HP開設27周年、ブログ開設20周年2026/08/06

 「歴史と国家」というタイトルでHPを開設したのが1999年8月でしたから、もう27年が経ちました。 そしてHPを休止してブログを開設したのが2006年6月でしたから、こちらはちょうど20年です。

【HP「『歴史と国家』雑考」】 【ブログtsujimoto】   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/

ブログ(現在進行中)                 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/

 HP論考集一覧(1999年~2013年)          http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/ronkoushuu

 ブログ論考一覧(2006年~2016年)         http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/burogu

 自分がこれまでやってきたことの整理というか、まとめをして残しておきたいという動機から始めました。 主に在日や韓国・朝鮮問題ですね。 他に歴史や部落問題などいろいろあります。 全くの私一人が営んできたブログです。 協力してくれる仲間がいるわけでもなく、また世間にアピールして同志を得ようとするものでもなく、あるいはまた収益を得るものでもありません。 アクセス数などにも気を使わずに、ただ書きたいことを書いてきただけです。

 書いた文章だけで評価してもらおうと思って、肩書・経歴・学歴・出身地・年齢なんかは不明のままにしてきました。 注目を集めようとするならそんなプロフィールを顔写真付きで出した方がいいようですが、そうするつもりが最初からなかったのでした。 〝書いた文章だけで評価して下さい”という思いで、だからこそ出来るだけ根拠を提示して信頼性を高めるというスタンスで押し通してきました。

 当初は自分が関わったことのある運動の矛盾、あるいは世間で話題になっていることを調べてみたら間違いを見つけたとか、社会的出来事に何かを感じたとか‥‥、そういう類のことをつらつらと書き綴りました。 そして書いているうちにすっかり忘れていたことを思い出し、そうなると関連して次々と思い出されてくるもので、それをネタにさらに書いてきました。 特に関心があったのは、在日や韓国・朝鮮の歴史において根拠の怪しい俗説が広まっていて、そんな俗説に基づく市民運動が盛んだったことでした。 私自身が昔にそんなウソ話を信じていた時期がありましたから、余計に力が入りますね。 市民運動は否定されるものではありませんが、事実をちゃんと検証してほしいものです。

 そんな次第でHPは8年間ほどやってきて休止し、代わりに20年くらい前から始めたブログでは週に一回くらい、月に5回前後のペースでやってきたわけです。 ただしHPやブログに書くというのは第三者に読まれることになりますので、それなりに緊張感を持ち、少なくとも根拠になるものをできるだけ提示して、間違いがないように心がけてきました。 皆さまに興味を感じていただいたとすれば、幸いです。

 拙ブログが他で引用・紹介されることは間々あるようです。 YAHOOやGoogle検索すれば、いくつか出てきます。 また本や雑誌・新聞では、「砧」に関して小泉和子編『ポッタリひとつで海を越えて』(合同出版 2024年9月)に紹介され、20年以上前ですが『朝日』のコラムに触れられたことがあります。 また「閔妃の写真」について『歴史通』2012年1月号で言及され、「旧石器捏造事件」について『邪馬台国116号』2013年1月に転載されたことがあります。 公刊されたものでは、27年間でこの程度ですね。 やはりどこの馬の骨か分からない正体不明の者が書いている論稿なんて、引用・紹介は躊躇されるものです。 けれども世間のどこかで拙HP・ブログが役に立ってくれていれば、私はそれで十分です。

 拙ブログがある程度の読者層を獲得しているのに便乗して、自分の主張を書き込むコメント投稿者がいることにはウンザリしました。 世に知ってほしい主張があるのなら自分でブログやX(旧ツイッター)なんかを開設すればいいのにねえ。 また自分はウソ情報を書いておきながら〝韓国はウソだらけ”なんて平気で書き込む投稿者もいました。 投稿する際には、自分の発言に矛盾がないか常にチェックしなければならないと思うのですがねえ。 またこのごろはほとんどなくなりましたが、いわゆるネトウヨとか言われる方の感情的な嫌韓投稿にも困ったものでした。 こういった投稿者はお断りするようにしています。 収益が全くないブログで〝お客様”というのが存在しませんから、「お断り」が出来るのです。

