辺見庸さんの創氏改名論2007/10/06

 辺見庸さんは近著『いまここにあることの恥』(毎日新聞社 2006年7月)のなかで、創氏改名について次のように説明しています。

>朝鮮人から固有の姓を奪い日本式の名前に変えさせた政策。皇民化政策の一環であり、他民族への天皇制支配を体現化する蛮行と言える。1939年、朝鮮民事令改正という形で公布され、40年から施行された。>  (99頁)

 このような間違いだらけの解説が、著名な人による、しかも毎日新聞から出版される本にあるのですから、ビックリ!!  これでは辺見さんは歴史の勉強をしているとはとても思われないし、毎日新聞社の関係者も同様に歴史にあまりにも疎いとしか言いようがありません。

 一度定着してしまった虚偽の歴史は、なかなか直すことが難しいと痛感しました。

   http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daisanjuudai    http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

コメント

_ マイマイ ― 2010/04/17 09:56

  第12題「創氏改名とは何か」は法的な側面を理解するもの、或いは植民地行政初期のねらいという印象を持ちました。実際は、日本男子が戦地に赴き、世の中が戦時色で染められていこうとする時代になされた政策です。なぜ届出の期間を設定し急いだのか、もっと社会的な時代背景を語らないと創氏改名の実相はつかみにくいような気がします。
  現時点での個人的な創氏改名の理解を書きます。
  総督府は植民地行政の初期から、明治時代の日本人の名前政策実施と同じように「氏制度」を導入したいと考えていた。目的は>朝鮮の家族制度を否定し、日本の家族制度を導入する>です。しかし日本人と朝鮮人が名前上まったく区別がつかなくなることには日本側に反対意見もあった。
  1937年に日中戦争が始まり、「皇国臣民の誓詞」が制定され、1938年には「皇民化政策」が進み、朝鮮人が志願できる陸軍特別志願兵令が施行されます。これ以降、父のように学校を通じて志願兵になることを勧奨される朝鮮人青年が出てきます。適齢の日本男子は出征し満州や中国大陸で戦い、戦死者も出ています。志願兵に応募する朝鮮人も増えていきます。
  1939年11月に「創氏」を含む朝鮮民事令が発布、1940年2月に施行されます。朝鮮半島では約80%が日本人風の氏を設定しますが、朝鮮姓も本貫欄に確かに残ります。圧力を受けた人もいれば、時勢を考えて積極的に届け出た人もいたと思います。残りの20%は無関心か世事に疎い層という感じがします。例外もあるでしょうが、決して「日本人風の氏がいやなら、じっとしておけ」ではなかったはずです。
  1941年12月太平洋戦争が始まります。戦局が不利になっていくにつれ戦死者も多く出て、若くない日本男子も召集されていきます。女子も銃後を守ります。
  1942年、朝鮮人の徴兵制実施準備を決定したと発表されます。このあたりで朝鮮人を「半島人」と呼びかえることが広まります。
  1943年12月に日本人の法文系学生に対する「学徒出陣」が実行されますが、10月には朝鮮人学徒の兵役志願の日程が発表されています。朝鮮人学徒の葛藤は姜徳相著『朝鮮人学徒出陣』に詳しく書かれています。
  1944年4月に朝鮮半島に徴兵制が施行されます。
  植民地行政のある時期からは、「創氏改名」は徴兵制の実施をスムーズにするためのシステム作りと変わっていったと考えるほうが私には理解できます。軍隊内部では「日本人風の氏」が調和が保てて絶対いいけれど、期限に間に合わないなら「朝鮮姓をそのまま氏」でも「創氏」できたら結果オーライということではないでしょうか。
  私は「イエ」制度を天皇制との関係で考えてもしっくりきませんが、国家が「イエ」を通じて個人を把握した上で、人を集めたり国家の意向を民に伝えるシステムとして語られるとピンときます。
  各「イエ」から「日本人風の氏」を持つ「朝鮮半島出身青年」を軍隊内部に整然と取り込んでいきたかったのではないでしょうか。

_ 辻本 ― 2010/04/18 11:34

マイマイ様 ご投稿ありがとうございます。
成る程と思うところも多々あるのですが、ちょっと疑問があります。

>  植民地行政のある時期からは、「創氏改名」は徴兵制の実施をスムーズにするためのシステム作りと変わっていったと考えるほうが私には理解できます。>

 創氏改名令の施行時は、朝鮮で徴兵制を敷くかどうかについて、全く具体化する見通しの立っていなかった時期です。この時に、「徴兵制の実施をスムーズにするためのシステム」としての創氏改名であったとは、ちょっと考えられないのですが‥。

>軍隊内部では「日本人風の氏」が調和が保てて絶対いいけれど>
>各「イエ」から「日本人風の氏」を持つ「朝鮮半島出身青年」を軍隊内部に整然と取り込んでいきたかったのではないでしょうか。 >

 創氏改名時には、大日本帝国軍隊には朝鮮人の軍人がいます。有名な方では、洪思翊、金錫源などです。彼らは創氏改名後もその名を変えていません。果たして「軍隊内で日本人風の氏が調和が保てる」、と言えるのどうか、と考えます。
 また日本人でも「金」「田」「張」「団」「菅」「今」など、漢字一字で音読みする氏の方がおられます。先祖代々の姓です。こういった方が、軍隊内では調和がとれなかったということになるのでしょうか。

