『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(3) ― 2023/08/04
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151 の続きです。
訳しながら思うには、こんな修飾語だらけで内容のない文章を、これだけ大量に長文で書けるものだなあと感心します。
ここでふと思い出すのは、1960年代末~70年代にかけて蠢動していた極左過激派の機関紙です。 それもまた修飾語だらけで内容のないものでしたが、例えば死闘を繰り広げた中核派と革マル派の機関紙を読み比べて、私は面白がりながら読んでいました。 今回の『労働新聞』の「論説」を訳しながら、論説の筆者は過激な修飾語をいかに駆使するかだけに精神を集中し、その過激な表現に自己陶酔しながら書いたのだろうという点で、50年前の日本の過激派諸君の機関紙と同じだなあと感じました。
【参考】 『前進プロレス』対『解放実話』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/14/6510966
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現代の歴史で7・27が持つ重大な意味は、共和国の尊厳と自主権、輝かしい未来を守り抜いたというところにのみ、あるのではない、新しい世界大戦を防ぎ、人類と地球を大惨禍から助け出し、自主の時代の流れを力強く推し進めたことで、ここに偉大な戦勝7・27の世界史的意義があり、英雄的朝鮮人民の特に優れた功績がある。
祖国解放戦争の勝利はアメリカ帝国主義の世界制覇戦略実行を阻止・破綻させ、人類の平和と安全を守った記念碑的大勝である。
祖国解放戦争は地理的規模から見る時、朝鮮半島で起きた局部戦争だったが、その性格から見る時は新しい世界大戦の除幕だった。第二次世界大戦後、帝国主義陣営の頭目、超大国として登場したアメリカの侵略野望は、地球の全ての所で広げられていた。アメリカ帝国主義が朝鮮戦争を挑発したのは、共和国北半部を占領して全朝鮮を植民地化するだけでなく、第三次世界大戦を起こして、世界を制覇するための最初の実践行動だった。アメリカ帝国主義の新しい世界大戦の野望は、第一段階は朝鮮侵略戦争として始まり、第二段階は戦争を満州に拡大して、最後の段階にはソ連にまで攻め入ろうとすることを予見した《A、B、C計画》を作成したところに如実に現れた。朝鮮戦争の国際的性格は、アメリカ帝国主義侵略軍だけでなく、膨大な追従国家の武力まで参戦した事実をもってしても、分かることである。
大洪水が起きる前には大雨が降るように、世界大戦にも最初の兆候がある。振り返ってみれば、ファッショドイツのポーランド侵攻は、世界征服の野望を実現するための冒険的な第一歩だった。それを適宜に断固として阻止できなかったことで第二次世界大戦が勃発した。5000~5500万人が命を失い、5万の都市と農村が灰と化し、数億万の人民が計り知れない不幸と苦痛を経なければならなかった歴史の大惨劇は、絶対に繰り返してはならない。
偉大な7・27はアメリカ帝国主義が世界制覇実行の第一歩から敗戦の苦杯をなめ、力でもって戦争狂信者たちの気を挫けさせた。歴史のこの日がなかったなら、人類史に最も残酷だった第二次世界大戦の廃墟から直ぐに抜け出し、平和と発展の新時代を迎えていた人類の頭の上に再び火の洗礼が降り注いでいたのだ。アメリカ帝国主義は朝鮮戦争の期間、原子爆弾使用しようとしたことも一度や二度でなく、実際に南朝鮮に原子爆弾を搬入し、その投下訓練まで行われた。アメリカ帝国主義が企てる第三次世界大戦は、きっと核戦争に広がっただろうし、それは想像しても身の毛がよだつ大災害になったであろう。歴史は、自分たちの血と命を捧げて、アメリカ帝国主義が侵略戦争を始めた場所に彼ら自身を跪かせて、刻一刻迫っていた核戦争危機を消し去り、世界の平和の発展と環境を死守した英雄的朝鮮人民の大きな貢献と業績を金文字に刻んで、永遠に伝えていくのである。
祖国解放戦争の勝利が持つもう一つの人類史的意義は、世界政治構図を変化させて社会主義に乗り出す時代の流れを力強く推し進めたことにある。
第二次世界大戦が反ファッショ民主陣営の勝利に終わったことでもって、国際的力量関係では根本的な変化が起きた。アメリカ帝国主義は帝国主義体系の維持に致命的打撃となる社会主義体系の出現を非常に恐れながら、それを揺籃期に失くしてしまうことに全力を傾けた。ここでアメリカが一番に重視した所がソ連、中国と直接つながっていて、新たに独立した国々の先頭で社会主義の道に力いっぱい乗り出す我が共和国であった。アメリカ帝国主義は、朝鮮はアジアにおいてアメリカの全ての成功がかかっている理念上の戦場だと言って、この二つの制度間の対決でアメリカの勝利を保障せねばならないとして大きく準備していた。
アメリカ帝国主義が挑発した朝鮮戦争は、帝国主義連合勢力の《反共十字軍遠征》だった。祖国解放戦争の勝利は資本主義に比べて社会主義の絶対的優越性と威力を余す所なく誇示した、地球の至るところで社会主義を目指す熱気を高調させる転換点となった。我が人民が民主主義陣営の最前線の金城鉄壁の城のように死守したことに、社会主義の国、人民民主主義の国は有利な平和環境の中で革命と建設を力強く迫ることができるようになった。
一点の火花が燎原の炎へ燃え上がるように、帝国主義の隷属に反対し、民族的独立のための闘争で赫々たる勝利を勝ち取った我が人民の英雄的気概と模範的経験は世界の自主化実現で非常な牽引力を発揮した。朝鮮戦争以前において、世界の被圧迫民族たちは植民地奴隷の立場から抜け出して自由と解放を求めてその実現のための闘争に積極的に乗り出すことができなかった。それは崇米・恐米思想、帝国主義に対する幻想と恐怖に深くはまり込んだためであった。反米大勝の始まりである祖国解放戦争は、帝国主義首魁であるアメリカが決して不可抗力的な存在でも《自由世界の化身》《文明の使徒》でもなく、小国の人民たちも正義の偉業のために力を尽くして闘うならば、あのどんな強大な帝国主義侵略勢力にもよく打ち勝つことができることを実証することによって、帝国主義に対する世の人たちの見解を根本的に変化させ、反帝民族解放闘争の熱気を激しくたぎらせた。これは祖国解放戦争直後の1955年から1966年に至る期間に、植民地の束縛から解放された独立国家の数がほぼ二倍になった事実からだけでも、よく理解できる。