 ブログは私一人の運営でやってきました。 10年ほど前までは在特会とかいうトンデモない嫌韓団体に紹介されたらしくアクセス数がかなり伸びたこともありましたが、私にとっては迷惑な存在でしかなく、お断りしました。 また私自身が昔に左翼だったので、どうしてもそれへの反省というか批判が多くなり、だからでしょうが、ブログには右寄りの方からのアクセスが多いようです。 だからといって右に阿諛することはしませんでした。

 私はできるだけ根拠に基づいて書きたいことを書いてきたつもりです。 それは上述してきたように、ひたすら自分のためです。 それが27年ものあいだモチベーションを維持してきた秘訣かなあと考えています。 しかしこの先の人生が短くなってきているので、やり残しがないように全部吐き出して書いていきたいと思っているのですが、一方では段々と書くのがしんどくなってきていることも自覚しています。 当分はまだ続けるつもりですが、どうなることやら。 終わりは事前に挨拶せず突然に消えることになるでしょう。 つまり「黙って静かに去る」ということです。 目に見える〝ファン”がいないので、その点は気楽ですね。

【拙稿参照】

HP開設25周年 感謝       https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/08/13/9708658

HP開設20周年、ブログ開設13周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/08/02/9136362

HP開設17周年・ブログ開設10周年 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/10/8149051

HP開設16周年          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/09/06/7779581

HP開設15周年          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/08/08/7408861

『証言・北朝鮮帰国者』を読む(1)2026/08/13

 『証言・北朝鮮帰国者 祖国に渡った「在日」はどう生きたか』(集英社新書 2026年5月)を購読。 1959年末~1980年代初めにかけて北朝鮮に帰国し在日朝鮮人は9万3340人、そのうち北朝鮮を脱出した人は約600人、うち韓国にいる人は約400人、日本にいる人は約200人だということです。(460頁)

 600人のうち50人ほどにインタビューして、彼らから北朝鮮に帰国した時の事情や北朝鮮での生活・社会状況を聞き出して記録したのが今回紹介する『証言・北朝鮮帰国者』です。 かなり苦労してインタビューしてまとめたと思われる本で、読み応えがあります。 皆さまにも購読をお勧めします。

 脱北した帰国者の手記はこれまで何冊も出版されています。 私もいくつか読んでおり、内容的に今度の本(『証言・北朝鮮帰国者』)と重なる部分がたくさんあります。 初めて知る人には衝撃的でしょうが、すでにある程度知っている私には〝やっぱりそうか、そうだろうなあ”と思うことが多々ありました。 そんなところは皆様にはこの本を読んでいただくとして、今は私の知らなかったというか、新たな知識を得た部分を抜き出して紹介したいと思います。

ここで「ゲンゴロウ」について説明しておきたい。 北朝鮮に降り立った帰国者たちは、いつの頃からか現地住民を「原住民」「ゲンゴロウ」「アパッチ」などと陰で呼ぶようになった。 現地住民を未開で野卑だと見下していたことが想像できる。 「アパッチ」は、米国の西部劇映画でネイティブアメリカン(アパッチ族)が野蛮な未開民族として描かれたことの影響だと思われる。 

1960年に帰国し咸鏡北道に住んだ李淑子は「帰国者の子供同士で『ゲンチャン』『ゲンゴロウ』と言っていた」と振り返る。 大人の影響があったに違いないが、早き時期から帰国者の間でこの侮辱的言葉が使われていたわけだ。 

逆に現地住民からは「在日同胞」「帰国同胞」を略した「チェポ」「キィポ」、もしくは「チョッパリ」「半チョッパリ」という日本人に対する蔑称が投げかけられることがあったという。‥‥ いずれも、資本主義と日本の匂いを漂わせている帰国者に対する反感によるものだ。 祖国に帰った在日朝鮮人と現地住民の間に早くから溝が生まれていたことが窺える。 (以上、197~198頁)

「職場でゲンチャンに『チョッパリ』とやられるわけです」と金奎錫が言うように、帰国者が醸す「日本の臭い」に、大なり小なり嫌悪が向けられたことを記憶している人は多い。  (205頁)

