日韓歴史共同研究委員会の回想―北岡伸一 ― 2024/05/11
『中央公論』2024年5月号に、政治・歴史学者の北岡伸一さんの「東大に戻り、授業と歴史問題に取り組む」と題する文章が掲載されています。 これまでの研究活動の回想文ですが、そのうち日韓歴史共同研究の部分が私には関心のあるところで、興味深いものでした。 それを紹介しながら、私の感想を挟みます。
私は日中、日韓それぞれの歴史共同研究に携わった。‥‥ 日韓歴史共同研究は、2002年から05年にかけて行われた第1期と、07年から10年までの第2期がある。 私は‥‥語れるのは第1期のうち、直接関わった近現代史の分科会だけである。 しかし、研究全体の企画立案の携わったこともあり、自分自身の経験について述べておくことには意味があると考える。 (188頁)
私が韓国の研究者と初めて接触して歴史の話をしたのは、大学院に在籍していた1973~74年頃、国会図書館の憲政資料室で現資料を読んでいた時である。 Kさんという方が熱心に斎藤実(海軍大将、朝鮮総督)の資料を読んでおられた。 ふとしたきっかけで会話が始まると、「貨車一杯の資料を読んだ」と言う。 そして斎藤総督時代の統治がいかに悪辣だったかという話ばかりする。 斎藤時代はそれより前と比べて、日本の統治がやや柔軟化した時期として知られているが、「それは擬態であって、より悪辣なものだ」「家畜を太らせてから食べるのと同じだ」と言う。 「貨車一杯」という誇張と、一つの次元からしか物事を見ない主張に、辟易したものであった。 (188頁)
北岡さんが辟易したという「一つの次元からしか物事を見ない主張」は韓国人研究者Kさんのことです。 これを読んで私が思い出すには、昔の日本の歴史研究者にも同じような人がいました。 人類の歴史は階級闘争の歴史であり、それを明らかにすることが我々歴史研究者の使命でなければならないということでした。 一つのイデオロギーに染まって、そのイデオロギーを証明するための歴史研究となるわけです。
韓国人研究者Kさんも 〝日帝植民地支配は悪辣・非道だ″という歴史像=イデオロギーが先にあって、それを明らかにするために歴史資料を渉猟していたのだろうと思われます。 そういう人と会話する時、同じイデオロギーを持つ人には心地よいでしょうが、そうでない人には確かに「辟易」するでしょうね。
問題は共同研究の枠組みだった。 韓国の主流派と日本の左派が一緒にやれば、合意はできるだろうが、日本の一般国民に受け入れられる見込みはない。 逆に、韓国の親日派(あまりいないが)と日本の主流派が一緒にやれば、たとえ合意できても韓国の一般国民が受け入れ入れるはずがない。 しかし、まったくの民間どうしで政府に何のつながりもなければ、共同研究の意味がない。そこで、学者の自由な議論の場を作るが、無理な合意はめざさず、この議論を政府が支援する、という「支援委員会」方式を考えた。 (189頁)
「韓国の主流派と日本の左派が一緒にやれば、合意はできるだろうが」というところは、正にその通りです。 日本の歴史研究では、戦前の軍国主義はどれほどの悪であったか、そんな軍国主義国家を批判しなかったような者もすべて悪だ、というような勇ましいことを言う左派が大手を振っていましたからねえ。 今でもそれが続いているようです。 当然、朝鮮植民地支配の悪辣さも強調しますから、韓国の主流派と意気投合することになります。 ただこれが「日本の一般国民に受け入れられる見込みはない」とするのはどうでしょうか。 日本のマスコミの多数はこれを受け入れていると思われるからです。
日本の左派研究者については、拙ブログでは http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/05/13/8850175 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/04/18/8828880 で論じたことがありますので、お読みいただければ幸甚。
日韓歴史共同研究において「支援委員会」方式を取った理由については、なるほどと考えます。
