韓国人が台湾植民地支配を論じる(2)2023/09/26

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/21/9619300 の続きです。

 昔に韓国人は、台湾人も同じく日本植民支配に苦しんだのだから日本の歴史問題追及に同調してくれるだろうと思い込んでいたことがありました。 しかし実際に台湾人と話をしても、そんな話題にはならなかったと言います。 ですから韓国人が台湾の植民地史にさほど関心を持たなくなっているのが現状でした。

 今回の『週刊朝鮮』の論稿は韓国では珍しく、台湾の植民地時代とその後の歴史を扱い、自分たち韓国との比較を試みています。 自国と台湾との歴史認識の違いを冷静に見ているようで、私には好感の持てる論稿です。

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台湾で模範植民事例を作ろうと努力

もう一つ重要な事実は、当時日本は日清戦争で勝利した対価として得た戦争補償金で、国家財政に大きな余裕があった点であった。 1895年4月17日、日本の下関で締結された条約第4条には「清は軍費賠償金として、純銀2億両を日本帝国に支払うことを約束する」と明治されていた。 後日、日本が三国干渉で遼東半島を放棄せざるを得ないようになると、その代わりに追加賠償金を要求し、純銀2億両は全部で2億3400万両にまで増えることになる。 これは銀1万3000トンに当たるものすごい額で、当時の日本の7年間の税収に該当する金額だった。 このような豊かな財政を元に、台湾に対する積極的な投資がなされ、結果的に雇用率が大幅に増加するなど、台湾の全般的な経済状況が大きく活性化した。 鉄道、港湾、教育施設等、以前になかった社会インフラ構築も本格化した。 このように清支配の時代よりすべての生活条件が向上すると、満足する台湾の人も段々増えてきた。

細かいところの経済運営方針も優れていた 。当時の日本は台湾で砂糖と樟脳産業に多くの投資をしていたが(当時台湾は世界の樟脳生産の70%を供給していた)、植民地支配でよくみられる搾取のやり方ではなく、台湾のエリート層に彼ら所有の砂糖・樟脳生産施設を自分で運営できるように許容した。 さらに当時の台湾の経済はやはり日本で需要が高い換金作物に基礎を置いていたため、これまた日本の経済と補完しており、日本との利害がよく一致していた。

日清戦争賠償金で台湾に投資

反面、台湾が植民地になった1895年、わが国の事情は違った。 日々国力が衰退していく状況で、朝鮮の地に対する主導権をめぐって日本と清国の間で日清戦争(1894~1895)が起こっていた。 このために壬辰倭乱以降初めてわが国に入ってきた日本の大規模集団は、やはり台湾と違って軍人たちだった。彼らは戦争過程で清国軍人だけでなく、朝鮮の民間人たちも大量虐殺し、朝鮮人たちの反日感情を大きくしていった。 さらに日清戦争が終わって数カ月後である1895年10月8日には、日本人の浪人たちによって明成皇后閔妃が悲惨に殺害される乙未事変が起きて、日本人に対する怒りが更に一層加わった。

日韓併合の前年である1909年10月26日には、当時ロシアが清から租借したハルピンで、ロシアとの諸般懸案を解決するための会談をしようと訪問した伊藤博文を安重根義士が暗殺する事件が発生した。 これに刺激を受けた日本政府は、日韓併合以降万一の事態に備えて、常に軍出身の人士を朝鮮の総督として派遣する方針を定めた。 このために歴代朝鮮総督9名がすべて陸軍または海軍の大将たちで、彼らは抑圧的政策を繰り広げるしかなかった。 反面、台湾では初期には朝鮮と同じで軍の将軍たちが総督として派遣されたが、1919年から20年近い経済活性化と関連した民間人出身の総督が派遣された。

もう一つ、重要な変数となったのは日露戦争だった。 1904年2月8日に勃発したこの戦争は、日本が最初に予想していたことより、とんでもなく多くの軍事費がかかり、国家財政が危なくなるほどに困難に陥った。 莫大な戦争賠償金を受け取った日清戦争の時は違って、ロシアの頑強な拒否で戦争賠償金を一文も貰えない状況になった。 これは当時の日本の財政に大きな打撃を与え、日韓併合以降も台湾のように大きな投資をできない決定的理由となった。当時の日本は、日露戦争前には金で1170万ポンドの価値を保有していたが、戦争費用で何と4000万ポンドを支払わねばならなかった。 結局、不足分はイギリスとアメリカから借りるしかなく、こんな財政赤字が韓国への新規投資を不可能にした。

そうなると仕方なく日本政府は朝鮮の開発に必要な費用を朝鮮から搾取したお金で充当しようとした。 鉄道や電話、学校などの基盤施設を作る時、台湾の場合は日本政府のお金で支援したが、朝鮮では韓国人の土地と財産などを搾取して、これを日本の事業家たちに転売する形で開発に必要な投資金を確保した。

さらに当時軍出身である朝鮮総督たちは、台湾の総督に比べて経営能力が劣っていた。 当時の日本が韓国で行なった大規模投資産業の中に、木綿と牧畜業があった。 しかし当時の米作をする土地も不足していた朝鮮で、このような計画が成功するはずがなく、結果的に米不足事態まで誘発し、飢饉に苦しめられるようになった。 1936年の統計を見れば、当時の日本政府は日本人たちから一人当たり平均12~13円の税収を納めさせ、台湾人たちには一人当たり4~5円を納めさせた反面、朝鮮人たちには辛うじて2~3円しか納めさせることができなかった。 このような劣悪な状態の朝鮮経済は、日中戦争(1937~1945)が勃発すると、日本政府が朝鮮半島を戦争の拠点として、数千人の朝鮮出身労働者を軍需工場に投入し、さらに奈落の底に落ちた。やがて太平洋戦争(1939~1945)まで始まると、朝鮮で生産される米の相当部分が軍用に略奪され、朝鮮民衆の飢饉をさらに深化させた。 そうであるが、台湾の場合には戦争によって日本と台湾との海上運送が思わしくなくなって、台湾としては幸運にもこのような略奪から逃れることができた。 (続く)

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 やはり韓国人が論ずる朝鮮植民地支配は過酷でなければならず、そのために首を傾げざるを得ないような歴史を語っておられますねえ。

 朝鮮総督府は各地に水利組合を設立させて灌漑事業を促進し、また化学肥料の普及や品種の改良もあったので、反収生産量はかなり上昇しました。 また米不足になったのは、換金作物として日本(当時は内地)に輸出し、代わりに満州等から雑穀を輸入するという経済構造が原因です。 朝鮮人民の主食は、昔から米よりも雑穀でしたからねえ。

 1910年の日韓併合以前にたびたび起きた飢饉による大量餓死者の発生は、植民地時代にはなかったと思いますが。

韓国人が台湾植民地支配を論じる(1)―『週刊朝鮮』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/21/9619300

【拙稿参照】

朝鮮の雑穀食              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/01/11/1107420

日本の白米至上主義           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/01/06/1095566