植民地朝鮮における日本人の差別・乱暴2021/08/21

 日本が朝鮮を植民地として統治していた時代、日本人が朝鮮人に対してどのような振る舞いをしていたか。 やはり乱暴な日本人が多かったようです。 朝鮮人は日本人の差別発言や乱暴狼藉を見聞きし、また時には自分もその被害者になりましたから、日本人に対して悪感情を持つようになります。

 このような状態が広まると植民地統治に影響を与えますから、朝鮮総督府は日本人に対し、朝鮮人も同じ天皇の赤子なのだから差別・乱暴を止めるように呼びかけます。 それでも言うことの聞かない日本人も少なくなかったようです。

 具体的にどのような差別・乱暴なのか。 2年前の拙ブログで、その一端を示すものを提示しました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/20/9179083 これは朝鮮総督府の秘書官である守屋英夫が大正時代に行なった講演の一部です。

 彼は次のように日本人の差別・乱暴の例を挙げ、朝鮮人との和睦を訴えています。 拙ブログから再引用します。 出典は朝鮮総督府の定期刊行物である『朝鮮』(大正11年1月号)です。 なお当時は、日本人を「内地人」と称していました。

『民族及び歴史』という雑誌の満鮮研究号に喜田貞吉博士の談が載っていますが、博士が内地人の車夫の人力車に乗って行きますと、すぐ前に朝鮮の紳士を乗せた朝鮮人の車夫が駆けて行ったそうです。 すると内地人の車夫が全速力で追いついたかと思うと、幌を捉えて車を引き止め、驚いて見返る朝鮮の紳士と車夫に向かって「バカ野郎、気をつけろ」と言い放った。 そこで博士が「いくら何でも、前に行く車を引き止めてバカ野郎呼ばわりをするのは酷いじゃないか」とたしなめてやりましたところ、「なに、あなた、ああでもしなけりゃ、つけ上がりますから」と言ったそうであります。 これなども実に乱暴な次第であって、実に内地人として恥じ入らねばならぬと思うのであります。(44頁)

ある日内地人の宅へ朝鮮の婦人が大根を売りに行きますと、そこのお内儀(かみ)さんが「お前さん等はよくウソを言うから調べてみなけりゃいけない。 中が空洞になっているであろう」と言って一本の大根を切った。 「これはいいが、後のはたぶん悪いに違いない」と言いつつ、残っている十本ばかりをみんな切ってしまい、その中からたった一本だけ買った。 そう切られては困るから、どうぞ全部買って下さいと懇願したけれど、その内儀さんは肯かない、果ては大声でわめき立てるので、やむを得ず切られた大根を集めて隣の家に行って、泣いて事情を訴えた。 幸いその人は分かった人であったので、全部の大根を買った上で慰めて帰したというような話も聞くのであります。(44~45頁)

いま総督府の勅任官(本省の次局長級、あるいは府県の知事級)になっておられる某氏(朝鮮人)が帝大専科の学生であった際、休暇に朝鮮に帰ってきて本町通り(京城の繁華街)を散歩しながらガラス張りの店に飾った品物を見ようと立ち寄っていると、店から番頭が出てきて「お買いなされ、お買いなされ」とうるさく言う。 何も買うつもりで立ち寄っているのではないから、適当な値を言ってやると「バカ野郎」と言いさま、横面を殴り飛ばされたということです。 それがとにかく朝鮮の俊秀として帝国大学に学んでいる人である。 将来の、経世の理想を行なおうとする有為の青年が、理不尽に丁稚小僧のために大通りで殴られるというようなことは、感情の問題として実に耐えられないことです。(44頁)

朝鮮に来ている内地人が悪いだけでなく、大体において日本人全体が訓練されていないため‥‥内地人が明瞭にその欠点をさらけ出し、恥を内外に晒しているのであります。(46頁)

慶尚南道の面長(村長に該当)等からなる内地視察団が大阪を通ります時に、二等車に細君を連れた内地の紳士が入ってきて、朝鮮の人を見るや、顔をしかめながら「ああ汚いこんな所に乗れるものか」と言った。 面長の中には、内地語を解する者があったので、この言葉を聞いて腹に据えかねたように見えたのでありますが、たまたまその向こう側に腰掛けておった内地の紳士が「ああいうバカ野郎がいるから、いけない」と言って取りなしてくれたので、同伴の内地属官なども大変気持ちが良かったということであります。(46頁)

奈良の駅では、中学生の生徒らしい者が「朝鮮人のくせに二等に乗るとは生意気だ」と聞えよがしに二度も三度も列車の前を通りながら言い放ったので、皆が憤慨しておったということも聞き及んでおります。(46頁)

だいたい内地人には共通の欠点があります。 それは欧米人が来ると乞食が来ても敬意を払わんばかりでありますが、朝鮮人、支那人その他になりますと高官大官でもややもすると軽蔑し、劣等視するのであります。 この欠点は速やかに除去しなければなりませぬ。 何も朝鮮人、支那人、印度人と申しても軽蔑すべきではないのであります。 また欧米人であるからと言って、一から十まで偉い者ばかりではないのであります。 等しく人格者として敬愛する上に差等を設けるべきものではない。 このことは将来日本の教育上、是非改善しなければならぬ事項と思うのであります。(45頁)

内地の朝鮮人留学生もその通りでありまして、その大半が排日学生になって帰ってくるというのは、内地の人々から軽蔑もしくは冷遇される結果、内地人を信頼するという感情を持ちかね、むしろ疎んじ反抗するようになって帰ってくるのであると思うのであります。 朝鮮内地においては不逞鮮人を捕らえたとか逃したとかいって警務局が大騒ぎをしているのでありますが、現にわれわれ内地人の浅慮短識により、もしくは不用意な言動により、自ら京城なりまたは東京の真ん中において何百人という不逞鮮人の卵を孵化しているのであります。 先ず内地人自らなぜ朝鮮人の信望がなく、かつ人格的感化が認められないかについて深く省み、速やかにその態度を改めるようにならなければならぬと思うのであります。(46~47頁)

 最後のところで、守屋は「われわれ内地人の浅慮短識により、もしくは不用意な言動により、自ら京城なりまたは東京の真ん中において何百人という不逞鮮人の卵を孵化している」と書いているように、日本人の朝鮮人に対する差別・乱暴が朝鮮人を「不逞鮮人」にしているのだと、日本人側の責任の大きさを訴えています。 

 そして「内地人自らなぜ朝鮮人の信望がなく、かつ人格的感化が認められないかについて深く省み、速やかにその態度を改めるようにならなければならぬ」と、日本人側の反省を求めています。 

 総督府のお役人さんが講演でこう訴えねばならないほど、当時は日本人の差別発言や乱暴な振る舞いが頻発していたということですね。 こういう差別・乱暴は、加害者側は直ぐに忘れますが、被害者側はいつまでも記憶しているものです。 被害者側の心のわだかまりはなかなか消えないということを、加害者側は理解しておくべきでしょう。

 日本統治時代に日本人と朝鮮人がどんな関係にあったか。 植民地であったことからくる制度的差別だけでなく、自分たちの優越感をそのまま朝鮮人にぶつけるような心無い日本人が多かったという事実は、忘れてはならないものです。 以上は戦前の植民地時代での話です。

