韓国人が台湾植民地支配を論じる(1)―『週刊朝鮮』2023/09/21

 日本は朝鮮半島だけでなく台湾も植民地統治をしていました。 しかし朝鮮と台湾とでは同じ日本の植民地支配を受けたのにも拘わらず、その植民時代の歴史をどう考えるかについて、大きな違いを見せています。 

 韓国ではもう一つの植民地であった台湾についてどう考えているのか。 韓国の週刊誌『週刊朝鮮』に台湾の植民地史についてちょっと詳しく書かれていたのがありましたので、訳してみました。

 なお論者は医学出身者で、退職後に台湾に語学留学した方です。 読めば分かると思いますが、専門は違っていても歴史についてかなり詳しいし、文才がおありのようで、まとまった文章になっていると思いました。 原文は『週刊朝鮮2756』2023年5月1日 58~62頁にあります。

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同じ植民地支配 台湾はなぜ日本に好意的なのか? キム・ウォンゴ ソウル大学胸部外科 名誉教授

李登輝(1923~2020)は台湾の第七・八・九代総理を歴任した有名な政治家として、台湾の民選総統であり、最初の本省人(台湾現地出身)総理だった。 日帝支配の時代、彼と彼の父はみんな創氏改名をした。 彼は日本を訪問するたびに靖国神社を参拝しながら、靖国神社を巡る論難は「中国と韓国が無理に作った問題」という主張も広げた。 また尖閣列島(中国名 釣魚島)を巡る紛争でも公開的に日本側に立つこともあった。 甚だしくは2015年のあるインタビューでは、「70年前には日本人として祖国(日本帝国)のために闘った」と発言することもあった。

もし我が国でこのような政治家がいたならば、その政治的運命はどうなっただろうか? 答えは聞く必要もないだろう。 もちろん李登輝もそんな親日行跡のために、生前に一部批判に揉まれたことはあったが、大体に大きな問題とならず、死後まで高い評価を受けた。

台湾総統官邸が日帝総督府の庁舎

国立台湾大学と国立台湾師範大学は、長い歴史を誇る台湾の代表的高等教育機関である。 それぞれ、1928年に設立された台北帝国大学と1922年に設立された台湾総督府台北高校を母体としている。 実際にホームページでも、その時からを開校年度としている。 反面、似たような脈絡の国立ソウル大学校の場合、日本植民地時代の京城帝国大学を中心に様々な官公私立専門学校などが統合されて設立されたと明らかにしているが、開校年度は厳然と解放後の1946年10月15日となっている。

台湾と韓国には、解放以降も植民地時代の総督府庁舎が残っていた。 けれど中央庁と呼ばれていた朝鮮総督府庁舎は日帝残滓清算過程の一環として、28年前である1995年に解体・撤去された。 しかし台湾総督府庁舎の場合、今まで台湾総統府(台湾総統の官邸)建物として使用され、変わらず威風堂々とした姿を維持している。

もう少し過去にさかのぼってみよう。 日本の昭和天皇(1901~1989、在位1926~1989)は、1923年に皇太子の身分で当時の植民地だった台湾を訪問し、熱烈な歓迎の中で12日間、汽車で台湾全域を回って視察した。 しかし、当時同じ植民地だった朝鮮の地は暗殺の危険性などでついに訪問できなかった。

同じ日本の支配を受けた韓国と台湾だが、一体なぜこのようなかけ離れた違いが生じたのか? 筆者はこのたび台湾国立師範大学に語学研修に消え、試験と面接を通して最上級クラスのうちの一つである「両岸差異面面観」という過程を受講することになった。 文字通りに中国大陸と台湾の間の各種の違いを多様な側面から探る授業だ。 ところで興味深いことに、台湾の歴史を扱うチャプターの討論項目中「同じく日本統治を受けたが、韓国と比較して台湾はなぜ日本を嫌わないのか?」という質問が入っていた。 もちろん授業時間も十分ではなく、クラス構成員のほとんどがヨーロッパ出身の学生たちなので興味を引くには難しいと判断したのか、先生の簡単な説明だけで進められたが、筆者としてはこの興味深いテーマをそのまま置いておくことはできなかった。