植民地統治下で解放さればかりの国、まだわずかの軍事経済力であった小さな国が、自分の運命だけでなく、人類の将来までも担い、歴史的中心を優れて遂行することは、歴史上初めての奇跡と言わざるを得ない。決して1950年代だけではない。以降の70年間、社会主義と帝国主義間の最も先鋭な先駆けであり世界最大のホットスポット地域を守った我が共和国は、不敗の堡塁として威容をとどろかせてきて、東アジア地域と世界の平和繁栄に巨大な寄与をした。万一わが国家と人民が、他の人たちのように経済発展にだけ偏重していたならば、この地には歴史に記録されたすべての戦争よりもっと大きな惨事を引き起こす熱核戦争が数十回も起きて、世界に拡大されたであろうし、今日の文明世界も存在できなかったであろう。
偉大な7・27は、国際的義務に忠実な英雄朝鮮の象徴として、わが人民だけでなく世界が永遠に慶祝する人類共同の記念日となるのである。 (続く)
【拙稿参照】
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(4) ― 2023/08/08
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/04/9607167 の続きです。
あまりに無内容なので、訳していきながら嫌になりますねえ。 読む皆様も食傷気味でしょう。 それでも北朝鮮を担当する公安・情報担当者たちはこれを丹念に読んで、北朝鮮のちょっとした変化を読み取ろうとしているというのですから、大変だろうなあと同情します。
ところで関西大学の李英和教授は1990年代に北朝鮮に留学し、北朝鮮の実情を目の当たりにして反北朝鮮へと立場を変えました。 そのために彼は朝鮮総連からかなり激しい批判を浴び、彼の身辺が危なくなった時期があります。 そこで日本の警察は李教授を常時警護したのですから、彼は警察官と顔馴染みとなります。 ある時その警察官が、北朝鮮担当の人から北朝鮮の文献でどういう意味か分からない言葉がある、李先生に聞いてみてくれと言われたといって、その文献を見せてもらったことがあるという話を聞きました。
今度の『労働新聞』論説でも、意味不明で辞書にも載っていない言葉が出てきますねえ。 私にはそれを説明してくれる知人がいなくなりましたので、そういう場合は〇〇としました。 なお分からない言葉があっても、前後から意味を解することができる場合、そのまま意訳しました。
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我が祖国と民族の運命開拓と人類の歴史発展に大きな貢献をした偉大な戦勝7・27は真理を刻んで、その生命力は永遠である、この真理を命のように心に刻み、その求めるままに闘争すれば、私たちはいつでも百戦百勝し、偉大な戦勝国、英雄朝鮮、英雄人民の名声と栄誉を後代にまで輝かさせることができる。我が党と人民が、毎年7・27を盛大に記念するのは、単に輝かしい過去を自分で祝っているのではなく、万金をもって買うことのできない心理をまた骨に刻み、より大きな勝利を抱くためである。
7・27が教えてくれる真理は、まず一番目に我が首領を絶対に信じて、その領導に忠実な人民はどんな強敵も退ける必勝不敗であるということだ。
首領の賢明な領導は、戦争勝利の決定的要因である。足のつま先まで武装した帝国主義反動勢力と闘わねばならない革命戦争で勝利しようとするならば、偉大な首領の領導を受けねばならない。首領の卓越した領導は、偉大な革命思想と信念、百勝の戦略戦術で武装した人民と軍隊を育てて、敵対勢力の数的、技術的優勢も打破する奇跡を生む。
あの祖国解放戦争のときに敵たちは、最新武装装備を持ち、物質的経済的潜在力も莫大だった。我が人民と軍隊はたとえ武器は劣勢であっても、強い自信があった。それは民族の伝説的英雄であり百戦百勝の鋼鉄の霊将であられる偉大な金日成将軍様が私たちを率いられる固い根性をもっておられるからだ。戦争の3年間はこの絶対的信念が科学であることを明らかに示した。
偉大な首領様におかれては、戦争の段階ごとに提示された独創的であり科学的な戦略戦術方針と戦法は、我こそは一番というブルジョア軍事家や戦略家たちが考案した多くの《軍事的攻勢》を水泡に帰させた。偉大な首領の崇高な愛と信頼は、未熟だった我が人民軍隊が必勝不敗の強力な軍隊として威容をとどろかせて、平凡な人民だけでなく若い青年達まで、郷土保衛で敵たちを戦慄させる無比の英雄性を発揮できるようになった源泉であった。
単に勇猛な気質というだけでなく、未来に対する信念でやり遂げるのが革命戦争だ。砲煙で浸かった我が祖国の土地では、戦後復旧建設のための計画図作成、科学院と工場大学創立、前線で大学生や体育選手の召喚、大果樹基地の創設と山林保護と関連した最高司令官の命令発表のような驚異的な事変が続けざまに起きた。偉大な首領様の革命的楽観主義と揺るがない度胸は勝利のレールを確信し、一つしかない祖国のために血まみれの胸で○○を防ぎ、手足が砕けたら顎で○○を押す不死鳥たち、敵たちの爆撃と砲撃の火の海の中でも戦争前より多くの穀物収穫をする農民たちの大部隊を生んだ。
〇〇は意味不明で訳せなかったところです。 前者は「적화점」、後者は「중기압철」です。 韓国の国語辞書には「북한어(北朝鮮語)」が採録されているのですが、「적화점」も「중기압철」も採録されていませんでした。 漢字語ならばそれぞれ「赤化点」「重機圧鉄」となるかも知れませんが、それでも意味が分かりません。
なお前者の「적화점」を検索すると、「적화점을 막은 첫 병사 공화국영웅 장태화(〇〇を防いだ最初の兵士の共和国英雄チャン・テファ)」という北朝鮮の動画があります。
事実、祖国解放戦争は二つの戦争、即ち正面で飛びかかってくる侵略者たちとの対決戦とともに、内部から悪辣に蠢動する反党反革命分子たちとの闘争を同時にせねばならない大変苦しい闘いであった。歴史には秘密のない戦争を行なわねばならない極難のなかでも強靭で豪胆な度胸と並外れて優れた知略でいつも主導権を引っ掴み、強大な帝国主義連合勢力に打ち勝った偉大な首領様のような伝説的な霊将はいない。
偉大な首領様だけを信じて従っていけば、生きる道も開け、首領様のお教えのままにさえすれば、打ち勝てない大敵も克服できない難関もない。これが我が人民が鉄火の中をくぐり抜けて体得した勝利の哲学である。確かに戦火の日々、我々人民と軍隊は首領の構想と意図、命令指示を徹底して貫徹することを、人生のこれ以上ない誇りと考え、犠牲的に闘ってきた。