 なお戦後日本人の朝鮮人差別感情および近年の在日・韓国へのヘイトクライムは、上述の植民地時代のそれとは違ったレベルにあります。 ですから同じ次元で扱ってはいけないと考えます。 これについては、また後日に論じます。

【拙稿参照】

朝鮮総督府における給与の民族差別 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/17/9411320

植民地朝鮮における民族差別はもっと知られていい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/10/9407660

朝鮮植民地史の誤解 ―毎日の読者投稿 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/03/9404045

植民地時代のエピソード(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/11/20/9179083

朝鮮総督府における給与の民族差別2021/08/17

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/10/9407660 の続きです。

 朝鮮総督府に勤める役人には、日本人と朝鮮人との間に民族差別と言うべき給与の格差がありました。 これについて、東京帝国大学法学部を卒業し、高等文官試験合格者であった任文桓の回顧録『日本帝国と大韓民国に仕えた官僚の回想』(ちくま文庫 2015年2月)に次のように回想されています。

(親友の秋山)昌平がたまたまバウトク(任文桓本人のこと)と同じ高校(第六高等学校)、大学(東京帝国大学)を同時に卒え、同年に高文(高等文官試験)を通り、いっしょに朝鮮の役人になった ‥‥ 日本人と朝鮮人の役人間の差別を、一般読者に簡単明瞭に納得させるには、昌平とバウトクを比較してみるに限る。 (222頁)

東京から京城までの赴任旅費としてバウトクには70円が渡された。ところが昌平は60円も多い130円を貰った。(223頁)

バウトクの月給は75円であった。ところが昌平の方は、この金額の6割に当たる植民地勤務加俸なるものが上積みされ、その上に宅舎料なるものまで加給されるので、昌平の月給は130円を上回った。(223頁)

バウトクのように日本で勉強し京城に家一軒持たない者には、加俸も宅舎料もくれないくせに、朝鮮で生まれ、そこで学校を卒え、京城にある豪華な自宅から通勤する者でも、父母が日本人の原種でありさえすれば‥‥大手を振って加俸と宅舎料が貰えた。(224頁)

 日本人と朝鮮人との間には民族の違いというだけで、これだけの給与の差がありました。 当然ながら民族間に葛藤感情が生まれますが、葛藤が具体的に表面化することはなかったようです。 任は次のように記します。

官界というところは、何と言っても月収の嵩が人品を決める標準となる世界であった。 したがってバウトクの下で働いている属僚でも、原種日本人でありさえすれば、月収は彼(バウトク)よりはるかに多く、彼(バウトク)が日本の名門学校で学び、特待生として優遇され、朝鮮の役人中には例がないほどに優秀な成績で高文に合格したと自負してみたところで、彼(バウトク)の部下である原種日本人役人どもは、鼻でこれをせせら笑っていた。 ‥‥年功序列の厳しい官界の仕来りは、内鮮人(内地人と朝鮮人)間においては完全に乱れ‥‥(224頁)

 こういう民族差別は、これは酷いと見るべきか、それとも植民地なのだから当たり前だと見るべきなのか。 差別を受ける側(朝鮮人)は前者、差別をする側(日本人)は後者となるのでしょう。 

 朝鮮総督府の日本人官僚の回想録があって私もいくつか読んでみましたが、朝鮮人との給与格差に言及したものは記憶にありません。 朝鮮人とは同じ官僚としてわだかまりなく仕事をしていた、あるいは日常生活でも仲良く付き合っていた、というようなものばかりでした。 民族差別は余りにも当然で、言及する必要もないと考えられていたようです。

 なお6割増しの外地手当(加俸と呼ばれていた)は、終戦直前である1945年の4月から朝鮮人に支給されるようになったとあります。 ただしいきなり6割増しとなって日本人と同じになったのか、それとも段階的に増やして支給するものだったのか、その点は分かりませんでした。 いずれにしても、日本敗戦=朝鮮解放のわずか四ヶ月前のことでしたから、印象に残らなかったようです。

 また日本人の思い出話に、普段おとなしくまじめに仕事をして信頼していた朝鮮人が終戦後すぐに太極旗を振って「独立」「解放」を叫ぶのを見て驚いたというのがありました。 日本人にとって、「え! まさか? あいつが!?」と裏切られた気持ちになったのでしょうが、植民地下における民族差別の実際をみると、さもありなんと感じますね。

【拙稿参照】

朝鮮植民地史の誤解 ―毎日の読者投稿 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/03/9404045

植民地朝鮮における民族差別はもっと知られていい http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/10/9407660

植民地朝鮮における民族差別はもっと知られていい2021/08/10

 2021年8月3日付けの拙コラムに、長文のコメントが付きました。 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/08/03/9404045  その中に次のような一文がありました。

朝鮮人も京城帝国大学卒業し高等文官試験に合格すれば、日本人の部下をもつ朝鮮人高級官僚の誕生でした。 また東大卒、京大卒などの朝鮮人高級官僚もいました。 朝鮮人道知事の誕生は、日本が国家として、朝鮮人の上司と日本人の部下を認めた極めて画期的な政策です。 朝鮮人の下に日本人を置いてもいい政策を採ったのです。

 このコメントには外地手当のことが記されていません。 植民地朝鮮において、日本人には6割の外地手当が支給されたのに対し、朝鮮人にはその支給がありませんでした。 ですから同じ職場で同じ仕事をしていても日本人は朝鮮人より6割高い給与をもらっていたし、また「朝鮮人の上司と日本人の部下」の場合、部下の日本人が上司の朝鮮人より高い給与を貰うこともありました。 これは露骨な民族差別だと思うのですが、あまり知られていないようですね。

 また京城帝国大学についてですが、これについては東京大学の「京城帝国大学の基礎的研究 ― 日本統治下朝鮮における帝国大学の制度・組織とその展開 ―」という論文のなかで、次のように論じられています。 http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2017/6268.html

ごく少数の学歴エリートである京城帝大卒業生は朝鮮統治に関わる政治エリートでもあったが、彼らは京城帝大卒業という同じ学歴を持ちながら、就職後は日本人と朝鮮人とで民族籍の違いにより異なる待遇を受けるという帝国日本統治下の差別構造を体現する存在でもあった。

 このように植民地下において、朝鮮人は京城帝国大学という最高学府を卒業しても差別されていました(差別の内容は後述します)。 これは日本と朝鮮が宗主国と植民地の関係にあり、日本人と朝鮮人とでは法的地位が違っていたという厳然たる事実によるもので、両者の同等はあり得なかったのでした。

 その京城帝国大学では、学生の定員は朝鮮人1に対し日本人2~3の割合に固定されていました(学部によって違う。1937年以降は0.8対1.0程度)。 そして朝鮮人は京城大の教授になることが出来ませんでした。 典型例が京城大一期生である兪鎮午です。 彼は日本人学生らを制して京城大をトップで合格し、当時の新聞にも報道されるほどでしたし、在学中の学業も優秀でした。 しかし彼は官僚の道をあきらめ、教授への道もあきらめざるを得ませんでした。

 ところで植民地下の朝鮮人の若者エリートの多くは日本(当時は内地)に留学していました。 これには以下のような事情がありました。 もともと朝鮮の若者エリートは、それ以前の李朝時代だったら科挙があって、それに合格すると官職に登用されて出世の道を歩むものでしたが、植民地時代にはその科挙は廃止されました。

