関東大震災―自警団は警察も襲撃した2023/09/10

 関東大震災時に発生した流言飛語により、かなりの数の朝鮮人が警察等に予防検束されました。 しかし自警団はそんな警察等に保護された朝鮮人まで襲撃して殺害しました。 例を挙げてみます。 

9月3日午後3時  亀戸町神町巡査派出所  被害者1名  棍棒をもって頭部その他に乱打し殺害す

9月4日午前11時  東葛飾郡船橋町警察署  被害者十数名  鳶口・竹槍をもって傷害す

9月4日午後4時  東葛飾郡船橋町  被害者38名  船橋警察署へ引き渡さんとして護送中に日本刀その他にて殺害す

9月4日夜~5日午前  児玉郡本庄警察署  被害者約38名  警察官の護送中の鮮人を仕込み杖・長槍・熊手等にて殺害す

9月4日夜~5日午前  熊谷町  被害者約15名  警察官護送中の鮮人を日本刀・鳶口・鉄棒にて約13名を殺害し、2名を傷害す

9月5日正午  東葛飾郡中山村  被害者3名  官憲に引き渡すため護送中の途中、日本刀にて殺害す

9月5日午後7時  那須野村巡査駐在所  被害者2名(日本人含む)  東那須野駅に着いた列車内より下車せしめ、日本刀・棍棒をもって殺害す

9月5日午後8時  多野郡藤岡町警察署  被害者16名  警察署において鮮人を保護するを憤り、同署に臨み騒擾殺害す

9月6日午前2時  大里郡寄居警察署  被害者1名  署内保護中の鮮人を日本刀・棍棒・竹槍等にて殺害す

 それ以外に自警団は、朝鮮人と誤認されて追われて警察に保護された日本人も襲撃し殺しました。

9月4日午後9時  群馬郡倉賀野町巡査駐在所  被害者1名  巡査が被害者を保護中、駐在所より連れ出して殺害す

9月5日午前2時  東葛飾郡南行徳村  被害者3名  軍隊が被害者を保護のため同行途中に殺害す

9月5日午前8時  下都賀郡家中村巡査駐在所  被害者1名  鳶口・棍棒等をもって乱打し、傷害の結果、死に至らしむ

9月5日午後1時  千葉郡検見川町巡査駐在所  被害者3名  針金にて後手に縛し、竹の棒・鳶口等にて殺害す

以上は当時の司法省資料に、立件起訴された事件として掲載されたものです。 ですから確実性のあるものです。 それ以外に加害者を特定できなかった等で立件起訴されなかったものが多数ありますから、実際の事件ははるかに多かったことは確実です。

 流言は9月2日には広まり始めていて自警団が組織されていき、朝鮮人を探しての殺害が始まります。 朝鮮人たちはそれから逃れるために行動するのですが、その一つが警察に逃げ込むことでした。 警察は流言にあるような犯行(井戸に毒を入れるなど)を行なわせないために朝鮮人を予防検束するのですが、これは自警団から朝鮮人を守ることと同じになります。

 だから多くの朝鮮人たちは警察に逃げ込み、また朝鮮人と誤認された日本人も逃げ込んだのでした。 しかし自警団は警察を襲撃してまで、こういう朝鮮人・日本人を殺害したのでした。

 この時に自警団は、自分たちを制しようとした警察官にも暴行を加えています。 本庄警察署では「自警団はさらに『鮮人に味方する署長を殺せ』と打ちかかったので、部下巡査二名とともに田んぼ伝いに危機を逃れたが、この際に警官二名が竹槍で突かれ重軽傷を負った」(本庄事件)という記事があります。

 〝警察に任せたから安心″とはならず、自警団は警察をも恐れず朝鮮人殺害の意思を固め実践したと言わざるを得ないですね。 政府当局から「朝鮮人を見れば殺しても差し支えない」と殺害のお墨付きを得たと思い込んだ自警団が、警察への襲撃をもいとわなくなったと考えられます。

 なお警察が自警団から朝鮮人を保護するのに成功した場合もあります。 鶴見警察署長の大川常吉で、韓国の『中央日報』が記事にしていますね。 https://japanese.joins.com/JArticle/308500?sectcode=A10&servcode=A00