今日も祖国解放戦争勝利記念館を訪ねる人たちに大きな衝撃と感動を抱かしめるのは、偉大な首領様におかれて戦闘最前線の勇士たちや後方の人民たち、少年近衛隊員たちが謹んで尽くした忠誠の宣誓文である。首領と人民の一致団結の縮図である歴史の証明物は戦争勝利の根本源泉がどこにあって、帝国主義が持つことも真似することもできない朝鮮の《絶対兵器》が何であるかを後世にまで伝えるくれる永遠の勝利の証明書である。アメリカ帝国主義は自分たちの敗戦原因について、不利な地形に当たってしまい、時期を間違えて選んだという風に弁明した。しかし敵たちは、昨日も誤算し、今日も誤算している。偉大な首領を奉る国。首領と一心一体をなす偉大な人民に敢えて手出ししようとする者たちは、いつであれどこであれ、敗北を免れない。 (続く)
【拙稿参照】
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/04/9607167
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(5) ― 2023/08/12
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/08/9608146 の続きです。
1950年から始まり1953年まで続いた朝鮮戦争。 今回の論説もそうですが、北朝鮮の朝鮮戦争の説明には中国人民解放軍に全く言及しません。 50年前の1970年代に朝鮮総連の方とこの戦争について話したことがありました。 その時も彼は中国人民解放軍に触れようとしなかったことを思い出します。 彼が“もう少しのところで祖国が統一されようとした時にアメリカが邪魔をした”と言うので、私は“そうであるならばその後国連軍は鴨緑江まで進軍し、朝鮮は統一目前だったのに中国が介入して統一を邪魔したと言えるのではないか”と疑問を呈したことがあります。 それを契機に議論をしたのですが、朝鮮総連では朝鮮戦争における中国人民軍の果たした役割をほとんど無視していることを知りました。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)は滅亡されかかった時に中国人民解放軍に助けられて国を守ることができたというのが歴史的事実と考えていた私には、中国人民解放軍を全く無視する朝鮮総連の説明に大きな違和感を持ちました。 その後、この説明は祖国の北朝鮮自体がやっていることを知りました。 国際プロレタリアートの連帯として中国人民解放軍が参加したのですから何も隠す必要はないのにと思ったのですが、北朝鮮・朝鮮総連は外国勢力の助けなしに自力で戦ったと言うばかりです。
主体思想というイデオロギーのために歴史事実を歪曲する典型例と判断できました。 北朝鮮が語る「歴史」は事実の積み重ねではなく、単にプロパガンダであり、検証できるものではないと知ったのです。 北朝鮮の「歴史」はカルト宗教の経典と変わらない、そう考えながら北朝鮮の「歴史」を読むものだ、と今でも考えています。
なお日本でも昔になりますが、戦時中に大本営発表の連戦連勝を信じ、また歴史でも天孫降臨・神武東遷神話を信じていたのですから、偉そうなことは言えません。
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7・27が刻みつける真理は、二番目に全人民の反帝階級意識が透徹してこそ、勝利者になることができるということである。
革命戦争は、階級的仇敵たちとの誰が誰と勝負するかの闘いである。階級的仇敵たちに対する非妥協的な闘争精神で、頭の上から足の先まで武装できないならば、熾烈な戦争で勝利できない。
反帝階級聖戦で、革命的人民が守らねばならない思想精神は、帝国主義者たちと階級的仇敵たちの本性は絶対に変わらず、仇敵たちとのひたすら堅固で、最後まで戦って勝たねばならないという透徹した覚悟である。山犬は血を吸ってこそ生きることができるように、帝国主義者たちや階級的仇敵たちは勤労人民の血と汗だけで生存できる。侵略と略奪、野獣性を体質化した仇敵たちに対する幻想は即ち死である。
我が党は新祖国建設の初めの時から、永遠に変わることのできないアメリカ帝国主義の本性と悪だくみを見抜き、それに徹底して備えてきたので、敵たちの不意の侵攻や断末魔あがきも一つずつ粉砕して勝利を争取することができ、全民族が完全に絶滅されるところだった大惨事も防ぐことができた。
透徹した反帝階級意識と両立できない思想傾向がまさに敵に対する恐怖である。敵に対する幻想が仇敵たちの本性に対する無知の表現であるなら、恐怖は敵の《強大性》に対する敗北意識の発現である。戦略的な一時的後退時期に、我が人民と軍隊は少しの悲観や動揺もなく、苦難の千里の道をかき分け、偉大な首領様の懐を訪れて、アメリカ帝国主義のしつこい原子爆弾の恐喝にも肯ぜず、大衆的英雄主義と犠牲性を発揮して、ついに戦勝の祝砲を打ち上げることができた。
火薬を濡らさないようにしてこそ滅敵の威力を発揮する。苛烈な祖国解放戦争と今日までの反米対決が見せてくれたように、階級意識、主敵観が揺るがなかった時に初めて争取した勝利の伝統を屈せずに粘り強く続けていくことができる。
どんな大敵も圧勝できる自衛力の上に永遠の平和がある。これは祖国解放戦争と以降の70年の朝米対決史が刻む、もう一つの真理である。
強者の前では卑屈になり、弱者の前では暴虐になることが帝国主義の山犬たちの有様だ。力を万能とみなす帝国主義者たちは、ひたすら力にだけで屈服させることができ、その力は世界最高のものでなければならない。万一、70余年前に我々の軍力が今日のように強大であったなら、アメリカ帝国主義は敢えて戦争を起こす念頭も出てこなかったのだ。朝鮮半島で戦争の危険を完全に除去しようとするならば、絶対的な国家安全担保力を備えなければならない。
軍力強化で終着点というのは、あってはならない。担保は直ぐに退歩を生み、遅れをとった国と人民は帝国主義の篭絡物となる。どんな対価を払っても軍事的強勢は止まることなくさらに早い速度で維持拡大せねばならない。これは残酷な戦乱で渦巻いた20世紀と今日の21世紀の血の絶叫であり、国と民族、後孫万代の永遠な平和繁栄のために万難に打ち勝って闘争する我が人民の高々とした自覚である。
真理は認識することで止まってはいけない。それが我々の闘争と生活の一瞬一瞬に具現されるものが重要であり、ここに光輝の未来を前倒しにする早道がある。高貴な7・27の真理が新世代の勤労者たちと人民軍将兵たちのそれぞれの心臓に鼓動を打つことによって、勝利は永遠に朝鮮のものである。