 そのため若者の目標は、科挙の代わりに大学に行くことと観念されました。 京城大は朝鮮人の入学制限がありましたが、日本内地の大学にはそんな制限がありませんでしたので、朝鮮の若者の多くは東京等の大学を目指したのでした。

 しかし大学を出て朝鮮に帰国して就職してもせいぜい中間管理職止まりで、更に上層への出世が難しいことが分かってきました。 朝鮮人にとって「高級官僚」だったでしょうが、部局長クラスまで行くことはなかったのです。 朝鮮総督府の最高位の部署や地位は、日本人が独占していたのです。 一所懸命日本語を勉強して日本に留学までしても、出世には限界があるという現実を目の当たりにするのですね。

 植民地時代、支配者側の日本人と被支配者側の朝鮮人との間にあった差別は、目に見える差別でした。 同じ大日本帝国臣民でも、日本人と朝鮮人との間には明確な差別が設定されていたのです。 当然朝鮮人側から日本統治に対する疑問が生まれます。 彼らの多くが民族独立運動(=反日)に流れていった背景には、こういった事情があります。

 日本はこのような民族差別政策を植民地時代の最後まで継続する一方、朝鮮人を日本人と一体化させようとする、いわゆる「皇民化政策」「内鮮一体」を打ち出します。 これは今では韓国などから「民族抹殺政策」などと評価されているものですね。

 植民地時代末期になると、朝鮮人指導者たちの方からも自分たち朝鮮人の地位向上(=差別解消)のために「皇民化・内鮮一体」を推進し、朝鮮が日本に同化する「内地化」を目指すようになりました。 具体的に彼らは、朝鮮人にも徴兵適用を! 学校に行って日本語を学んで常用しよう! 日本風の名前を付けよう!と呼びかけたのでした。

 しかし敗戦=朝鮮の解放によって挫折したため、民族の地位向上(差別解消=内地化)に努力した指導者たちは「親日派」と指弾され、歴史の藻屑のごとく消え去りました。

 なお念のために言っておきますが、植民地の人間が宗主国の人間より地位が低いのは、世界的・普遍的に見られるものです。 その差別政策はそれぞれの植民地によってバリエーションがあるのであって、日本の植民地である朝鮮も特徴ある差別政策が施行されていた、ということです。 その「特徴」を過大評価して、日本は朝鮮を植民地にしたのではない、と主張する人が見受けられますが、間違いです。

朝鮮植民地史の誤解 ―毎日の読者投稿2021/08/03

 毎日新聞の7月31日付けの読者投稿欄「みんなの広場」に、次のような投稿がありました。誤解のないように全文を引用します。 なお名前と住所は伏せています。https://mainichi.jp/articles/20210731/ddm/005/070/002000c

植民地支配の歴史に向き合う=無職・荒木〇〇子・78 (宮崎県〇〇市)

私は78年前に朝鮮で生まれ戦後、2歳で引き揚げてきたが、出生地が朝鮮であるということを50年あまり、人前で言えなかった。私自身の差別心からである。

次のようなことを聞いた。20代の父の職場での役職は、50代の朝鮮人よりもずっと上で、部下としてこきつかっていたこと。給料も日本人は6割加給されていたこと。お手伝いさんを3人も雇っていたこと。私は子供心に、朝鮮人は劣っているという感性を刷り込まれていた。

50代の頃、植民地支配の歴史を学んだ。日本が朝鮮の人々の土地と仕事を奪い、日本語を強制して言葉を奪い、創氏改名で名前まで奪った事実を知った。国家としての日本も個々の日本人も歴史の事実に向き合い、どうすれば近隣諸国との未来を再構築できるのか、模索しなければならない。

 人の人生ですから、どのような気持ちを持ってきたのかは様々になりますので、この人はこのような考え方・感性を持ってこられたのかと思うだけです。 ただ歴史事実として指摘しておかねばならない所があります。 「日本が朝鮮の人々の土地と仕事を奪い、日本語を強制して言葉を奪い、創氏改名で名前まで奪った事実」という部分です。 

 「土地を奪い」は併合直後から約10年間に施行された土地調査事業のことと思われます。 この事業を「朝鮮人の土地を奪う」ものとする主張は、今も根強いですね。 実はこれは土地(主に農地)の権利を調査し確定するものであって、従って私有財産制の確立という意味がありました。 ですから、それまでの李朝時代では土地の所有権が不確実だったのが、この事業を機に「この田畑は自分が耕作する権利がある」ことが公的に証明されることになったのです。 これが「日本人が土地を奪った」というように、話がすり替わりました。 かつての朝鮮史の概説では、日本人が騙して土地を奪ったという架空の物語を出していましたねえ。

 「仕事を奪い」とは何のことか分かりません。 朝鮮で「奪われた仕事」とは何なのか? もともと朝鮮は農業国で、商工業は未発達でした。 貨幣は李朝末期(19世紀後半)にようやく普及する経済状態でした。 果たして日本は朝鮮人からどんな仕事を「奪った」のか、疑問になります。 日本は鉄道建設、鉱山開発等々で朝鮮人を多数雇用していたのですがねえ。 この投稿者自身が、家では「お手伝いさんを3人も雇っていた」と書いており、仕事を奪うどころか与えていました。

 「日本語を強制して言葉を奪い」も、かつての朝鮮史の概説によく載っていました。 日本の植民地ですから公用語が日本語になったのは確かですが、朝鮮人が日常生活で朝鮮語を使うことは自由でした。 例えば学校では日本語で授業が行われるのですが、一旦校門を出ると友人、家族、近所とのコミュニケ―ションは朝鮮語だったのです。 それ以前に、当時の朝鮮人には教育の義務を課せられませんでしたから、学校に行く・行かないは自由と言ってよかったのでした。 こんな状況で、なぜ「言葉を奪う」となるのか、首をひねります。

 「創氏改名で名前まで奪った」も間違いですね。 創氏は家族の名前である「氏」を新たに付け加えるものであって、「名前を奪う」ものではありません。 日本名に変えても金とか李とかの先祖伝来の民族名は朝鮮戸籍の本貫欄に移されており、その民族名を公的に証明することができました。 また創氏改名で日本名に変えたのは80%で、残りの20%の朝鮮人は民族名を維持しました。 これで何故「名前まで奪った」となるのか、不思議ですねえ。

 「土地を奪った」「言葉を奪った」「名前を奪った」という誤った朝鮮史は、私の記憶では1990年代まで、全国的に広まっていました。 これを強く主張する人はたいてい教師でしたね。 おそらく日教組などの教育者団体が広めたのではないかと思っているのですが、どうなんでしょうか。

 この間違った歴史が今なお定着しているようで、今度の毎日新聞の読者投稿欄にも採用されたということです。 担当記者の勉強不足を指摘するとともに、一旦定着した誤りを正すのにかなりの時間と努力が必要なんだということを、改めて感じました。

【土地調査事業についての拙稿】

植民地時代の土地調査事業の遺跡が文化財に https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/16/9367694

土地調査事業           http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/04/23/3273840

水野・文『在日朝鮮人』(7)―人口の急増 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/14/8089137

『現代韓国を学ぶ』(2)      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/06/6470236

毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142

『金達寿伝』を読む―金家はなぜ没落したか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/09/07/9293017

【創氏改名のついての拙稿】

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/28/8423913

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (2)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/30/8425667

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/01/8436928

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (4)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/03/8441238

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (5)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/05/8444253

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (6) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/07/8447420

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (7) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/09/8451992

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/11/8457633

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (9)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/04/14/8478676

朝鮮人戦死者の表彰記事ー1944年  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/10/29/8716160

創氏改名の誤解―日本名は強制されていない (11)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/11/9346012

宮田節子の創氏改名論    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/11/10/7487557

創氏改名の誤解―「世界史の窓」  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/03/26/8421515

西川清『朝鮮総督府官吏 最後の証言』 (続) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/10/21/7467784

朝鮮名での設定創氏が可能な場合 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/12/1178596

創氏改名とは何か (00年4月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai

創氏改名の残滓 (01年6月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai

創氏改名の手続き(04年10月1日) http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

大阪の民族学級―本名とは何か2021/07/31

 7月19日付けの産経新聞に「児童に勝手な朝鮮名 東大阪市立小の民族学級、保護者の明確な同意得ず」という記事がありました。  https://news.yahoo.co.jp/articles/f6c772b81210af17760d0b2c76020c22a12b8a33

大阪府東大阪市の市立布施小学校の課外活動「民族学級」で、在籍する児童について日本国籍で日本人名を使って生活しているのに学校側が勝手に朝鮮名を付けて呼んでいたケースがあったことが19日、学校などへの取材で分かった。日本名の文字を朝鮮語の読み方をして呼んでいたという。これについて保護者側の明確な同意を得ておらず、学校側は抗議を受けて対応を改めた。学校側は「保護者に説明したつもりだったが、了承を得る取り組みが不十分だった」としている。

 「民族学級」というのは、戦後に日本各地でできた「朝鮮人学校」が強制閉鎖された代償として、いくつかの公立学校に設置された課外クラスです。 朝鮮人の子どもたちに「民族主体性」「民族の自覚」(昔はこんな言い方がよく使われました)を持たせようと、朝鮮の言葉や文化・歴史なんかを教えるもので、正規授業ではなく放課後にする授業です。

 1970年代以降は在日といえば本名(民族名)を隠しながら通名(日本名)で生きるというイメージで、本当は本名を名乗って堂々と生きていきたいのに、日本社会の民族差別のためにそれができないと思われていました。 だから在日は本名を名乗ってこの差別と闘おう(本名を呼び名乗る)なんて主張する運動団体が幅を利かせていましたね。 その運動団体の強い影響の下、一部の先進的な学校や教師たちは在日生徒たちに通名ではなく本名、しかもハングル読みを使わせていました。

 確かに当時は朝鮮人であることにコンプレックスを抱く子供たちが多かったですから、本名を名乗って民族の誇りを取り戻そうとする民族学級の取り組みは、それなりに意義があったと言えます。 しかし今は在日の状況が大きく変わり、その意義が揺らいでいるようです。

母親によると、親族に朝鮮半島にルーツがある人がいることから民族学級に在籍しているが、子供は日本国籍で、日本名で生活している。そもそも朝鮮語読みする名前はない。それなのに民族学級では学校側に勝手に付けられた朝鮮名で呼ばれていた。母親は子供に「嫌ではないか」と尋ねると、「嫌だけど(民族学級の児童は)みんなそう呼ばれているから」と答えたという。

母親がルーツを子供に伝えていなかったにもかかわらず、学校で子供は朝鮮語の名前で呼ばれていた。「朝鮮語読み」をやめるよう学校側に訴えたが、今まで改まることはなかったという。

 この民族学級は元々は在日韓国・朝鮮人子弟が参加するものだったのが、今では親族に朝鮮半島ルーツの人がいるというだけで在日扱いして参加させているようです。 この場合、例えば日本戸籍に登載されている本名が「花子」とすると、「ファジャ」と勝手にハングル読みをさせて、それを学校内で通用させていたというから驚きですね。 「本名を呼び名乗る」運動の理念からすると本名の「花子(はなこ)」と呼ぶべきであって、「ファジャ」は通名になりますから使ってはならないと思うのですが。

 更にもう一つ疑問が湧きます。 「本名」とは何かという疑問です。

 「本名を呼び名乗る」運動時代から提起されていたのですが、例えば外国人登録の名前が「一二三」の在日がいたが、「ひふみ」と読めばいいのか朝鮮語読みして「イリサム」と言えばいいのか。 「イリサム」は韓国・北朝鮮ではおよそあり得ない名前で、こんな呼び方をして「民族の自覚」なんて言えるのか?という疑問です。 

 こういう例が一つ出ると、疑問が次から次へ出てきます。 ある教師がうちの在日生徒の名前は「みどり」で、このひらがな名で外国人登録されている、「本名を呼び名乗る」運動ではこの場合どうすればいいのか? 「みどり」という余りにも日本風の名前をハングルで書いて、それで「民族の自覚」なんて言えるのか?という疑問を提起していました。

 さらには「早智」という在日の子どもにハングル読みして「チョジ」としたら、それは韓国では“おちんちん”という意味になって絶対に付けることのない名前だそうだ、それでも本名のハングル読みをせねばならないのか?という疑問‥‥。

 「好美」という在日の方をハングル読みして「ホミ」としたところ、「ホミ」は日本の某地方の卑猥語で、その地方でそれを口に出せば若い女性は声を震わせ顔を赤らめるだろうということだ、そんな名前をハングル読みする必要があるのか?という疑問‥‥。

 従軍慰安婦問題が出始めた1990年代に、これに取り組んだ活動家の一人の下のお名前は「伊佐子」さん。 彼女は自分の名前を「イサジャ」と名乗っていた。 しかし「伊佐子」のハングル読みは「イチャジャ」であって、「イサジャ」は朝鮮語と日本語のチャンポン読みになる。 つまり「伊佐子」というあまりに日本人風の名前をチャンポン読みしていたのである。 しかし「本名を呼び名乗る」運動側からは何の疑問もなかったですねえ。 

 次々と疑問が出てきたのですが、「本名を呼び名乗る」運動団体では無視されていました。 差別と闘う(=民族主体性=民族自覚)の活動こそが大事だとされていた時代でしたから、朝鮮語風に名乗りさえすればいい、あるいは日本人でないことさえ分かればいい、そんな考え方でしたね。

 今回の民族学級でも、何はともあれハングル読みだ、それは「在日」みんなが望んでいるはずだ、などと考えていたようです。 そこを産経新聞が突いたということでしょう。

【追伸】

 産経新聞7月21日・24日付で、続報が出ています。 ただし21日付けは消去されています。 内容は19日付けの記事の要約みたいですね。  https://news.yahoo.co.jp/articles/840d6e2a973242a16e260d8835228a97a0c40233

【拙稿参照】

二つの名前を持つこと          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/06/27/6493072

在日の本名とは?            http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/01/6497383

通名を本名と自称する在日        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/07/04/6500499

日本名を本名とする在日朝鮮人      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/12/18/6663657

通名禁止、40年前から「左」が主張と実践 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/05/6681269

在日の通名使用の歴史は古い       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/01/12/6688526

ある在日の通名騒動記          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/16/6904707

通名・本名の名乗りは本人の意思を尊重せねば  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/07/28/6925152