 帰国者が北朝鮮現地の人を原住民という意味で「ゲンチャン」と言っていたのは知っていましたが、「ゲンゴロウ」「アパッチ」というのは初めて知りました。 どれも言葉自体に軽蔑的な意味が含まれていることに変わりありません。 また逆に現地の人が帰国者を「チェポ」「キィポ」と呼ぶのは「在胞」「帰胞」のハングル読みですが、それが蔑称だったのですねえ。 おそらく元は蔑称でなかったのが、軽蔑的に用いられるうちに蔑称になったものと思われます。 本国の人の在日に対する蔑称は、昔も今も一貫して「チョッパリ」「半(パン)ヂョッパリ」でした。

 なお参考までに北朝鮮ではなく1980年代の韓国の話ですが、「(芥川賞受賞作家の)李良枝は‥‥『刻』という小説に、在日韓国人の韓国留学生たちが、韓国人のことを『原ちゃん』、すなわち原住民と呼んでいることを書いて、韓国人の読者の憤激と顰蹙を買った」(川村湊『ソウル都市物語』平凡社新書 2000年4月 249頁)そうです。 在日が本国人を見る目というのは北であれ南であれ、変わらないものなのかも知りません。

 

帰国事業で日本から北朝鮮に渡った9万3340人の中には、約6800人の日本国籍者がいた。 日本人妻・夫とその子供たちなどだ。 このうち、日本人妻は約1830人というのが統計上の数字だ。

だが、国籍を問わなければ実際にはもっと多かったことは間違いない。 1959年4月、朝鮮総連は日本人妻が帰国する際に「国籍を離脱して、朝鮮国籍に編入しなくてはならない」の基本方針を打ち出した。 この方針と直接関連するのかは不明だが、本章に登場する小林秋子は北朝鮮に渡る前に日本国籍を除籍して「朝鮮籍」に変えている。 統計上は「朝鮮人」としてカウントされたはずだ。 ‥‥

1960年時点で、在日朝鮮人が日本人女性と結婚する割合は25%近くになっており、総連幹部や在日朝鮮人の著名人にも日本人女性と結婚した人が少なくなかった。 1830人という国籍統計上の人数をはるかに上回る日本人妻が北朝鮮に渡ったのは間違いないだろう。

人により事情はさまざまであったはずだが、日本人妻は、朝鮮人男性を伴侶として選んだ人たちである。 朝鮮人に対する民族的偏見や蔑み、貧困のため、親や家族に結婚を反対された場合が多く、中には絶縁された人もいた。 北朝鮮は朝鮮人の夫にとっては祖国であったが、日本人妻にとっては、言葉も風習も違う異国であり、また食べ物をはじめ極度に物資が乏しかったため、朝鮮人の夫以上の窮愁を味わうことになった。 (以上、238~239頁)

 帰国者のうち日本国籍者が約6800人ですが、それ以外に日本人として生まれながら日本国籍を離脱して「朝鮮籍」になった人がいました。 こういった人は血統的には日本人ですが、帰国事業では「日本人」としてカウントされませんでした。 朝鮮人と結婚した日本人女性が日本国籍を離脱し朝鮮籍になるのは法的に可能で、実際にそんな例は意外と多いようです。

 

総連は、帰国協定が日朝赤十字間で締結される前の1959年4月に、日本人妻を「朝鮮国籍」に編入してから渡航するよう方針を打ち出している。 それがあまり徹底されなかったことは、日本人妻の数が国籍統計上で約1830人にのぼったことから明らかだ。 さらに1961年7月、総連は日本人妻の「帰国」を抑制する方針に切り替えたとされる。 日本人妻が集団で「日本へ返してほしい」と請願する事件があったといわれ、金日成政権が、社会に馴染めない日本人妻を厄介者とみなした可能性がある。 (240頁)

 帰国事業の当初は妻も朝鮮国籍に限るとして、日本人妻は日本国籍を離脱して朝鮮国籍に編入させる方針でした。 しかし下記のように、金日成が有名人の永田絃次郎(金永吉)を呼んだといいますから、そんな規定は雨散霧消したと考えられます。 「あまり徹底されなかった」とあるのは、この永田の件があったからと推察するのですが、どうでしょうか。 