日韓歴史共同研究委員会は2001年10月の日韓首脳の合意にもとづいて設立され、翌02年5月第1回会合がソウルで開かれた。‥‥ 現代の日韓関係に影を落としているという点では、何といっても近現代の扱いが焦点だった。 このため、近現代には他の分科会より多くの委員を配置した。 (190頁)
近現代では、議論を始める前から紛糾した。 「静かな雰囲気の中で議論をする」ことで双方が合意していたにもかかわらず、初回会議では「日本の歴史教科書を是正する会」の活動家が会場に乱入してきた。 (190~191頁)
「活動家が会場に乱入してきた」とは、日本では1970年代前後の全共闘時代に過激派諸君が学会等に乱入したのを思い出しますね。
また、韓国での会議では、韓国側が用意した通訳が実は活動家であることが事前にわかり、我々日本側メンバーが出席を拒否して帰国するということもあった。 しかし韓国側は、通訳は会議の主催国が選任することになっていたはずだと、日本側を非難した。 内部の議論は直ちに外に出さず、落ち着いた学術的議論を行なうとした当初の合意からして、到底、受け入れられない主張だった。 (191頁)
途中で委員となったある韓国の有力な学者は、韓国の放送大学の教科書を執筆しており、そこに「日本の皇民化政策は、帝国主義史上、例を見ない悪辣なものだった」と記している。 どういう理由で、このような判断が可能なのか、理解に苦しむ。 アフリカ、インド、中南米など世界各地で、日本よりひどい統治をした国は多くある。 この委員は、実際には比較などしていないことだけは言える。 (191~192頁)
日本の大学院で博士号を取得した日本研究者の委員もいた。 しかし分科会を奈良で開催した時、「奈良は初めてだ」と言うので驚いた。‥‥ この委員はのちに大学教員を辞めて政治家になり、日本の天皇のことを「日王」と呼び、竹島(独島)に上陸し、北方領土にまで行っている。 本当に日本を理解しようという姿勢があったとは到底思えない。 (192頁)
「本当に日本を理解しようという姿勢があったとは到底思えない」とありますが、一般的に(全部ではないという意味)韓国人は、歴史を知らない日本人に教えてあげようとする傾向があります。 それは、日本から学んで日本を理解しようとする姿勢が小さい傾向ということにもなります。 ここに挙げられた「韓国の有力な学者」「博士号を取得した日本研究者」は、その典型的な人だったようです。
これを知ると、直ぐに「韓国人は生意気だ、ウソつきだ」と反応する日本人がいますねえ。 いわゆる「嫌韓派」です。 彼らは韓国を知り理解しようとする姿勢がないのですから、日本を理解しようとしない韓国人と変わらないですね。 つまり日本の「嫌韓派」と韓国の「反日派」は向いている方向は正反対ですが、〝似た者同士″と言えます。 そして「嫌韓派」は日本で少数であり、「反日派」は韓国で主流であるということです。
なお日本を理解しようとする韓国人も少なくありませんので、誤解なきようお願いします。
論文の中には、植民地朝鮮における日本の百貨店の発展という興味深い研究テーマもあった。 私自身、日本のデパートが各地に進出していたことは知らなかった。 「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチフレーズが日本で登場したのは1911年(明治44)である。 少し遅れて朝鮮でも消費の発展があったのだと知った。 しかし韓国側からは、それを利用できたのは日本人と朝鮮の一部の富裕層だけだったという解釈が提示された。 なかなか一筋縄では行かないものである。 (192頁)
百貨店については、昔に在日のお年寄りから聞いた話があります。 田舎に住んでいて、親戚が京城に行った時に買って帰るお土産としては三越の包装紙に包まれた品物が最上で、家族はこれをもらってみんなで喜んだという話でした。 その方は富裕層ではなかったはずなので、「朝鮮の一部の富裕層だけ」というのは間違いで、植民地下の朝鮮において消費文化が庶民に行き渡りつつあったのだと思います。 (続く)
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