北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(3)2024/05/04

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/29/9679795 の続きです。

1982年5月3日、辛光洙は平壌を出発し、復帰ルートの逆の順で日本に四回目の浸透をする。 彼は在日スパイの李東哲を召喚し、民団の信任を獲得して民団中央部の幹部になって、内部の情報資料を収集、報告せよと指示する。 また彼は方元正が経営している東京池袋に所在する韓国酒場「ニューコリアン」を在日工作の拠点として活用した。 辛光洙は韓国クラブの「ミラン」の会計員、パチンコ「三光会館」、そしてパルコの機械修理工などの多様な偽装職業を持って暗躍した。

1983年5月26日、辛光洙は1年間の工作を遂行し、原敕晁名義で作った旅券を利用して、スイス-ウィーン-モスクワを経由して北朝鮮に復帰する。 平壌の東北里招待所で5ヵ月間、再教育されて、記念勲章を受けた。

1983年11月8日、辛光洙は平壌を出発して、復帰ルートの逆の順で日本に五回目の浸透をする。 業務は予備役将校のイ・ソンス(李成洙)を包摂すること、在日スパイの李東哲を連れて北に行くこと、東南アジア地域に新しい工作拠点を構築すること、韓国と日本の各種情報を収集し報告すること等であった。 辛光洙は既に構築していた在日スパイ網を活用して、長野県の朝鮮総連商工会長であるチョン・ムジン(67)を包摂する。 チョン・ムジンの息子が北朝鮮に帰国して清津電気機械工場の職場長であったが、その息子を平壌に移住させてやると提案し、4000万円の献金を強要した。 当時貿易業務の名分で渡日して東京帝国ホテルに投宿中であった調査部四課の副課長であるキム・ナムチョルに会った席で、チョン・ムジンから日本円で4000万円を受け取った。 この金を李成洙の包摂資金として方元正に渡した。 方元正が韓国で収集した「1984チームスプリット」訓練資料を北朝鮮に報告した。

1984年3月14日、辛光洙は東京-香港-北京を経由して北朝鮮に、五回目の復帰をした。 東北里招待所で再教育を受けながら、日本から連れてきて北に入国させた在日スパイの李東哲と方正元(ママ-以下同じ)の密封教育を指導した。 1984年10月23日、辛光洙は平壌を出発し、北京-カラチ-バンコクなどを経由して、日本に六回目の浸透をした。 方正元に工作金1万ドルを渡し、包摂対象者の李成洙と北朝鮮の調査部長との第三国での接線(連絡や接触)を組織(準備)するよう指示した。 1984年11月初旬、工作検閲のために渡日して日本のホテルに投宿中であった北の工作検閲担当課長のキム・ボンノクに方正元と一緒に訪ねて行って、その間の工作活動を報告した。 また朝鮮総連系の商工人であるハン・ソンイク(55)に会って、北朝鮮に帰国した彼の末の弟のハン・チャンイク(46)の写真と手紙を見せて包摂し、北に帰国した朝鮮総連系商工人のコン・ジェリョン(67)の娘を保護するという名目で資金の献納を強要した。 こんな手法で、東京で「国際センター」というパチンコ屋を運営している朝鮮総連商工人のパク・ヒジュ(70)、民団の同胞であるヒョン・キュジョン(64)、キム・ポンイウン(64)などを包摂し、資金の献納を脅迫し、工作資金を調達した。 辛光洙はこのような手法で、北に帰国した日本にいる縁故家族を何と12人も包摂し、堅固なスパイ網を構築した。

 「方正元」は「方元正」と同一人物。 北朝鮮スパイ関係者は名前を逆にして使う場合があり、これもそうなのでしょう。 この方元正に施したという「密封教育」も馴染めない言葉ですねえ。 隔離して教育するというような意味のようです。

 辛光洙は12人の在日朝鮮人を「包摂」して、地下スパイ組織を作り上げました。 そして辛は本国からの工作資金だけでなく、これら傘下組織員からも多額のお金を調達して工作活動を続けました。