外国人が通名で銀行口座を設ける場合   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/08/13/6945717

外国人の名前              http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/08/16/6948002

在日の通名は特権ではない        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/23/7019964

通名登録制度を悪用した事件       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/02/7031887

本名強要は人格権侵害ー判決       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/04/24/7618561

「本名を呼び名乗る運動」考  http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai

(続)「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai

「本名の朝鮮語読み」考    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuuichidai

「通名と本名」考       http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai

「左」が担った「通名禁止」運動(3)  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/23/9359710

外国と日本の文化の違い―卑猥語(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/18/9358120

人に卑猥語を言わせるトンデモ俗悪人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/02/28/9351491

熱海土石流―「同和」の体質と恐怖2021/07/26

 去る7月3日に起きた熱海土石流災害で、その原因となった盛り土を不正造成した業者が同和企業であることが、ネット上で話題になっていますね。 しかし、マスコミにとってはやはり「同和」はタブーなのでしょうか、追及が鈍いですね。

 一方でネットでもマスコミでも、行政が悪事を知っていながら見逃していたのではないかと、市や県の責任を問う意見が強いようです。 それは当然といえば当然なのですが、しかしこれは「同和」をよく知らない人が言っているように思われます。

 1970年代以降の、いわゆる「同和団体」傘下の同和業者の違法行為や行政指導無視、そしてこれを是正させようとした行政担当職員が受ける恐怖。 これは体験したことのない人には理解が難しいのではないかと思います。 ですから、これに言及しないで行政責任を問うのはいかがなものかと考えます。

 ところで私は40年以上前ですが、同和企業でアルバイトをした経験があります。 その体験から見た同和企業とはどういうものだったか、拙ブログ7月11日付でその思い出話を書きました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/07/11/9396847

 要点を再録しますと、

私はこれを知って、40数年前に同和企業でアルバイトしていたこと思い出しました。 そこはH県I市のHという同和地区にあったN組という土建会社でした。 私は土建の知識なんて全くなかったのですが、驚きの連続でした。 一例を挙げますと、

会社は農業用水路改修工事を請け負った際に、近くの空き地を残土の仮置き場として借用した。 そうしたら会社はどうしたか。 空き地内に運び込まれた残土を周りに高く盛り上げて、周囲から見えないようにした。 そうすると残土の山の内側は平らな地面として残る。 次にこの平坦地を深く掘り下げて、その土を売り飛ばす。 台地の地山の土だったから埋め立てに使うのにちょうどいいので、そこそこに売れたそうだ。 そして借地の真ん中に空いた穴に、今度は産業廃棄物を含んだ泥土を埋めていった。 産業廃棄物はいつの時代でも同じだが、廃棄には苦労するもので、多額の費用が掛かる。 会社はこれを引き受けて、実際はこの穴に放り込んだのであった。 最後は穴をきれいに埋めて整地し、所有者に返還して終わった。

当時の私は土建の知識がありませんでしたから、会社の人から、土建屋はどこでもこれと同じことをしている、お金を出して他人の土地を借りてもお金を儲ける、これが知恵というものだと言われて、土建業界ってすごいところなんだと思ったものでした。

そして行政から何か言われたら、こっちは同和だと言い返せばいいと教わりました。 ただ当時は、同和は社会から差別された存在と学校で習っていましたから、それが特段悪いこととは思っていませんでした。

 このうちの「行政から何か言われたら、こっちは同和だと言い返せばいいと教わりました」というところです。 何だ、そんなことか、と思われるでしょうが、「同和」に直接関わったことのない人には分からないでしょうねえ。

 私のアルバイト経験では、ある工事でこんなことをしたら近所から苦情が来ますよと言ったら、「それやったら俺が出て行ってやる、この顔を見せたらビックリして引っ込むから」と言っていましたねえ。 つまり見ただけで恐ろしくなるような雰囲気を持った人間―そんな人が実際にいたのです。 一般人が見たら怖くて喋れなくなります。 だから行政に苦情を入れることになります。 そして行政担当者は毎日のようにかかってくる苦情の電話に応対して、現場に行政指導に行っても業者からは全く無視されるし、そしてあの怖い顔を目の当たりに見なければならず、ついには「僕は同和に殺される」と嘆いておられましたねえ。

 ここまで書くと、さらにその行政担当者になりかわって言ってあげたくなります。

 行政担当者の嘆きのもう一つは、それを訴える場がないということです。 マスコミは「同和」と聞いてしり込みして追及しようとしないし、警察は犯罪でない以上こちらは関係ないという態度です。 そして市当局は市民に向かって「同和問題の解決は全国民の課題!」なんて呼びかけていますから、同和業者の社長は市長なんかとしょっちゅう会っていて、知人関係になっています。 ですから市長はじめ市幹部連中は自分のところの職員からの、同和業者がどれほどエゲツないのかという情報を最初から聞く耳を持ちません。 結局担当者は上司からも守ってくれずに一人で孤立し、同和業者の違法行為を見逃すような事態になります。 すると同和業者は行政なんか怖くないと公言し、またそれを自慢し、更なる違法・迷惑行為を平然と繰り返します。

 この「違法・迷惑行為」に、私もアルバイトとして関わっていたのですから、私も同罪ですね。 このようなことは忘れねばならないと思ったので、今まであまり言わないようにしてきました。 しかし熱海土石流災害を見て、少しずつ思い出してきます。 やはり言っておかなくてはならないと考え直しました。

 ところで拙ブログで、私は同和企業の共通する特徴として、次のように論じました。

その後、他地域でも悪い評判の立つ土建屋には必ずと言っていいほどに同和企業が含まれていることを知りました。 こういう経験をして、私はようやく同和企業に共通する体質というものがあるのではないかと思うようになりました。

「共通する体質」とは、前述したように法令違反と行政指導無視を平然と行なうこと、同和であることを公然と示すこと、特に立場が悪くなりそうな時には効果が大きい、そしてその場さえ切り抜けたら、後はどうなっても知らぬ顔をする‥‥といったところです。

ここが、熱海土石流の原因をつくった同和企業と、私がアルバイトで働いたことのある同和企業の共通点だと感じましたね。

 今回の熱海災害は、例えば『デイーリー新潮』などがその業者を追及しています。https://news.yahoo.co.jp/articles/c5b953a672f27ce3889a2fd1de2b9cd5c27f9519  しかしその悪徳業者が「同和企業」であり、上述したような典型的な「同和」体質を身に着けて周囲に「同和」の恐怖を与えていた、という点まで追及してほしかったですね。 

 こういう類の話はかつては西日本で解放同盟関連が多かったのですが、今回は東日本で自由同和会ですね。 「同和」の体質は変わらずに、場所が西から東へ、そして組織が解同から自由同和へと変えていっているのかなあ、という印象ですね。

 「同和」に対しては、マスコミは今なおタブー扱いです。 今度の事件を機会に「同和の体質と恐怖」が明るみに出ることを願っています。

【拙稿参照】

同和企業の思い出 ―熱海土石流災害を見て http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/07/11/9396847

差別問題の解決とは?      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/07/09/9266205

同和出自を明かすことは‥‥   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/07/13/9267584

解放運動の闇専従-森山栄治  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/12/18/9190648

