朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分2023/09/05

 100年前の関東大震災の際、関東の各地に自警団が結成され、朝鮮人に対する殺害行為を行なったことは周知のことでしょう。 ところで新聞等のマスコミは被害者側に寄り添う意見ばかりを記事に出していて、加害者側の自警団にどのような言い分があったのかについて、全く報じていませんねえ。

 『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房 1963年10月)に、当時の自警団組織から、次のような「詰問状」が政府あてに出されたという資料がありました。 自警団たち自身がどう考えていたのかを示すものとしてそれなりの価値があると思い、紹介します。 出典は大正12年10月23日付けの『東京日々新聞』で、大震災報道が解禁になってからの記事でしょうから、実際に詰問状が出されたのはもっと前のことと思われます。 引用に当たっては、分かりやすく一部書き改め、また原文と同じ段落を設けました。

今頃になって検挙は何事ぞ 関東自警同盟から内相法相に詰問状

新時代協会 菊池義郎氏ほか32名、労働共済会 中西雄洞氏ほか52名、自由法曹会 野田季吉氏ほか12名、城南荘 菊池良一氏ほか数名、満鉄調査課 綾川武治氏ほか8名が発起となり、市内各区に設けられた自警団を傘下に集めて、こんご関東自警同盟を組織し、昨今各方面に火の手をあげている自警団の検挙騒ぎに対する対抗策を講じた結果、左の決議を可決し、これを内相法相に致すことになった。

我らは当局に対して、左の事項を訊す。

1、流言の出所につき、当局がその責を負わず、これを民衆に転嫁せんとする理由は如何。

1、当局が目の当たり自警団の暴行を放任し、後日に至りその罪を問わんとする理由は如何。

1、自警団の罪悪のみ独りこれを天下に暴き、幾多の警官の暴行はこれを秘せんとする理由は如何。

我らは当局に対し、左の事項を要求す。

1、過失により犯したる自警団の傷害罪は、ことごとくこれを免ずること。

1、過失により犯したる自警団員の殺人罪は、ことごとく異例の恩典に浴せしめること。

1、自警団員中の功労者を表彰し、特に警備のために命を失いたる者の遺族に対しては、適当の慰藉の方法をとること。

‥‥幹部の菊池義郎氏いわく、「某方面より鮮人襲来の恐れあり、男子は武装せよ、女子は避難せよ、〇〇と見れば、〇して差し支えないと触れ回ったのは何者であったか。 当局はこれを横浜に強盗を働いた某らの宣伝であるというも、直接我らに伝えたものは、明らかに他にあった。 ところが今日になって自警団の功績はことごとく顧みられず、全国7千万の同胞から凶器無頼の悪徒と見られ、事情を知らざる外人よりは血に飢えた蛮人のように誤解されている。 もっとも中には殺人強盗を働いたエセ団員も混じっていたけれど、これらは我らの仲間ではなく、我らの責任に負うべきものではない。 そこで名誉回復のために決議を当局に致すことになったのだが、汚名をそそがぬ以上は一同死すとも止まぬ決心である」 (以上『現代史資料6』148~149頁)

 〇〇は戦前の新聞によくある伏字で、おそらく「鮮人と見れば、殺して差し支えない」になると思われます。 当局はこれを「横浜で強盗を働いた者の宣伝」としたようですが、自警団はこれを確かに当局から聞いたとしています。

 自警団は早い段階に「凶器無頼の悪徒」、そして外国人から「血に飢えた蛮人」という悪評が立ち、警察による捜査・検挙が始まりました。 その汚名に対して自警団自身が何とか弁明しようとしたのがこの「詰問状」ですね。 彼らの主張をまとめると、次のようになるようです。

 我々は流言飛語を純粋に信じ込んで武装し事件を起こしたが、それは社会を守るためだった。 政府当局が流言飛語を流して「殺してもいい」とまで言い、我々自警団の暴行を黙認し、また警察官も暴行していたのに、当局の責任が問われないのは納得できない。 我々は社会を守るために必死に立ち上がったのにその功績を無視し、我々に責任を転嫁して汚名を着せようとするのは許せない。

 自警団は自分たちの純粋無垢性を訴えて、悪意はなかったと主張しているようです。 そこには自分たちによって殺された朝鮮人に対する思いやりが全く見られないことに注目されます。

 政府当局が「朝鮮人を見たら殺しても差し支えない」と触れ回ったとされますが、事実かどうかは確認できません。 しかし「震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人多数‥‥各町村当局は在郷軍人分会員、消防手、青年団と一致協力してその警戒に任じ、一朝有事の場合には速やかに適当の方策を講ずるよう至急相当の手配、相なりたし」という電話をかけたのは事実のようで、同年12月の国会質問で出てきます。 「一朝有事の場合に速やかに適当の方策を講ずる」というのが、実際に朝鮮人を見ることになる現場では「殺しても差し支えない」となって広まったのではないか、そして自警団はそれを信じて実行していったのではないか、と思われます。

