陶磁器を焼くようになったのはそれ以降の世代だと語ったのでした。

 この沈さんの話が本当だとしたら、朝鮮の陶磁器は日本の薩摩焼の歴史につながりません。 薩摩焼は沈壽官家の二代目以降に新たに窯を開き、陶磁器を焼いたことになりますから断絶しています。 薩摩焼は「朝鮮をルーツに持ち‥‥」という説が広まっていますが、当の子孫がそれを否定したのでした。

 なお『ハンギョレ新聞』の記事では、「彼の発言は、日本国内の朝鮮人拉致陶工の本貫と現地への到着の経緯、作業活動の性格について、両国の学界とメディアでもう少し綿密かつ深層的な事実の探査が必要だということを示唆している」と、冷静にまとめています。

 沈さんがこのように発言するようになったのは、彼の先祖ルーツ探し活動と関係があるようです。 記事にはこうあります。

何よりも最近の沈さんの活動で目を引くのは、先祖のルーツを訪ねたことだ。昨年5月、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の就任式に招待された際、青松の沈氏の宗親たちに会い、金浦に先祖の沈当吉の父親の沈友仁(シム・ウイン)と祖父の墓地があるという話を伝え聞き、その年の7月に礼服を着て墓前に行き、法事を行い子孫であることを告げたのだ。

昨年と今年にかけて、本貫だと明らかにした慶尚北道青松(チョンソン)と、先祖の沈当吉が拉致されたという全羅北道南原、先祖の墓があるという京畿道金浦(キンポ)などの地を訪問し‥‥

 青松沈氏といえば、李朝時代に領議政(日本の太政大臣に当たる)を10人も出すのほどの権勢家で、両班(ヤンバン)中の両班です。 沈壽官さんはこの名門両班に列せられたのです。 両班は貴族階級なので、汗水流すような肉体労働を絶対にしてはならないものです。 しかし陶工はそれこそ汗を流しながら窯を焼くのですから、両班がする仕事ではありません。 それは賤民がするものでした。 

 ところが沈壽官家は両班に列せられたのですから、初代の沈当吉は両班でなければならず、賤民の陶工であっては困るわけです。 ここで上記の沈さんの発言が理解できます。 〝陶工は賤民であるから、両班である我が沈壽官家の先祖が陶工であったはずはない″という主張なのです。

 それでは、沈壽官家はいつ両班なったとされたのか。 それは次の記事で判明します。

青松の沈氏一族は数年間隔で族譜を再刊行しているが、2000年に発行された「庚辰譜」の族譜では言及されていなかった沈当吉が、2017年の族譜「丁酉譜」には、義禁府の都事などを担った沈友仁(1549~1611)の息子である讃の最初の名前として突然登場する。

 「族譜」とは「家系図」のことで、朝鮮では両班の族譜に登載されるとその宗族の一員となって両班になります。 つまり沈壽官家はほんの7年前の2017年に両班である青松沈氏の族譜に登載されて、両班階級の仲間入りをしたのでした。 

 それでは沈壽官家が青山沈氏であったというのは、どんな根拠に基づいているのか、です。 記事はこう書いています。

先祖が南原など朝鮮で活動した経歴について言及していた内容は、一族の口伝と陶工の沈当吉が拉致された朝鮮の本来の居住地を南原とした著名な作家の司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』以外には明確な根拠は見いだせない。 ‥‥本貫が青松で、南原で先祖が活動し、金浦に先祖の墓があることを示す朝鮮時代や日本の江戸時代の客観的かつ明確な記録と物証は存在しない。

 つまり根拠は、明確なものとしては司馬遼太郎が1968年に発表した小説『故郷忘じがたく候』だけなのです。 小説ですから、いくら歴史とはいえフィクションです。 56年前のこの小説が根拠となって、沈壽官家は7年前の2017年に両班階級に上り詰めたのでした。 

 そして『ハンギョレ新聞』は、取材に同行したパン教授の指摘を記します。

パン教授は「戦闘中に捕虜になった貴族階級の武官が日本に連行され、身分の低い陶工にすぐに転業した後、新たな技術を習得して原料を見つけて難易度の高い白磁を作りあげたという話は、常識的には不可能なことであり、日本のどの記録にもみられない」としたうえで、「いかなる歴史的物証も見当たらないにも関わらず、沈壽官一族の1~15代目を青松沈氏の族譜に唐突に編入させたことも納得できないこと」だと指摘した。

 確かにこの疑問というか批判は当然です。 『ハンギョレ新聞』は記事の最後で、次のようにさらに厳しく批判します。

検証された根拠もなしに族譜に先祖の系譜を入れるなど、事実を加工しているという疑惑を呼んでまで神話を作りだすことは、後世に耐えがたい歴史的混乱を招くことになりうる。

 この批判は正論だと考えます。 こうして朝鮮人陶工の歴史は作られるのでした。 (続く)

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602 

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962