深沢潮さん―毎日記事への違和感2021/07/22

 7月15日付の毎日新聞に、深沢潮さんを取材した記事である「差別が許されないのは恥だから? 在日作家・深沢潮さんの違和感」を読む。 (有料記事なので、関心のある方は図書館にでも行ってください) https://mainichi.jp/articles/20210714/k00/00m/040/333000c

 こんな在日像(被差別・被害者)を公言する人が今でもいるんだなあという感想ですね。 深沢さんは1966年生まれとありますから、この世代までもがこういう感覚を持ち続けているのだろうか、と思いました。 在日をどう考えるかは人それぞれですから、それはそれでいいのですが、昔を知る私にとっては、これはちょっと一言しておかねばならないと思うところがありました。 それを紹介します。

普段は日本の通称名を使っている女子大生の「金田知英」はパスポート取得を機に自分の国籍を改めて意識し、「日本人ではない」事実に戸惑いを覚える。

 これはご自分が書いた小説での話ですが、おそらくご自身の体験談だと思われます。 「パスポート取得を機に自分の国籍を改めて意識し、『日本人ではない』事実に戸惑う」とありますが、パスポートを見て初めて「国籍を意識」するなんて、ちょっとビックリ。

 在日は16歳の時に外国人登録をするのですが、普通はこの時に「国籍を意識=日本人でない」ことを自覚するものです。 深沢さんは1966年生まれですから、1982年頃に指紋押捺をしたはずです。 その時に黒く塗られた左手人差し指を見ながら、自分は日本人ではないと意識するものですがねえ。 

 またそうでなくても、自分が外国人であることはどこかで判明するものです。 例えば住民票の提出を求められたら、代わりに外国人登録済証を出したとか(2012年までは外国人には住民票がなかった)、そんな経験をしたはずです。

 ですから大学生時代にパスポートを取得して初めて「国籍を意識」するなんて、あり得るのだろうかという疑問が湧きます。

小学6年生の時に初めて韓国にある父の田舎に行ったんです。確か冬休みで、日本に帰ってきた後に自分のことをみんなに言いたくなったんですよね。学校で朝、スピーチする時間があって『実は韓国人です』と話した

 小学6年生の時に、学校でみんなに「韓国人」だと明らかにしたということです。 小学生時代に親の故郷である韓国に連れられて行って、そこで親戚から歓迎されたという話ですね。 これは日本人の子でも親の故郷に行ったという話はよく聞くもので、それと変わらないと思います。 ところが中学校になると、次のような事件が起きます。

中学3年生のときには別の意味でショックを受けた。通称名を使っていたのに、なぜか友達に在日であることが知られ、突然距離を置かれるようになった。

 つまり小学校の時に自分は日本人ではなく韓国人だと名乗ったのですが、中学校の時は周囲の級友たちは誰もそれを知らず、3年になってようやく知られて差別されるようになった、ということです。 果たしてこんなことがあり得るのだろうか? という疑問が湧きます。 中学校は遠く離れていて、小学校時代の彼女を誰も知らなかったということなのでしょうか。

大学時代にはケーキ屋でアルバイトをしようとして、日本国籍ではないことを理由に断られたことも。在日に対する構造的な差別が社会に組み込まれ、就職活動では多くの一般企業に応募すらできなかった。採用されたのは、国籍を問わない外資系の証券会社。やりたい仕事ではなく、「入れる会社に入った」結果だった。結局仕事が合わず、半年で退職した。

 ここが一番ビックリしたというか、あり得ない話だろうと思ったところです。 彼女は1966年生まれですから、大学時代は1985~1989年頃と判断されます。 この時期の日本はいわゆるバブルに差し掛かる時期で、人手不足が深刻化し始めた頃です。 その時にアルバイトを申し込んだら「日本国籍ではないことを理由に断られた」とは、ビックリ。絶対にないとは言えませんが、当時を知る私には信じられない気持ちです。

 さらに大学卒業時は1989年前後ですから、正にバブルの真っ最中です。 人手不足が最高潮でしたねえ。 また1970年代半ばのいわゆる日立闘争で在日の就職差別が違法とされて、それ以降一般企業は採用時に国籍を問わないようになりました。 日立闘争以後とバブル最盛期という時期に、一般企業が外国人からの応募を最初から断るなんて、およそあり得なかったと思うのですが‥‥。 

 ただし在日の中には、どうせ日本企業に入れないだろうし、入っても在日だからと差別されるだろうからといって、最初から就職活動しなかった人も少なくなかったです。 当時、在日の就職活動を支援し就職情報誌を発行していた人は、在日は日本企業、とりわけ大企業へは就職活動する前から躊躇する傾向があると嘆いておられましたねえ。 深沢さんもこういう類の人だったのだろうかと想像しました。

「韓国人の血は入れられない」「韓国人なんてガッカリだ」。付き合っていた日本人男性は相手が在日だと分かった途端、こんな言葉を平然と言い放った。

 彼女はこの男性と付き合っている間、自分が韓国人だということを知らせていなかったのですねえ。 前後の文脈から、これは彼女が25歳前後と推定されます。 とすると1991年前後。 この時代に「韓国人の血は入れられない」「韓国人なんてガッカリだ」という男がいたことに、ビックリ。 こんな男と知って、早く別れてよかったですね、と言うしかないです。

 なお「韓国人の血は入れられない」というのは、1980年代までは「部落と朝鮮はダメだ」と強く主張するお年寄りがよく言っていました。 理由は「そんなのと結婚したら、血が濁る」というものでした。 お年寄りの差別発言はエゲツないものでしたね。 しかし1990年代にはそんなことを言う年寄りはいなくなりました。 しかし深沢さんは若い男性から言われたといいますから、ビックリです。

深沢さんは27歳のとき、お見合いで知り合った同じ在日韓国人の男性と結婚した。

深沢さん自身は妊娠を機に、30歳で日本国籍を取得した。

 昔は、在日は結婚相手も在日でなければならないと、在日専門の結婚仲介所があちこちにありました。 しかし在日の若者も日本の若者と同様に、親の言う通りにお見合いして結婚するなんて嫌がる傾向が強くなり、1990年代に衰退していきましたね。 しかし彼女はそんな時代に在日同士で見合い結婚したというのですから、何と親孝行な娘さんなのかと感心します。

 しかし彼女は結婚3年後に妊娠を機に帰化したとあります。 ふつう在日同士の結婚の場合、国籍や民族で悩むことがありませんので、直ぐに帰化することはあまりないものです。 子供が小学校に上がる頃か、あるいは子供が成人になる前に帰化を考える人が多いです。 結婚わずか3年後に子供が生まれる前に帰化を決めたのは、ちょっと珍しいですね。

 なお在日同士で結婚した場合、その子は韓国籍となります。 注意しなければならないのは、韓国籍の男子には兵役の義務があり、在日は単に免除されているだけだということです。 韓国人男子は韓国領事館に行って兵役免除の証明をしてもらわねばならず、これを怠ると、韓国に入国する時に徴兵されるかも知れないということです。

 そうでなくても韓国では、徴兵年齢期間中の男子は徴兵に応じない限り国籍離脱を認めてはならないとする主張が強くなっています。 そうなれば、20~29歳に軍隊に行かない在日男性は韓国の国籍離脱が出来ませんので、日本への帰化が困難になることでしょう。 あるいは日韓の二重国籍でしたら一方の韓国国籍離脱ができませんから、国籍がややこしくなります。