今日、敬愛する金正恩同志におかれては、我が国家と人民をより大きな反米大勝と全面的復興に力強く嚮導しておられる。世紀をまたぐアメリカの対朝鮮圧殺政策を総破産させ、この地の上に世界が見上げる天下第一の強国の歴史、民族自主、平和繁栄の歴史が終わりなく流れるようにすることが、偉大な党中央の確固不動の意志である。
敬愛する金正恩同志の領導に従って、偉大な戦勝の伝統をひるまず続けていく我が人民は、強国建設の歴史的大業実現で世界を鳴り響かせる伝説的神話と変革を間断なく創造していくのである。 (終わり)
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/27/9605137
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/31/9606151
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/04/9607167
『労働新聞』の論説―朝鮮戦争70周年(4) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/08/9608146
朴沙羅さんの思想転向 ― 2023/08/16
8月10日付けの毎日新聞に 「ヘルシンキ大講師・朴沙羅さんが感じた戦争 みんなの国家だから‶守る″」と題する、朴沙羅さん本人を取材した記事があります。 有料記事ですので、関心ある方は図書館にでも行って見てください。 https://mainichi.jp/articles/20230810/dde/012/030/013000c
フィンランドは意外に軍事的な国だ。 両親が社会運動家という朴さんは、ウクライナで戦争が始まってから何を感じてきたのか?
というのが記者(鈴木英生)の取材趣旨です。 まず朴沙羅さんは今39歳だそうで、3年前にフィンランドに来てから思想を変えたといいます。
開口一番「フィンランドで考え方が変わりました。 特に国家と戦争について」。
それでは、彼女はそれまでどのような考え方をしていたのか。 実は彼女は左翼・リベラル的な思想を常識とするような環境で育ったといいます。
「国家権力は民衆を抑圧する」「あらゆる戦争を拒否すべきだ」が常識の環境で育った。
どのような「環境」だったのか、少し詳しく出てきます。
父は在日コリアン2世で、教員をしながら民族運動に関わった。 父方の祖父は、戦後の混乱期に韓国・済州島の虐殺事件から日本へ逃れた。 日本人の母は学生時代からさまざまな運動に参加し、母方の祖父母は反戦活動家。 生まれてからほぼずっと、学生運動文化の残る左京区、京都大近くに住み‥‥
父母も祖父母も左翼・リベラルの活動家であり、またそのような思想を色濃く残す京都大学周辺にずっと住み続けてきたということです。 要するに家族も周辺の人たちも、みんな同じような左翼・リベラル思想を有していたというのですねえ。 ですから彼女は生まれた当初から左翼・リベラル思想に囲まれて育ってきて、多様性というものから程遠い環境だったと言えるかも知れません。
その彼女が2020年の春に、フィンランドのヘルシンキ大学講師として赴任します。 そして2年後の2022年2月に、ロシアはウクライナに侵攻し、戦争が始まりました。 フィンランドでは直ぐ近くで始まった戦争によって、世論が燃え上がります。
昨年2月の開戦以降は白熱した。 世論は北大西洋条約機構(NATO)加盟に雪崩を打ち、ほぼ全政党が賛成。 連立与党の党首は「ロシアが我々を裏切った」と声を震わせた。‥‥ウクライナの事態を見れば、もはや信用できぬ。 西側の軍事同盟に入るべし!
彼女はビックリします。
「あの地味な人たちが、こんなに熱くなる?」と驚くばかり。 元々、第二次大戦期に「旧ソ連と戦い、自分たちで国を守った」のが国民的誇りだ。 徴兵制は当然視され、軍事への忌避感も薄い。 以前に見た軍事博物館の展示は「戦争は悪」という前提が皆無で、衝撃を受けた。
そして彼女は同僚の台湾人から次のように話しかけられ、自分に戦争の切迫感がないことに気付きます。
昨年3月ころ、台湾出身の政治学者の同僚に言われた。 「沙羅はいいよね。 日本国籍があるから、安全な日本に逃げられる。 私はどこに逃げればいい?」 フィンランドが今後も絶対安全とは限らない。 だが同僚は台湾に逃げても中国の脅威がある。 朴さんは「彼女の、台湾の切迫感を全く分かっていなかった」と悔やんだ。
彼女は以上のような体験から、自分たちも身近に起きるかも知れない戦争の可能性を考えるべきだと説きます。
「日本で生まれ育った私は、身近に戦争が起きることを、心底は想像できていませんでした。 でも(フィンランドでは身近なウクライナで)起きた。 今後もその可能性があるなら、どうするかを考えておくべきです。」
「だから自分たちが築いてきた社会(日本)に適切な自信を持って、守ってほしい。 フィンランドのように」。 軍事的に? 「それだけでなく、国家や戦争などについての自らの思考の惰性からも、でしょうか」
ここでは自分たちの日本に自信を持ち、他からの攻撃に対し軍事的に日本を守るだけでなく、反戦至上主義のような「思考の惰性」からも日本を守るべきだとします。 「国家は民衆を抑圧する」「戦争は悪だ」とする左翼・リベラル思想からの離脱と言えるでしょう。
そして彼女は日本の左翼・リベラルに対し、次のような批判を展開します。
日本では、左派系識者らがロシアとウクライナ双方に「即時停戦」を求める運動を始め、朴さんの知る人も参加した。 「ならば、日中戦争でも中国は停戦すべきだったと? 筋が通らない‥‥」。 彼らの主張は、日本の植民地支配や侵略の加害責任を追及してきた、これまでの姿勢と矛盾していないか。
ロシアがウクライナに侵略戦争をしかけたのに、日本の左翼・リベラルたちはロシア側の責任を問わずに双方に「停戦」を求めている、それはかつて中国・朝鮮を侵略した日本の加害責任を追及してきた彼ら自身の思想と矛盾していると、彼女は喝破しました。
「欧米がウクライナを操り、戦争を続けさせている」などと唱える活動家も。 「戦争はダメ」という思いだけでは現実を理解できず陰謀論に陥ったようだ。
陰謀論といえば右翼の専売特許のようなイメージがありますが、実は左翼・リベラルも陰謀論にはまっていると、彼女は喝破しました。
最後に取材記者は朴さんの著書から次の言葉を紹介して、記事を終えています。
国家と制度は、あなたの個別の幸福を支えるために存在している(ヘルシンキ 生活の練習)
以上、朴沙羅さんの記事を長々と紹介してきました。 左翼・リベラルのドグマ的イデオロギーから脱して、現実・実際に即して考えるという思想変遷(転向)したというのは、それなりに興味深いですが、私が関心を寄せたのはそこだけではありません。