辛光洙は在日偽装拠点である韓国クラブ「ニューコリアン」に来ていた韓国芸能人たちが帰国することを利用して、彼らと親しく過ごしていた日本人たちと一緒に韓国に入国すれば疑われないと判断し、対南浸透計画を作成し、北朝鮮に報告した。 1985年2月24日、方元正を連れて、金浦空港に入国した。 方元正から包摂したと報告を受けた予備役将校の李成洙に会い、北朝鮮の統一三大原則、五大方針、高麗連邦制 施政方針十大項目などを宣伝啓発したところ、その翌日に逮捕された。 辛光洙が迅速に逮捕されたのは、事前に包摂されてスパイ活動をしてきた李成洙が、心境の変化を起こして当局に通報したためである。 辛光洙に包摂されて25回も韓国に出入りして、主要軍事情報、産業情報などを収集し、地下網を構築したスパイの金吉旭、方元正なども検挙された。 後に韓国に帰順した高位工作員の証言によれば、金正日は一部の対南工作責任者たちの功名心と貪欲のために、苦労して構築した在日スパイ網と対南地下網が瓦解したとして、工作責任者を責め、更迭したという。

 韓国で逮捕されたのは「辛光洙」「金吉旭」「方元正」以外に、辛のスパイ活動を当初から支援していた「高基元」もいたはずと思うのですが。

金大中政府、死刑宣告を受けた辛光洙を仮釈放の後、北に送る

辛光洙は1985年に死刑を宣告されたが、1988年12月に無期懲役に減刑された。 特に金大中政府は、死刑宣告まで受けていたスパイ辛光洙を1999年12月に仮釈放した。 また6・15共同宣言の精神と人道主義を持ち出して、2000年9月2日に他の非転向長期囚たちと一緒にスパイ辛光洙を北朝鮮に送還した。 これに日本政府は怒った。 金大中政府は、彼らの大韓民国転覆活動に対して謝罪も受けておらず、北朝鮮に抑留されている国軍捕虜の釈放を要求もせずに送還するという蛮行を犯した。 辛光洙は北朝鮮で、共和国英雄称号を授与され、2008年に続いて2016年7月21日に平壌で開かれた統一運動団体結成70周年記念中央報告会に出席した場面が朝鮮中央TVに報道されることもあった。 このような非転向長期囚たちの送還は、金氏一族に変わりない忠誠を果たすなら、いつかは必ず助けてくれるという誤った信念を提供してやったことになる。

 韓国の金大中政権は辛光洙を北朝鮮に送還したのですが、「これに日本政府は怒った」というのは、辛が日本人の原敕晁さんを拉致・背乗りし、原さんに成り変わって旅券の発給を受けてスパイ活動したからです。 日本にとって重犯罪人ですが、金大中政権は北朝鮮に解き放ったのでした。

 ついでに拉致犯の「辛光洙」と「金吉旭」の釈放を求める署名をしたのが元首相の「菅直人」や元衆議院議長の「土井たか子」だったことは、忘れてはならないものです。

辛光洙は日本人の地村保志夫婦の拉致とKAL858機の爆破スパイである金賢姫の日本語先生だった横田めぐみの拉致にも関与したことが明らかになり、2002年に日本の警察庁が国際刑事警察(ICPO)に拉致犯として国際手配したのである。

 辛光洙は原敕晁さんの拉致を実行しただけでなく、地村夫妻、横田めぐみさん拉致にも関与しました。

スパイ辛光洙事件は、①北朝鮮が日本を対南浸透工作の迂回拠点として活用しており、②北朝鮮帰国家族を人質にして縁故を使っての工作で包摂し、対日・対南工作に活用し、③日本人を拉致してその身分を盗用する等、手段と方法を選ばずに反文明的で反人倫的なスパイ工作を行なっていることを再確認させてくれている。

 辛光洙事件は1970・80年代の北朝鮮スパイ事件です。 今回のブログは、あの当時の北朝鮮のスパイ活動はこういうものであった、ということの紹介です。 今では以上のようなスパイの手口は通用せず、新たな手口を使っていると思われます。

 なお私は https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2023/07/22/9603772  で書きましたように、1970年代前半に「北朝鮮に行ってみませんか」と誘われたことがあります。 もしその誘いに乗っていたら「包摂」されて、北朝鮮スパイ組織の一員になっていたかも知れません。 それとも、やはり拉致されていたかも知れませんねえ。  (終わり)

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/24/9678436

北朝鮮スパイ「辛光洙」の解説―『週刊朝鮮』(2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/04/29/9679795