 以上は将来の話で実際のことではありませんが、私は在日男子のいる家庭には、19歳の徴兵検査年齢に達する前に帰化した方がいいですよと勧めています。 (韓国では19歳に徴兵検査、20歳以上が実際の兵役となります)

 毎日新聞の記事を読みながら、感想を書いてみました。

尹東柱と孫基禎の国籍について2021/07/18

 7月8日付けの『中央日報』で、「ウィキペディア日本語版に尹東柱詩人の国籍を『日本』に表記…修正を要求」と題する記事が出ました。 ↑は、それに掲載された「ウィキペディア」の部分です。 問題になったところには赤線が引かれています。

https://news.joins.com/article/24100893   https://japanese.joins.com/JArticle/280543?servcode=A00&sectcode=A10

 記事の内容は、尹東柱に関するところは次の通りです。

中国のポータルサイト「百度(バイドゥ)」で尹東柱詩人の国籍を中国と表記したことに続き、今度は日本語版ウィキペディアが尹東柱詩人の国籍を日本と表記した。

誠信(ソンシン)女子大学の徐ギョン徳(ソ・ギョンドク)教授は8日、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に投稿してこのように知らせた。

徐教授は「情報提供を受けたが、日本語版ウィキペディアでは尹東柱の国籍を日本と紹介している」と指摘した。ウィキペディア日本語版のホームページ(ja.wikipedia.org)で「尹東柱」を検索すれば、日本国籍の詩人という説明が記されている。

徐教授は「抗議のメールを送って強く修正を要求した」とし「尹東柱詩人が日帝強占期に活動したのは歴史的なファクトだが、彼は日本人でなく韓国人という事実を全世界にきちんと発信すべきだ」と強調した。

 今ウィキペディアを開いてみますと、「日本国籍の詩人」は、「中華民国時代の満州・間島出身の朝鮮民族の詩人」と書き換えられています。 おそらく徐教授の抗議があったためでしょうね。

 尹東柱の国籍については以前に拙ブログで論じたことがありますので、お読みいただければ幸甚。  https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/13/9356544   要は、尹東柱は日本国籍を有した朝鮮人だったのであり、その生涯において韓国国籍や中国国籍を有したことはない、ということです。

 さらに記事では、ベルリンオリンピックのマラソン優勝者である孫基禎の国籍についても言及しています。

最近、日本は日本オリンピック委員会(JOC)のサイトでマラソン選手の孫基禎(ソン・ギジョン)氏を日本人のように紹介して論議を呼んだことがある。サイト内の「オリンピック日本代表選手団 記録検索」によると、1936年ベルリン五輪で金メダルを獲得した孫基禎選手を背景説明なしにまるで日本人のように紹介している。

徐教授は「孫基禎選手に対する紹介を歴史的背景の説明なしに『日本人』としか広報していないなど、歪曲がさらに深刻になっている状況」と指摘した。

一方、2月中国ポータルサイトの百度は尹東柱詩人の国籍を中国に表記し、民族を「朝鮮族」と表記して論議を呼んだ。徐教授は「百度側に持続的に抗議しているが、まだ変わっていない」と強調した。

 ここで孫基禎と尹東柱の二人の国籍をまとめて論じますと、 孫基禎は1912年、尹東柱は1917年の生まれです。 ところで1910年日韓併合によって大韓帝国という国家が消滅しました。 そして亡命政権とされる大韓民国臨時政府の樹立は1919年ですから、1910年から1919年までの10年間は、朝鮮人たちが属していた国家は大日本帝国です。 従ってこの時期の出生である孫基禎や尹東柱は日本国籍を持って生まれました。 

 1919年に上海に韓国臨時政府ができるのですが、世界でこれを承認する国は一つもなく、また「政府」を名乗りましたが、構成員である国民がいない状態でした。 つまり臨時政府は国籍事務をする意図も能力もありませんでした。 従って1919年以降も朝鮮人たちの国籍を証明することのできた国家機関は、引き続き大日本帝国だけでした。

 そして尹東柱は1945年2月に亡くなりました。 敗戦の6ヶ月前ですから、朝鮮は日本統治下でした。 ですから彼は生まれてから死ぬまでの間、大日本帝国の臣民でした。 彼は他の国籍を有したことがなく、日本国籍で一貫していたと言うことができます。

 ところで1945年に朝鮮は日本の植民地から解放され、南朝鮮には米軍が、北朝鮮にはソ連軍が占領して軍政を敷きます。 1948年に南に大韓民国(韓国)、北に朝鮮民主主義人民共和国(共和国)が樹立されましたから、その時になってやっと、南の朝鮮人は「韓国」、北の朝鮮人は「共和国」の国籍を有することになります。 それまでの1945~48年の3年間は国家というものがなく、国籍がなかったのでした。

 ですから孫基禎は1948年から韓国の国籍者となり、2002年に韓国国籍者として亡くなりました。

 まとめますと、孫の国籍の経歴は日本国籍(1912~45) →無国籍(1945~48) →韓国籍(1948~2002)という変遷を経たことになります。

【拙稿参照】

尹東柱の国籍は? https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/13/9356544

尹東柱は中国朝鮮族か韓国人か   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/21/8075000

『言葉のなかの日韓関係』(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/04/09/6772455

孫基禎が学徒兵志願を訴える―親日行跡 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/09/9355293

孫基禎は植民地支配に抗議したのか?  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/03/9352492

孫基禎の写真   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/03/05/9353642

同和企業の思い出 ―熱海土石流災害を見て2021/07/11

 今月3日に起きた熱海の土石流災害。多数の方が犠牲になっており、ご冥福をお祈りします。

 ところでこの土石流の原因が、裏山の伊豆山に施行されていた盛り土が崩壊したことによるものとされています。 その経過は、7月10日付け毎日新聞によると次の通りで、関連部分を引用します。(有料記事ですので、詳しくは図書館にでも行ってご確認ください) https://mainichi.jp/articles/20210710/ddm/003/040/066000c

盛り土があった場所は海岸から約2キロの逢初(あいぞめ)川最上流部だ。神奈川県小田原市の不動産管理会社(清算)が2006年にこの地点を含む上流一帯の土地を取得し、盛り土を造成した。同社が静岡県土採取等規制条例に基づき、07年3月に熱海市に出した届け出によると、0・94ヘクタールの土地に3・6万立方メートルの盛り土をする計画だった。

ところが、土石流発生後に静岡県が10年1月の国交省のデータなどを基に推計すると、盛り土の総量は届け出の1・5倍の5・4万立方メートルに上っていた。崩落災害を防ぐ観点から、県の技術基準は盛り土の高さを原則15メートル以内と制限しているにもかかわらず、問題の盛り土の高さは最大50メートルに達していた可能性がある。

流れた土砂の総量は5万5500立方メートル。大半は盛り土とみられ、起点以外では土砂の流出は限定的だったとされる。起点が盛り土の部分なのか、山の地肌部分かは明確ではないものの、県は盛り土が被害を大きくした要因とみている。