 また永田の妻は日本人で、自分を元の日本へ返すように動いたようです。 「日本人妻が集団で『日本へ返してほしい』と請願する事件があった」とありますが、その一人が永田の妻だったといわれています。 夫の永田も金日成に直接働きかけたようです。 この請願事件が問題となって、日本人妻の帰国を抑制するようになったと考えられます。   (続く)

 

【余談―永田絃次郎(金永吉)】

 永田絃次郎の経歴について、ウィキペディアや「美声のテノールに揺れるアイデンティティ―金永吉の名前と国籍の変転」(『金英達著作集Ⅰ』2002年12月 所収)などの既存の資料から簡単にスケッチしてみました。 なお彼の話は今回の『証言・北朝鮮帰国者』には出てきません。 

 戦前からテノール歌手として名声を博していた「永田絃次郎」(芸名 1909年生)はもともと朝鮮人の「金永吉」であったが、1939年に日本人の家に養子として入籍して内地人となり、名前も「北川永吉」(戸籍名)となった。 日本人女性と結婚して四人の子供が生まれたので、家族は永田も含めてすべて日本国籍であった。 しかし金日成が有名となっていた永田を呼んだこともあって、永田の六人家族全員は第六次帰国船(1960年1月)という早い時期に北朝鮮に帰国した。 北朝鮮では永田は当初は華々しく活躍し、功勲俳優の称号を受け、金日成に面会するほどであった。 しかし家族は北朝鮮での生活に馴染めずにかなり苦労したようで、彼はせめて妻子だけでも日本へ返してやってくれと金日成に頼み込んだが、拒否された。 1960年代半ばに消息を絶ち、粛清されたのだろうと噂された。 1985年に死亡したとされる。 ただし1990年まで政治犯収容所に収監されていたという話もある。

 また脱北者の手記(青山健煕『北朝鮮という悪魔』光文社 2002年9月)には、次のように北朝鮮での永田絃次郎の話が出てきます。

「伯爵夫人」とは旧家の日本女性で、夫の名は金ヨンギリと呼ばれていた。 平壌の「帰国者」たちは金ヨンギリ夫妻の家を「団長・伯爵」と呼んでいた。 それは金ヨンギリこと日本名ナガタゲンジロウ氏が朝鮮総連傘下に在日朝鮮人芸術団を結成し、その初代「団長」を努めたばかりか「帰国」事業が始まるやすぐ帰国船「団長」として「帰国」したということから、夫の金ヨンギリには「団長」という渾名があった。 夫人の出身が伯爵家であったか確実ではないが、旧家の出身ということで平壌の「帰国者」の多くが彼女を「伯爵夫人」と呼んでいた。 (97頁)

当時、文化会館では毎週土曜日の午後5時から名俳優たちの公演があった。 平壌の人たちはこの公演を《名俳優舞台》と呼び、常連も少なくなかった。 ‥‥ 意外なことに粛清されたと聞いた金ヨンギリが舞台に上がったのである。 私は自分の目を疑ったが、紛れもなく大阪で《箱根八里》をナガタゲンジロウの名で、帰国後はイタリア民謡を歌った金ヨンギリであった。 (118~119頁)

「金ヨンギリはまた出て来たね、噂に聞くとスパイ容疑があったとか」 ‥‥ 「本人じゃない、女房が日本人で日本に帰ると大騒ぎしたんだ」 「へえー。で、どうなったんだ?」 「どうもこうもねえ、帰らしちゃうと国の恥だ、静かな所に放り込むしかねえだろ。 夫にも責任があるからさ。 だから一時ヨンギリが出て来なかったのさ。 普通だったら夫婦ともこうさ」 彼は首を切る仕草をして見せた。 「普通じゃないとは?」 「何も知らねぇんだな、ヨンギリには朝鮮総連のバックがあるし、本人もそこで幹部をした所謂革命家みたいなもんだから普通じゃねぇんだ。 分かったか?」 私は彼らの話を聞き、ぞっとしてしまった。 (119~120頁)

 細かい事実関係には疑問がありますが、内容はリアリティがありますね。

 ところで話は変わりますが、近年の韓国では永田絃次郎(金永吉)は「親日反民族行為者」(=民族の裏切り者)として指名されています。 しかし金日成はそんな永田を呼び寄せて面会までしたのですから、韓国で主張されている「北では親日派を徹底的に排除した」は虚偽ですね。