彼女の父親はひょっとしたら、生まれてくる娘に「朴」という民族名をつけるために敢えて出生届を出さず、また指紋押捺拒否運動等で各地に講演して雑誌等にも投稿しておられた、あの有名な「朴容福」さんではないか、ということです。 断定はできませんが、かなり可能性が高いと見ています。 朴容福さんについては下記の拙稿をご参照ください。
【拙稿参照】
第75題 出生届を出さない親 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuugodai
関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 ― 2023/08/21
関東大震災からちょうど100周年を迎えて、各地で行事が行われます。 大震災の時に起きた朝鮮人虐殺事件についても、追悼行事が行われます。 ところで「虐殺事件」という言葉だけでは抽象的で、なかなかイメージを持てないでしょう。 そこで具体的な資料を紹介し、どんな虐殺であったかをもっと詳しく知ってもらおうと思います。
そこで数ある資料のうち、埼玉県の大里郡寄居で発生した朝鮮人虐殺事件の資料を紹介したいと思います。 寄居町では殺された朝鮮人の追悼行事が行われる予定だというニュースを聞いたので、資料を集めてみました。 https://mainichi.jp/articles/20230806/k00/00m/040/019000c
まずは事件の概要です。
日 時: 大正12年(1923)9月6日 午前2時ごろ
場 所: 埼玉県大里郡寄居警察署内
犯人氏名: 芝崎庫之助 外12名
被害者氏名: 具学永
罪 名: 殺人
犯罪事実: 署内保護中の鮮人を日本刀、棍棒、竹槍等にて殺害す
この事件は裁判にかかりました。 その予審決定書が記録に残っています。 読みやすくするために現代文に書き直し、時系列によって幾つかに分割して、それぞれに簡単に解説します。 不明部分は〇〇としました。 関東大震災の朝鮮人虐殺事件を理解するために、読んでいただければ幸いです。
埼玉県下惨虐事件の予審決定書 寄居事件
主文 本件被害事件を浦和地方裁判所の公判に付す。
理由 被告らの居村において、大正12年9月1日、東京横浜両市および隣接府県に起こりたる大震災に際し、これに伴い起りたる火災は〇〇旨の流言蜚語、しきりに宣伝せられ、なお地方より上京したものは惨状を目撃し、憎悪の念に駆られおりたる折柄、〇〇〇〇はなおまた多数地方に入り込み、凶暴を逞しくする旨の流言、しきりに宣伝せられたるより、
関東大震災発生に伴い、「朝鮮人が火をつけた」とか「井戸に毒を入れた」「爆弾を持って襲撃してくる」などの流言飛語が飛び交った事実を語っています。
被告等居村民はその襲来に備うべく警戒をなしおりたるところ、同年9月5日午後12時ころ、埼玉県児玉郡本庄町警察署勤務の警部補の坂本武之介が大里郡用土地内を通行するを鮮人なりと誤認し、これを取り押さえて調査のため大里郡用土村役場に拉致したるも、真実本庄警察署在勤の警部補なると判明したるところ、
流言飛語を信じ込んだ村民たちは、たまたま通りかかった警察官を朝鮮人と誤認し、暴行を働きました。
被告の庫之助は右役場庭前において集まり居りたる群衆に対し、鮮人数名が木賃宿の真下屋に滞在しているを以て襲撃殺害すべき旨演説し、もって群衆を扇動し、殺害を教唆したるに、各被告らおよび群衆はこれに応じて殺害の意志を持って被告庫之助とともに真下屋に赴く途中、
誤認が判明しても、村民たちは朝鮮人に対する憎しみを高揚させて、旅館に泊まっていた朝鮮人への襲撃・殺害の意思を一致させ、行動に移そうとしました。 その途中で、
鮮人は大里郡寄居警察分署留置場に収容保護せられることを知り、同月6日午前2時ごろ、被告らは群衆とともに各々日本刀、竹槍、鳶口、棍棒などの凶器を携帯し、同警察分署に押し寄せ、引き渡すべき旨を交渉し、同分署長の星柳三は鮮人保護の理由を説明し、迫害するべからざる旨を懇論したるにも拘わらず、被告らは群衆とともにあくまで〇〇〇〇と誤認してこれに応ぜず、ますます喧騒を極め、午前3時過ぎに至るまでの間、騒擾をなし、その間に被告らは左記犯行を敢行したるものなり。
村民たちは旅館に行く途中で、朝鮮人が警察署に収容・保護されていることを知り、警察署に押し寄せました。 そして署長の制止を振り切り、署内に保護されていた朝鮮人を殺害したのです。 殺人の意思を固めた村人たちの集団に対し、警察はその数の多さと勢いに押されて後退してしまったのでした。
次に村民たちは警察署内で朝鮮人をどのように殺害したかが記されています。
被告庫之助および顕蔵は同所において、携えて行きたる日本刀をもって同分署に収容保護中の朝鮮人の具学永を斬り、被告忠治、丑次郎、錦十郎はそれぞれ棍棒、被告熊吉は長鳶、被告池田次作は竹槍、被告浜二、三八吉は鍬の〇〇、被告彦二は木刀をもって同人を殴打し、被告清水治作は日本刀を携帯して留置署内に侵入し、被告義重はピストルを同人に差し向けて群衆に対して殺害を扇動し、被告善吉は同人の逃走を防ぐために抜刀をもって同所裏口の警戒をなし、共謀して前記の具学永を殺害す。 よって前記騒擾を率先加勢したるものとす。
ここには朝鮮人の具学永を殺害した犯人として起訴された庫之助、顕蔵、忠治、丑次郎、錦十郎、熊吉、池田次作、浜二、三八吉、彦二、清水治作、義重、善吉の13人の名前が挙がっています。 うち最後の善吉は殺害に直接加わっていませんが、共謀犯とされたようです。 そして殺害の際に用いた道具は、日本刀、棍棒、長鳶、竹槍、鍬、木刀、ピストルです。 13人が寄ってたかって一人の朝鮮人を、朝鮮人であるという理由だけで殺した、という事件でした。
後に『東京日々新聞』は10月に次のように報道しました。
温良な鮮人を保護中に刺殺す 寄居署の惨劇
9月5日夜半の2時ごろ、大里郡寄居町警察署にかねて留置中の朝鮮人飴屋、蔚山生まれ、金湘(ママ)を同地自警団員30余名が竹槍その他で滅多突きに突き殺した。 ‥‥午前2時すぎ、隣村の用土村自警団員数十名が来襲し、星署長に対し留置中の鮮人を引き渡せと怒号し、署長以下署員総出で弁解したがきかず、署内に闖入し、留置場の格子の間から突き刺し、他に留置保護中の支那人5名にも負傷させ逃げまどう泣きわめく凄惨ななかに、鍵をねじ切り鮮人のみを引きずり出して突き殺した。 かくて20日にいたり、浦和地方裁判所と同熊谷支部検事7名、寄居署に出張、警備隊兵士数十名の警備のもとに、用土村より左記12名を殺人ならびに騒擾罪として起訴、浦和刑務所に収監した。