盛り土を造成した不動産管理会社を巡っては、法令違反の発覚と行政指導が繰り返された。07年4月、盛り土の造成面積が条例で規制する1ヘクタールを超えることが判明し、県は翌月に文書で指導した。この違反は是正されたが、10年8月には産業廃棄物の混入が確認されたため、県が撤去を求めた上、熱海市は翌月に工事の中止を指導した。しかし同社は行政の指導に従わず、是正されないまま土地は11年2月、東京の企業グループ前会長に売却された。

住民の間には「11年以降も土砂を積んだトラックが上流へ向かうのを見た」との証言が複数ある。盛り土については「量と期間からみて、前の所有者(小田原市の不動産管理会社)だけが搬入したのではない」との見方もあり、県は経緯を詳しく調べる考えだ。

 土石流の原因となった盛り土の造成工事をしたのは、法令違反と行政指導不服従を繰り返した「小田原市の不動産管理会社」です。 この会社の社長が天野さんという方で、自由同和会神奈川県本部の会長です。 自由同和会なんて知らない人が多いでしょうが、部落解放同盟などとともに、いわゆる同和団体の一つです。 つまり無茶な盛り土工事をしたのは、同和企業ということですね。

 私はこれを知って、40数年前に同和企業でアルバイトしていたこと思い出しました。 そこはH県I市のHという同和地区にあったN組という土建会社でした。 私は土建の知識なんて全くなかったのですが、驚きの連続でした。 一例を挙げますと、

会社は農業用水路改修工事を請け負った際に、近くの空き地を残土の仮置き場として借用した。 そうしたら会社はどうしたか。 空き地内に運び込まれた残土を周りに高く盛り上げて、周囲から見えないようにした。 そうすると残土の山の内側は平らな地面として残る。 次にこの平坦地を深く掘り下げて、その土を売り飛ばす。 台地の地山の土だったから埋め立てに使うのにちょうどいいので、そこそこに売れたそうだ。 そして借地の真ん中に空いた穴に、今度は産業廃棄物を含んだ泥土を埋めていった。 産業廃棄物はいつの時代でも同じだが、廃棄には苦労するもので、多額の費用が掛かる。 会社はこれを引き受けて、実際はこの穴に放り込んだのであった。 最後は穴をきれいに埋めて整地し、所有者に返還して終わった。

 当時の私は土建の知識がありませんでしたから、会社の人から、土建屋はどこでもこれと同じことをしている、お金を出して他人の土地を借りてもお金を儲ける、これが知恵というものだと言われて、土建業界ってすごいところなんだと思ったものでした。

 そして行政から何か言われたら、こっちは同和だと言い返せばいいと教わりました。 ただ当時は、同和は社会から差別された存在と学校で習っていましたから、それが特段悪いこととは思っていませんでした。

 しかし結局はこの会社の評判の悪さを知るようになって辞めたのです。 同和だから悪いのではなく、会社のやり方が悪いからと思っていました。

 しかしその後、他地域でも悪い評判の立つ土建屋には必ずと言っていいほどに同和企業が含まれていることを知りました。 こういう経験をして、私はようやく同和企業に共通する体質というものがあるのではないかと思うようになりました。

 「共通する体質」とは、前述したように法令違反と行政指導無視を平然と行なうこと、同和であることを公然と示すこと、特に立場が悪くなりそうな時には効果が大きい、そしてその場さえ切り抜けたら、後はどうなっても知らぬ顔をする‥‥といったところです。 

 ここが、熱海土石流の原因をつくった同和企業と、私がアルバイトで働いたことのある同和企業の共通点だと感じましたね。

【拙稿参照】

差別問題の解決とは?      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/07/09/9266205

同和出自を明かすことは‥‥   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/07/13/9267584

社会的低位者の差別発言     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/05/09/9244588

児童虐待暴言「橋の下で拾った子」は朝鮮由来か?2021/07/07

 2年程前に、「お前は橋の下で拾ってきた子だ」という児童虐待暴言は日韓で共通すると論じました。  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/09/9125209

 この暴言に関して、尹学準さんが著書の中で次のように触れているのを見つけました。

(紹修)書院を出てからちょっと走ったところで運転手が突然車を停めた。小さな橋のたもとだった。

「これがあのチョンダリ(チョン橋)ですよ」と言った。

なるほどこれがかの有名な『チョンダリ』か――。私は何の変哲もない小さな橋をしげしげと眺めながら、はるか遠い幼児期に想いを馳せた。

朝鮮では子供をからかうときによく、「実はお前はどこそこの橋の下で拾ってきた子なんだよ」とか、言うことを聞かない子供に対して、「そんな聞き分けのない子供はチョンダリの下へ捨てっちまうぞ」と脅かしたものである。

私に八親等の弟がいた。今はすでに五〇を過ぎた中老の域に達していて社会的にもかなりの地位にいるのだが、その弟が本家のアンバン(居間)で大人たちからからかわれていた。「実はチョンダリの下で拾ってきた子なんだ。だからお前は本当は尹家の子ではなく、どこか苗字さえも分からない子なんだ」といってからかったのである。しかし、とびっきり利発な彼は、「また始まった」と言わんばかりの涼しい顔でニヤニヤしていた。そのとき、傍で黙って聞いていた彼の父親が突然、

「いやはや、あの日は本当に寒かったなあ」と表情一つ変えずに言ったものだから、彼ははじめてわっと泣き出したのである。

むかし、この周辺の女どもが、書院で勉強していた儒生たちと浮気して生んだ赤ちゃんを、処置に困ってこの橋の下に捨てて逃げたということから、こういう戯れなあそびが広まったのである。  (以上は尹学準『歴史まみれの韓国―現代両班紀行』亜紀書房 1993年1月 232~233頁)

 「書院」というのは李朝時代の在郷私立儒学教育施設で、朝廷から扁額や書籍、田土などが下賜されました。 その最初の賜額書院が、ここに出てくる「紹修書院」です。 その後の朝鮮ではこの「賜額書院」が全国にいっぱい作られ、書院らは時に国政を揺るがすほどの激しい是非(シビ―闘争・党争・ケンカのこと)を繰り広げました。 朝廷はたびたび禁令を発しましたが収まらず、1871年に大院君が47書院以外を強制的に撤去しました。 これは朝鮮史の概説にも出てきますから、みなさんもご存知と思います。

 その最初の紹修書院の近くに「チョンダリ」という橋があり、その橋が児童虐待の暴言「橋の下で拾ってきた子」の舞台だったというのが、著者の幼児期の思い出話です。 

 著者の尹学準は1932年生まれですから、この思い出話は1930年代後半と推定できます。 ですから、その頃には「橋の下で拾ってきた子」の暴言は朝鮮ではすでに広まっていたと考えられます。

 ところでこの暴言は、日本では少なくとも戦後に全国に広まっていました。 しかしその起源について、つまり何時どこから始まったかについては定かではありません。 今言えるのは、日本でも朝鮮でもこの暴言がかなり以前から広く分布するということだけです。

 私は日本が起源で近年に韓国で広まったと思っていたのですが、そうではなく朝鮮でも昔から広がっていたということですね。 とすると暴言の起源は、日本と朝鮮で偶然に同時に生じたものなのか、或いは最初は朝鮮で生じていて植民地時代に日本に広がった、となるのかも知れません。 

【拙稿参照】

児童虐待の暴言「橋の下で拾ってきた子」は日韓共通だが‥ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/07/09/9125209