「反清復明」鄭成功の母が日本人

台湾が日本を嫌わない一番の理由は、日本の植民地支配以前にもすでに多様な外勢の占領を受けた経験があるからだ。 大航海時代が到来して、積極的にアジアに進出したオランダ勢力が1624年から1662年まで台湾を占領して、植民地支配をした。 その後、オランダ勢力を追い出して台湾を領した反清復明の闘士である鄭成功(1624~1662)も、台湾の立場から言うと厳然たる外勢であった。

長くない台湾の歴史で「鄭成功」という人物の登場の時から、もう日本との間の特別な関係が形成されたと見ることができる。 正しく鄭成功の母親が日本人であり、鄭成功自身も子供の時に日本で育ったためである。 このような背景を持った鄭成功であるだけに、自分の母国語に他ならない日本語に精通していて、台湾を支配する頃には日本と活発な交易に乗り出した。

同じ時期に、韓国と日本の関係はどうだったか?鄭成功が活躍していた時、朝鮮は数十万人の死亡者が出た壬辰倭乱(1592~1598 文禄・慶長の役)の痛手をずっと秘めていた。 戦争が終わって60年が過ぎて、国交も朝鮮通信使の訪日を契機に表面上は既に回復していたが、侵略戦争を引き起こした日本に対する反感は相変わらずだった。

明に続いて大陸を掌握した清は、名君康熙帝の頃に大規模に軍隊を派遣し、1683年についに台湾の鄭氏王朝を滅亡させた。 しかし、当時原住民たちと明に忠誠を誓った移住漢族たちで構成された台湾人たちの観点から見ると、清国はオランダとスペイン、そして鄭氏王朝に続くもう一つの侵略者に過ぎなかった。 清は台湾征服の次の年である1684年に台湾府を設置し、行政的に福建省に所属させたが、台湾を効果的に掌握できず、積極的な関心を寄せなかった。 反面、東アジアの戦略的要衝地である台湾に対する西欧列強の関心は19世紀まで続いた。 1854年に日本を開港させたアメリカ海軍のペリー(1794~1858)提督は、当時フィルモア大統領に「台湾は名目上清国の所属だが、実際に独立的な存在」という報告書を送り、アメリカの保護領としなければならないという主張もした。

その後の1895年の日本の植民地統治直前の状況も、台湾は韓国と完全に違った。 何よりも台湾は中国の一つの島にしか過ぎず、国家でなかった。 これに反して韓国はたとえ清国に朝貢をしてはいたが、政治的・経済的・軍事的観点から、台湾と違って厳然たる独立国としてのアイデンティティを持っていた。

台湾はわが国より15年前の1895年4月17日に日本の植民地となり、日治時代(日帝時代を指す台湾式用語として「日拠時代」ともいう)が始まった。 脱亜入欧の旗幟の元、ヨーロッパ列強と肩を並べるために国力を強めていたなかで、ついに日清戦争に勝利して、その対価として得た台湾の土地は日本としての会心の最初の植民地だった。 当時の日本は、自分たちも西欧列強に劣らず植民地経営をうまくやれるとして模範事例を作るために、最初から格別な努力を傾けた。 草創期に台湾に来た日本人たちの主力が企業家と投資家だったこともこのような理由のためであった。 彼らは立ち遅れていた台湾経済の活性化を通して、現地人たちの雇用創出と生活条件の向上に大きな役割を果たした。 当時日本の総理だった伊藤博文(1841~1909)は「もし我々が台湾経営に失敗するとしたら、日章旗も輝きを失うのだ」と言って、植民地支配を成功させるために奮発するよう促した。 (続く)

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