寄居事件は関東大震災で発生した数多くの朝鮮人虐殺事件のうちの一つにしか過ぎません。 このような悲惨な虐殺事件が、関東一円で他にも多数発生しました。 『現代史資料6』(みすず書房)の427頁に採録されている「震災後に於ける刑事事犯および之に関連する事項調査書」によれば、朝鮮人を殺したとして立件起訴された日本人は303人で、殺された朝鮮人は233人と記載されています。 件数は53件で、それぞれの事件発生の日時、場所、犯人氏名、被害者氏名、犯罪概要が一覧表で出ています。
〝朝鮮人虐殺事件はでっち上げだ″と言う人がいるようです。 ネットの投稿欄などで見かけますね。 こういうウソ話を平然と広める人がおり、そしてこのウソを信じ込む人がいるのには困ったものです。
【拙稿参照】
水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265
水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282
関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058
関東大震災の朝鮮人虐殺 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009
関東大震災の日本人虐殺 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607
関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629
「十五円五十銭」の練習―こんな在日がいるとは!? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/15/9347314
関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) ― 2023/08/26
8月18日付け東京新聞に、「関東大震災の朝鮮人虐殺にどう向き合うか 東大・外村教授に聞く」と題する記事があって、そこで教授は次のように述べておられます。 https://www.tokyo-np.co.jp/article/271013
―虐殺の被害人数について、都立横網町公園(墨田区)にある犠牲者追悼碑には「6000人余」と書かれているが、6000人より少なかったとする人もいる。
正確な人数は分からないとしか言えない。分からないのはなぜかというと、当時ちゃんと調査してないから。 6000人説がおかしいという見方があるけど、6000人説が間違ってるという学説も確立しているわけではない。 政府の防災対策会議でも、全死者(10万5000人余り)の1%から数%として、1000人だったかもしれないし、6000人だったかもしれないというほかない。
私も朝鮮人虐殺事件の犠牲者数に関心があったので、ちょっと調べてみました。 まずは岩波新書の水野・文『在日朝鮮人』の記述です。 その本で記載されている数字は次の通りです。
殺された朝鮮人の数は司法省の発表では233名、朝鮮総督府の資料では832名、政治学者吉野作造(1878~1933)の調査では2711名とされるが、朝鮮人留学生らが「罹災同胞慰問団」の名目で行なった調査では6415名という数字があげられる。 日本政府が朝鮮人虐殺の事実を隠すために調査を妨害したので、正確な死者数は不明だが、千名単位の死者があったことは否定できない。 (水野直樹・文京洙 『在日朝鮮人 歴史と現在』 岩波新書 2015年1月 18~19頁)
司法省「233人」、朝鮮総督府「832人」、吉野作造「2711人」、罹災同胞慰問団「6415人」という四つの具体的な数字が挙げられ、別に著者の主観として「千名単位」という数字も出てきます。
次にノンフィクション作家の金賛汀さんは次のように書いています。
関東大震災で虐殺された朝鮮人の総数については現在に至るも不明である。 内務省警保局では報告書で朝鮮人の死亡者の数を231名と報告し、朝鮮総督府は832人と認定している。 日本政府の官庁発表でこれだけの違いが出るということはどちらの数字も信用できないということであろう。 現在比較的正確でないかと考えられているのは、当時上海にあった朝鮮独立運動団体の機関紙『独立新聞』の社長金承学が震災後、朝鮮人虐殺の報に接し、密かに来日し、留学生たちと共同で調査を開始して纏めた『金承学調査書』に記載されている6415人という数字である。 しかしこの数字も必ずしも正確とはいえない。 非常時に民間人によって行われた非公式の調査である。 正確さが期待できないことは当然考えられる。 (金賛汀 『在日、激動の百年』 朝日新聞社 2004年4月 38頁)
ここでは内務省警保局「231人」、朝鮮総督府「832人」、金承学調査書「6415人」となっています。
以上の二つをまとめて検証します。
まずは岩波新書の「司法省『233人』」ですが、この出所は次の資料と思われます。
震災後に於ける刑事事犯および之に関連する事項調査書 第四章 鮮人を殺傷したる事犯
被害鮮人の数は、巷間伝うるところ甚だ大なるものありと雖も、犯罪行為により殺傷せられたるものにして明確に認め得べきものは別表に示すが如く、その数300を越えず。‥‥
第三 被害人員表(11月15日現在)
死亡 233、 重傷 15、 軽傷 27 計275。 (以上『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房 1963年10月 426~427頁)
ここで「死亡 233」が出てきます。 これは殺人罪等で立件起訴された事件の被害者の数です。 裁判にかかっていますから確実な数字と言えますが、立件して起訴に持ち込むことのできた事件に限られますから、実際の被害者数はもっと多くなるのは確かでしょう。
なお元の資料である「事項調査書」がどこの部署のものか、『現代史資料6』には記載されていませんでした。 なお、最近の政府中央防災会議によれば、「司法省報告書掲載」とされています。
そして金賛汀さんの「内務省警保局『231人』」ですが、そこには「『大正12年9月1日以降に於ける警戒処置一班』 内務省警保局 1924年(大正13)年」という《注》が振られています(211頁)。 しかしこの資料が見当たらず、検証できませんでした。 従って「内務省警保局『231人』」は今の私には不明というところですが、おそらくは岩波の「司法省『233人』」と同じ資料が元になっているのではないかと推測します。