【追記】

 当時の記録を読んでいると、自警団が警官を朝鮮人と誤認して襲うという事件がいくつか出てきます(寄居事件など)。 なぜ誤認したのかというと、朝鮮人は白衣を常用していたので、日本人から見れば〝白い服を着た人=朝鮮人″というイメージがありました。 一方、警官の制服は夏冬用の二種類があり、夏の制服は白色だったのです。 大震災は9月1日ですから、警官は白の制服を着ていたので、朝鮮人と誤認したのです。 

 白の制服といえば当時の海軍も白の軍服でした。 ですから海軍の人が被災地を訪れた際に、朝鮮人と疑われたという記録があります。 そんなこと、誤認するものなのか?と思われるかも知れませんが、記録を見る限り、本当に誤認したとしか言いようがありません。

 自警団は警官や海軍軍人と朝鮮人との区別もできないほど混乱していたのです。 〝白い服を着ていれば誰であれ朝鮮人だ″となったようで、〝自分は警察官だ″と言っても、自警団は信じずに〝警官の服を着た朝鮮人に違いない″と言い返したという記事がありました。

 自警団は「朝鮮人は殺してもいい」というデマを信じ込んだことが引き金となって冷静さを失い、集団狂気状態になったと言えるのかも知れません。 

【拙稿参照】

朝鮮人虐殺事件―自警団の言い分  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/09/05/9615245

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/31/9613843

関東大震災朝鮮人虐殺事件の犠牲者数の検証(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/26/9612591

関東大震災―朝鮮人虐殺 寄居事件 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/08/21/9611387

コメント

_ 竹並 ― 2023/09/12 12:47

*** リンク動画の開始秒数を訂正した、訂正版です、こちらでお願いします***




「朝鮮人と見れば、みな殺した」という過度の一般化の間違い、あるいは「不逞鮮人」という語の忌避(脚注 1)から来るレトリック上の問題… それらは「朴春琴」の行状を見れば明らかです(=反例)。

まあ、一庶民の個人的な「疑念」として 6,000人は「おかしい」と思うし、「おかしい」ことを「おかしい」と公言すると、「レイシスト!」と糾弾される、そして物理的にも妨害を受ける(脚注 2)… 当然、「こりゃ、何か、おかしい、Something is going wrong...」と感じますよね(w
     ----- ↓ -----
本当に6,000人だったらね、朝鮮人だったら見境なく殺してなきゃいけない、でも、さっき鈴木さんが言ってました、朴春琴って人がいました… 併合時代に、朝鮮名で(衆議院…)議員になった人ですけど、彼は、震災の跡片付け、彼と彼のグループは全部、朝鮮人の留学生やなんかですけどね、あと、報奨会(?)やってる方とかが、自分たちが一緒に集まって、自発的にやって瓦礫の片づけとか、あの、遺体のね、あの、片づけとかやってたんですよ。
なぜ、朴春琴さんは殺されなかったんですか?(=朝鮮人の無差別殺戮だった、に対する疑問)
そういう矛盾は、いっぱいあります。
えー、まあ、そういう形で、調べれは調べるほど、このー、ウソ臭さはわかるので、その辺でいろいろ勉強させて頂いていますんで…。
     ・・・・・
あいさつ(動画 2:13 - 3:05)但馬オサム 文筆人:2022/9/1(=去年です) 墨田区 横網町公園 石原町慰霊碑前
https://www.youtube.com/watch?v=V826DywsQbs&t=135s


(脚注 1)
>[不逞鮮人]
不逞鮮人(ふていせんじん)とは、戦前の日本において、韓国併合後の日本政府に不満を持つ内地の朝鮮出身者や、満洲の朝鮮人反体制派、朝鮮独立運動家、犯罪者をさした。
今村 鞆によると、「排日鮮人」という語を韓国統監府の伊藤博文が嫌って、公文書に表記することを禁止したため、警務局の誰かによって造られたという。

現在は「差別語」とみなされる。

また戦前には「怪鮮人」と共に新聞等でも公に使われていた。
1919年の三・一独立運動以降、「テロを行う朝鮮人」が恐怖と不安の対象となり、「不逞鮮人」という表現が登場し、一時期は流行語にもなった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E9%80%9E%E9%AE%AE%E4%BA%BA