 ところが警察は一転して自警団の捜査・検挙に乗り出しました。 これは何故か、という点について考えてみました。

 警察は多数の朝鮮人を予防検束し保護したのですが、自警団は警察を襲撃してこれらの朝鮮人を殺す事件が多発しました。 警察にとっては、自分の検束保護下においていた者を外部の人間が襲撃して殺したのですから、警察の面目丸つぶれです。 また自警団は朝鮮人と思しき者を確認せずに次々と殺していったため、日本人も多数犠牲になりました。 こんな事情から自警団を放置する警察が批判されたために、自分たちを棚に上げて自警団の捜査・検挙に乗り出したと思ったのですが、どうでしょうか。

コメント

_ 竹並 ― 2023/09/05 08:11

まづ「自警団」というのが「何なんだか良く分からないので、何とも言いようがない」というのが正直なところです。
「自警団」という呼称が、新聞用語なのか、自称なのか、官製用語なのかも分からず、それが「我ら自警団員はここに奉公愛国の一念にかられ、九月二日の午後八時から一斉に剣を按じて警備のために起ったのである。(脚注 1)」という具合にアッという間に、いささか広うござんす関東全域に出来上がる、というのが信じ難いです。

昔、誰かが『週刊 金曜日』か、どこかの出版社のレビュー誌に「関東大震災の自警団の源流は、村の自検断(脚注 2)です」とか書いていたので(僕は)単純に「そうなのか」と納得していました。
まあ、「福田村事件」の後日談(脚注 3)を考えれば、「一揆」の構造というか感覚を思い起こしてしまいます。

なお、記事-末尾の【こんな事情から自警団を放置する警察が批判されたために、自分たちを棚に上げて自警団の捜査・検挙に乗り出したと思ったのですが、どうでしょうか。】については、倉山 満(くらやま みつる)風に、まづ「内務省(=警察)」が即応し、次に「朝鮮総督府」が容喙するという順序かな、と考えたり致します。


(脚注 1)
自警団員諸君に檄す 関東自警同盟 1923. 11
https://obladioblako.hatenablog.com/entry/2023/01/31/225833

(脚注 2)
自検断(じけんだん)とは、中世日本の村落(惣村・郷村など)が、自ら検断を実施することをいう。
地下検断(じげけんだん)ということもある。
[概要]
検断とは、統治すること・裁判することを意味する用語であり、中世日本では治安行政と刑事司法、さらに軍事までもが未分化だったため、領地・村落内の内政、外交を行い、統治することが裁判を行うことと密接につながっていた(日葡辞書によると、検断は統治・裁判を行う役職、とある)。
こうした検断に関する事案を当時の用語で「検断沙汰」というが、検断沙汰には、殺人・傷害事件、窃盗・強盗事件、また謀叛など、治安を脅かす罪科に対する訴訟・裁判が含まれていた。

中世においては国家の権力や社会の隅々、すなわち個々の村々や住民にまでその支配を浸透させることが不十分であった。
代わって荘園領主などの支配者が検断権を行使して村々や住民を支配しようとしたが、それも時代が下るにつれて衰退し、代わりに村落などの共同体が自治を確立させるようになる。
支配者の支配手段の1つであった検断権も代わりに共同体の慣習的な内部規制によって行われるようになり(検断地下請)、また検断権の行使の際に摘発された者の財物が得分として行使者に渡ることになっており、自検断の実施は共同体内の利益が検断を通じて外部に流出するのを防止するという側面もあった。

これらの村落では、惣内部の法規定として、明文化された惣掟(そうおきて)を全構成員の合意のもとに制定し、惣掟に違反した者へ厳しく検断権を実行していった。
特に窃盗・放火・殺人に対する検断は非常に重く、死刑とされることが多かった。

さらに対立する村落間の紛争もしばしば自らの保有する武力によって解決され、村落ごとに高地に城砦を備え、また成員が戦闘訓練を受けていることも通例であった。
また、検断権の行使を巡って、惣と支配者とで対立が生じることもあったが、惣から支配者へ交渉し、惣の検断権が追認されることも少なくなかった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%A4%9C%E6%96%AD

(脚注 3)
[福田村事件-関東大震災時の虐殺事件①]
     ・・・・・
様々な虐殺事件がその後明るみに出て、国際問題になる事を心配した政府は自警団員を裁判にかけた。
自警団による事件のいくつかが裁判となったが、朝鮮人虐殺はきわめて軽い刑となり、日本人に対する事件はより重い刑となった。
この福田村・田中村事件は「騒擾殺人」で8名が裁かれ、最長で懲役10年の判決となった。

これは震災関係の最長の判決だが、大正から昭和への代替わりの恩赦で、1927年2月には全員釈放されている。
田中村は村で裁判費用を負担し、有罪者の一人が後に村長になった。
自警団という村のために行なったことで、村ぐるみで罪の意識がなかったのである。(福田村は資料を残さず不明。)
https://blog.goo.ne.jp/kurukuru2180/e/4e51ff872c5fa44dd0763ae0c86dbe7a

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