次に朝鮮総督府の「832人」ですが、岩波も金賛汀さんも同じ数字を出しています。 これは次の資料が根拠のようです。
関東地方震災時に於ける朝鮮人問題 朝鮮総督官房外事課
第五、震災当時の被殺鮮人の数 自警団に殺害された鮮人の数は混乱の際であり、死体は一般の死体とともに火葬に付されたから、死因も弁別せず、従って的確なる数を得ることは困難であるが、朝鮮地方官憲で精細に調査した結果に依れば、圧死者・焼死者・被殺者および行方不明となった鮮人は総体で832名である。 鮮人の居住場所と焼死者の多かった事実に徴し、自警団に殺害された者はその2・3割を超過することはあるまいと推定せられるのである。 (『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』みすず書房 462頁)
この総督府資料では「圧死者・焼死者・被殺者および行方不明となった鮮人は総体で832名」となっており、殺された人だけでなく災害死した人も含まれていることが分かります。 ところが岩波も金さんも、「虐殺された朝鮮人」の数として832人という数字を出しているので、ここは岩波も金さんも間違っていると言わざるを得ません。
考えてみれば、朝鮮総督府は朝鮮戸籍を管理・運営しており、戸籍登載者が死亡すればその事実を戸籍に記入せねばなりません。 従って、総督府は大震災で死亡した朝鮮人の把握に務めようとしたことが当然ながら考えられます。 その意味では最低限の数として確実性があると言えます。 ただし死亡原因が殺人なのか、焼死圧死等の災害死なのかの区別はできなかったようです。
繰り返しますと、朝鮮総督府が発表した「832人」は殺された人だけでなく、圧死や焼死など災害によって亡くなった人や行方不明者も含めた数字として、当時に把握されたものなのです。 (続く)
【追記】
「元の資料である「事項調査書」がどこの部署のものか、『現代史資料6』には記載されていませんでした」と記しましたが、この本の「資料解説」xxxページに、「司法省の極秘文書」とあるのを見つけました。
なお岩波新書には「司法省の発表」とありますが、この「資料解説」では「配布先はごく限られ‥‥人民に見せるつもりのものでは毛頭ないもの」とありますから、「発表」されたものではありません。 (2023年8月27日記)
関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(2) ― 2023/08/31
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591 の続きです。
次に岩波の「吉野作造『2711人』」ですが、次のような二つの資料がありました。
吉野は、改造社の『大正大震災誌』(1924)に「朝鮮人虐殺事件」を書き、埼玉県当局の通牒などを紹介して、流言の出所について、官憲の責任あることを述べ、ついでに朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたという、朝鮮人虐殺地点と人数(計2613名)を記したが、これは、全文内務省の検閲により削除された。 (吉野作造『中国・朝鮮論』 平凡社東洋文庫1970年4月にある編者松尾尊兊の注釈 300頁)
朝鮮人虐殺事件 法学博士 吉野作造 ‥‥ 次に朝鮮人の被害の程度を述べる。 之れは朝鮮罹災同胞慰問班の一員から聞いたものであるが、此の調査は大正12年10月末日までのものであって、それ以後の分は含まれていないことを注意しなければならない。 ‥‥ 右 合計 2613人 (『現代史資料6 関東大震災と朝鮮人』 みすず書房 357~362頁)
この資料では、吉野作造は殺された朝鮮人「2613人」が伝聞されたものであることを自ら記しています。 しかし岩波の『在日朝鮮人』では、「吉野の調査では2711人」という数字を挙げました。 ということは、吉野作造には伝聞による「2613人」という数字と、自分で調査して得た「2711人」という数字の二つがある、ということになります。 しかし吉野が調査したという資料は見当たりませんでした。 岩波の「吉野の調査」は、〝他人の調査を聞いた″ことを吉野自身が調査したように書いてしまったのではないかと思います。
次に、「6415人」です。 岩波は「朝鮮人留学生らが『罹災同胞慰問団』の名目で行なった調査」、金さんは「留学生たちと共同で調査を開始して纏めた『金承学調査書』」が根拠としており、どちらも同じ数字を挙げています。 これはおそらくは、『現代史資料6』に採録されている下記資料が元になっていると考えられます。 報告者は上海独立新聞社特派員です。
報告 被殺人数 ‥‥合計 3240人(ママ 実際に数えると2889人)
以下記録は死体を発見した同胞だが、その数―千五百に達するが、私(特派員)が実地に見たのは1167人(ママ 実際に数えると1274人)
以上累計 4407人(ママ 実際に数えると4163人)
上記した第一次調査を終了した11月25日に再び各県から報告が来た‥‥被殺人数 (2256人)
以上累計 6661人(ママ 実際に数えると6419人) 大韓民国5年11月28日 血涙の中で ○○〇上 (以上『現代史資料6』 338~341頁)
この資料は『現代史資料 関東大震災と朝鮮人』(みすず書房)にありますので、図書館に行って、その本を手に取って読むことをお勧めします。 そこには虐殺事件の地点と人数をずらっと並べられていますので、私はそこに出てくる数字を電卓たたきながら計算してみました。
資料に出てくる数字をそのまま使いますと、第一次調査(11月25日まで)では、殺された人数は「3240人」、死体を発見したが殺されたかどうか不明が「1167人」、以上を合わせて「4407人」。 さらに11月25日に各県から新たに報告が来た被殺人数「2256人」を加えて、総計「6661人」と記載されています。 しかし実際に計算すると4407+2256=6663となりますから、計算が合いません。
さらに細かく見ていくと、第一次調査で各地の被殺人数の合計は資料では「3240人」と記載されていますが、実際に計算してみると「2289人」となります。 また死体発見数合計は資料では「1167人」ですが、実際に数えてみると「1274人」となります。 そして総計は「4407人」と記載されますが、これも実際の計算では2889+1274=4163となります。