(脚注 2)
同じ慰霊祭の「今年の状況」です、但馬オサム氏の挨拶(動画 45:43 - 48:02)周辺の狂騒・罵声にご注意…

そよ風主催「関東大震災 朝鮮人犠牲者 慰霊祭」令和5年9月1日(=今年です)墨田区横網町公園にて
https://www.youtube.com/watch?v=495-fiJQbZ0&t=2740s

_ 辻本 ― 2023/09/12 15:17

>朝鮮人だったら見境なく殺してなきゃいけない

 これは地域差があったようです。
 朝鮮人と思えば、日本人であろうとも見境なく殺した地域もあれば、そうでない地域もありました。

>なぜ、朴春琴さんは殺されなかったんですか?(=朝鮮人の無差別殺戮だった、に対する疑問)

 朴春琴の場合は知りませんが、警察に逃げ込んで助かった朝鮮人が多数ありますし、民間人に匿われて助かった朝鮮人もいますね。
 無差別殺戮から逃れることのできた朝鮮人が多数いた、ということです

_ 竹並 ― 2023/09/14 06:13

>【辻本さま:…  自警団は「朝鮮人は殺してもいい」というデマを信じ込んだことが引き金となって冷静さを失い、「集団狂気」状態になったと言えるのかも知れません。】

「集団狂気」状態と来れば、「南京大虐殺」というくらい(僕には)お馴染みです。
例えば、ランド-マクナリー「第2次世界大戦」1977年版(The Rand McNally Encyclopedia of World War II, (1977))に The rape of Nanking(=南京大虐殺), see China Incident(=支那事変)とあり、China Incident の該当箇所には「(南京で)8万の日本兵は「殺人狂」と化して(ran amok)、計画的に、少なくとも2万人の女性を強姦し、20万人を殺害した」(脚注 1)とあります。

不可解な「無差別殺戮」の原因を「集団狂気状態になった」からとする解釈ですが、そこに出て来るのが「アモック」という人種的な心理状態(脚注 2)ですね。
まあ、僕にとっては笑止の解説で、「南京大虐殺」はホンカツの「中国の旅」が普及させた用語(日本語)で、現地では(意外なことに、と言っては彼らに失礼ですが…)歴史用語の「屠城(tucheng)」に関連した、価値中立的な用語「大屠殺(datusha)」を使っています。
(amok による説明は、済州島の「4.3事件」を「ファビョン」で説明するようなもんで、滑稽だと思います)

ぼく自身は、原因は「恐怖」だと(今のところ)理解しています、なので、オッシャル「朝鮮人は殺してもいい」には、「何々だらか…」という前振り(理由)が付いていたハズで、そこを抜かしては一種の扇情・扇動に当たると思います。
(軍隊には朝鮮人を恐れる必要はないし、警察は朝鮮人の内地への渡航や内地での居住について「身元保障」に関わっていたのでは?)

で、民衆にとっては「不逞鮮人だ」となると(1919年の尼港(にこう)事件のカレイスキー(=ロシア国籍の朝鮮人)も含めて、今で云う「テロリスト集団」ですから…)当然、その「恐怖」は大変なものだったろう、と思います… といった所なんですが、まだまだ不勉強、貴ブログに、この問題でコメントしてから思い立ち、通販で『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(加藤康男、WAC) を注文、8月25日に受け取ったんですが、まだツン読中です。

そして、コミンテルンの成立が与えた影響(脚注3)、労働運動との関連で金天海の「関東大震災 被虐殺日支労働者 合同追悼会」の意味(脚注 4)とか、いろいろ興味深く感じています。


(脚注 1)
【(シナ軍の上海からの退却に従って)複数の日本軍は南京を目指して競走を開始した…、蒋介石は司令部を漢口に移すと共に、12月7日、(シナ軍に)南京撤退を命じた。 南京は約30万の兵力で守られていたが結局、12月12日に陥落した。 しかしながら、8万の日本兵は「殺人狂」と化して、計画的に、少なくとも2万人の女性を強姦し、20万人を殺害した。】

原文は…
The Japanese Armies raced each other to Nanking and Chiang gave orders to evacuate the town on 7 December, removing his Head-quarters to Hankow.
Nanking was defended by some 300,000 troops yet eventually fell on 12 December.
However, 80,000 Japanese soldiers 【ran amok】, systematically raped at least 20,000 women and killed 200,000 men.

(脚注 2)
アモック(東南アジア):無差別殺傷などの暴力衝動
     ・・・・・
[人を無差別に殺傷するアモック]
マレーシア、インドネシア、フィリピン。東南アジアのモンスーン気候の国々ですが、近代化される以前の部族社会では、アモックと呼ばれる、人を無差別に殺傷する事件が起きていました。

何か悲しい事があったり、侮辱を受けた後、部族の人との接触を避け、引きこもり、暗い目をして、物思いにふけっているような状態になる。 そして、突然、身近の武器を手に、通りへ飛び出し、遭遇した人をかたっぱしから、殺傷してしまう。 殺戮は本人が自殺、または、殺されるか、取り押さえられるまで続き、後で正常に戻った時には、人を殺傷していた時の記憶を失っている。
     ・・・・・
アモックは、amokとして英語になりました。 突然、理性を失った行動を取ることを amok または run amok と言います。 アモックはマレー語由来の英語として、最も有名なものの一つです。
https://allabout.co.jp/gm/gc/322039/

(脚注 3)
22年テーゼは、1922年にコミンテルンで示された『日本共産党綱領草案』の通称。

[概要]
1919年に創立されたコミンテルンは、1922年1月にモスクワで「極東民族大会」を開催した。
この大会には日本代表として徳田球一らが参加し、スターリンから共産党組織を結成するよう指示を受けた。

徳田の帰国後、山川均、堺利彦、野坂参三、佐野学らによる代表者会議が行われ、コミンテルンの方針を承認し、日本共産党が結成された。
1922年11月の第4回コミンテルン大会で、日本共産党がコミンテルン日本支部と認められ、コミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案」(22年テーゼ)が示された。

内容は「君主制の廃止」「軍隊の廃止」「労働者の武装権」「朝鮮・中国からの撤退」「土地公有化」などであった。

この草案は日本で議論され(石神井会議、1923年)、理論的には異論がなかったが、「君主制の廃止」の項目は日本では弾圧を招くだけだと反対があり、審議未了となった。
間もなく、1923年6月に共産党の検挙が行われ、折からの「関東大震災」後は解党論が主張されたため、22年テーゼは草稿のまま終った。

[異論]
上記が通説であるが、「君主制の廃止」は記載に無く、正しくは「完全に民主的な政府の要求」であったとの指摘が存在する。
https://ja.wikipedia.org/wiki/22%E5%B9%B4%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BC


(脚注 4)
金 天海(きん てんかい 1899年5月10日 - 没年不明)は、在日朝鮮人の左翼活動家。
     ・・・・・
(震災の翌年…)1924年3月16日、東京朝鮮労働同盟と日本労働総同盟は、「関東大震災 被虐殺日支労働者 合同追悼会」を開催した。
出版社従業員組合共済会、芝浦労働組合、自由労働連盟など日本人労働者350人も出席した。

金天海は、朝鮮人代表として、日本労働総同盟に対して、「日本政府に朝鮮人虐殺を抗議しよう」と提案した。
日本労働総同盟幹部は、金天海の提案に賛同しなかった。
その後、金天海は、近代的工場労働者を組織するために、東京南部、京浜工業地帯で活動した。
     ・・・・・
同(1928)年2月、全国の10数の朝鮮人労働組合団体が大同団結し、在日本朝鮮労働総同盟(略称は在日朝鮮労総)が結成された。
同年7月、金天海は、在日朝鮮労総の神奈川県の地方組織として、神奈川朝鮮合同労働会を結成し、常務執行委員に就任した。
     ・・・・・
同年夏、朝鮮共産党日本総局と高麗共産青年会日本部は、国恥記念日(日韓併合により朝鮮総督府が発足した8月29日)と関東大震災虐殺同胞追悼記念日(関東大震災が起った9月1日)に向けて、闘争を組織した。

この闘争は、労働者の要求に基づく「経済的部門的闘争」ではなく、民族主義に基づいた「民族的政治的闘争」となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%A4%A9%E6%B5%B7#%E5%8F%82%E8%80%83%E6%96%87%E7%8C%AE

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