これに第一次調査後に各県から報告が上がった被殺者数「2256人」を加えて、資料では「6661人」と記されていますが、これも実際に計算しますと4163+2256=6419となります。 ところが岩波と金さんの本では「6415人」となっており、ここでも数字に違いを見せています。
虐殺された朝鮮人の総数は、「6661人」「6663人」「6419人」「6415人」と四つの数字が出てきました。
これは一番の元となっている資料の数字が杜撰であったことに原因が求められるでしょう。 資料の数字自体が矛盾しているのです。 ちゃんと計算をしなかったのか、あるいは資料集に採録する際に写し間違えたのか。 いずれにして、あまりにもいい加減な数字ということですね。
それに現地においてどのように調査し数えていったのか、資料では全く触れられておらず不明です。 大震災が起きたのは残暑が厳しい9月1日ですから、死体の腐敗は激しいものです。 9月10日までには当局による死体の片付けが始まっており、大量火葬体制も徐々に構築されていっています。 そんな状況の中、死者のうち朝鮮人か日本人かをどのように見分けたのか、また殺されたのかそれとも焼死圧死なのかをどうやって区別したのか、という疑問も湧きます。 しかし不思議なことに殺された朝鮮人の数は、ここでは何人、あそこでは何人とふうに具体的な数字として挙げられているのです。
さらに資料をよく読むと、被殺人数は11月25日までで「3240人」、それ以後で「2256人」と記されています。 殺された人数として挙げられているのはこの3240+2256=5496人であって、他は「死体発見数」です。 つまり資料では朝鮮人虐殺数として明記されているのはこの5496人なのです。 たとえこの資料を真実だと信じたとしても、6000人という数字を出すのは疑問になります。
ところで、この資料である上海独立新聞特派員の報告には、次のような前文があります。 ここに出てくる「金希山」は、独立新聞社社長の金承学のようです。
金希山 先生前 ‥‥先生! 敵京の惨酷なる「ざま」は、憐れむべきというよりも、賀すべきです。 奴らがわが同胞を虐殺したことを考えると、怒りで歯ぎしりが出て、敵土が全滅しなかったことだけが恨まれるのです。‥‥
到る所の、所苗束のような屍を見れば胸は痛み、両の目で、焼け残った肉を尋ねては、身体が震えました。 嗚呼! 天地は際限があるとしても、我々の積もり積もった怨恨たるいつかや、晴らす日があるだろうか。 哀しい哉。 この冤讐を晴らす者は誰であろうか。‥‥七千の我が同胞たちの孤魂 ‥‥倭地で冤魂となった七千、否、七千よりもっと多い魑魅魍魎の哀哭なのだ‥‥ (『現代史資料6』 338頁)
関東大震災の実際の惨状を見て〝日本め!ざまーみろ!全滅すればよかったのに!″と感じたことを正直に語っています。 このような激しい感情を持った人が虐殺事件の調査にあたったのですから、最初から冷静に調査するなんてことは難しいでしょう。 ですから報告された数字はやはり客観的なものではなく、プロパガンダ的に膨らんだ数字と見た方がいいと考えます。
以上をまとめますと、関東大震災の際に殺された朝鮮人数として出ている数字は次の通りです。
231~233人: 殺人事件として立件され裁判に付されたため明らかとなった人数。 他に立件されなかった殺人事件が当然多数あるので、実際の被殺人数はこれを上回ることが確かである。
832人: 朝鮮総督府が被殺者だけでなく焼死・圧死・行方不明者などの犠牲者の総数として出した数字。 総督府は朝鮮戸籍を管理・運営しており、戸籍に死亡事実を記入する必要があるので、大震災で死亡した人の把握を行なったと考えられる。 従って、犠牲者数としては最低限の数として確実性があると言えるが、上述のように災害死も含めた数字であり、殺された人数については不明である。
2613~2711人: 吉野作造が伝聞した数字。 調査して得た数字と書く本もある。 数字の根拠が曖昧で、信頼できる数字かどうか疑問と言える。
5496~6661人: 上海独立新聞特派員が現地留学生らとともに調査した結果の報告。 報告された被殺人数を詳細に検討すると矛盾が目立ち、また調査にあたって激した感情を隠さず、そして調査方法について全く言及しないなど、調査に疑問を抱かざるを得ない。 従って数字は信頼性に欠け、かなり膨らませた数字ではないかと考えられる。
1000~6000人: 拙論冒頭で外村東大教授がマスコミの取材で述べた虐殺被害人数。 これの元となったのは、最近の政府中央防災会議の報告書第4章第2節にある「殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない」という記述である。 これは巷間に出回っている虐殺人数(1000~6000人)を震災総死者数(10万5千人)で割った割合数字を出しただけのもので、これを根拠に実際の被殺者人数を語ることはいかがなものかと思う。
(終わり)
【拙稿参照】
関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591
関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/21/9611387
水野・文『在日朝鮮人』(19)―関東大震災・吉野作造 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/04/8169265
水野・文『在日朝鮮人』(13)―関東大震災への疑問 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/07/19/8134282
関東大震災時の「在日朝鮮人虐殺者」の数 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/06/09/398058
関東大震災の朝鮮人虐殺 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/08/26/8163009
関東大震災の日本人虐殺 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/15/8189607
関東大震災「朝鮮人虐殺事件」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/09/01/8663629
「十五円五十銭」の練習―こんな在日がいるとは!? http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/15/9347314