_ マイマイ ― 2010/04/24 11:41

  漠然とした知識を検証し始めたばかりなので、歴史をトータルに眺めて語る力の限界と考えていることを表現するむずかしさを感じています。
  最初の疑問点ですが、ご指摘どおり「システム作りと変わっていった」とするのは結論を急ぎましたね。ちょっと反省しています。日中戦争が始まって以来、上層部は兵力不足の解消のために、徴兵を猶予されていた学生や朝鮮半島出身青年の徴兵を多少なりとも考えていたけれど、それぞれ別の理由で躊躇していたと思っています。
  1943年のいわゆる「学徒出陣」も急に実施されたものではなく、1941年の修業年限の短縮という形を取った同年の卒業生の徴兵を始まりとしています。同じように朝鮮半島出身青年も1938年の「陸軍特別志願兵制度」で応募を可能にしています。実際、創氏改名実施年ぐらいから志願兵への応募者も飛躍的に増えています。話しはそれますが、その様子について、植民者二世の作家森崎和江氏は回想記の中で「戦争に対して青少年の心は単純でない……陸軍志願兵制度に対する反応は複雑だった。けれどもまた、男は戦争に直面して時代を担っているのだ、という誇りが日本人・朝鮮人を問わず、ありありと態度にあふれていた」と書いています。応募する朝鮮半島出身青年の動機は一様には語れないと思っています。
  「戦前日本在住朝鮮人関係新聞記事検索」で「徴兵制」で検索すると48件ヒットしますが、トップは1941年1月31日付けの地方新聞で「朝鮮徴兵制/準備進む」で、残りはすべて1942年5月の徴兵制施行の決定が発表された後の記事です。
  総督府が朝鮮民族への「氏制度」を発案したときは、「徴兵制」の見通しはなかったと思います。しかし氏制度が導入されることと「徴兵制」を長期的視野に持つことは葛藤も矛盾もないし、むしろ関連性が高いです。偶然時期が重なったとしても、陸軍特別志願兵令から徴兵制決定までの期間に実施ですから、全く見通しを持っていなかったとは考えにくいです。見通しが全くなかったとするなら、この政策だけが時代背景から切り離されて宙に浮いてしまう感じがします。戦争が美化されていた時代です。
  「徴兵制の実施をスムーズにするためのシステム作りという長期的視野も持っていた」或いは「長期的視野を具体的に持つにいたった」と個人的意見を訂正させてもらいます。
  次の疑問点ですが、日本人風の氏を持たなかった帝国軍人や代議士(朴春琴)の名前だけは知ってます。1930年代には名前が知られていたはずです。正規の試験で陸軍士官学校に入学するほどですから、相当な秀才です。存在そのものが、いろんな意味で別格だったとしか今のところいえないです。洪思翔について書かれた本が出版されているので読んでみたいと思っています。
  漢字一文字の音読みの氏は有名な方も多いですね。彼らは日本人です。自分の氏を名乗っているだけです。問題は上下関係が厳しい軍隊の中で朝鮮人が朝鮮姓を氏として使うことに対して、やりにくい面が想像されるということです。この頃、なぜ朝鮮人を半島人と呼びかえるようになったかです。
  森崎和江氏は「……朝鮮人と呼ぶことすら禁じた。朝鮮人と自他称することで戦争遂行者の立場から逃亡する、と、支配層は判断したのだ」と書いています。あくまでも創氏が目的ですが、日本人として戦う士気を高めるためには「日本人風の氏」を為政者や軍部は望んでいたと私には思えます。「調和が保てて」ではなくて「士気を高められて」とここも訂正させてもらいます。
  余談ですが、仮に朝鮮民族から「創氏」の理念の同意が得られて実施となった場合、希少の姓はそのまま氏にできても、同姓が多い姓ではやはり「日本人風の氏に近いもの」を創らないと不都合があったと想像されます。発案した学者(?)にも「日本人風の氏」へのこだわりがあったことは頷けます。

_ マイマイ ― 2010/05/01 10:51

  第30題「創氏改名の残滓」を興味深く読ませてもらいました。
  <定着している俗説<で書かれていることはおおむね同意できます。在日の通称を「創氏改名の残滓」と考える人は、現在はいないと思いますが……。
  定着してきた理由は、
①現在ほど研究が進んでいなかったし、一般向けの資料もなかった。
②戦後からの年月が浅く、在日の歴史を独自に捉えることができなかった。
③関心を持つ人から成る限られた世界で、インパクトの強いものとして流布した。日本人の受け止める側には「善意」があった。
と考えています。
  <創氏改名の残滓の例<には違う意見を持っています。
  日本では漢字「氏」「姓」は同じ意味合いで使われてややこしいですが、日本人の氏または姓は家族名またはイエの名前です。姓は本来は血縁集団の名前を表すそうです。
  で、保育園に子どもを本名で預けている母親が親子であることを他の子どもに認識してもらうために、便宜上夫の姓を名乗っていた韓国人夫婦のケースを知ってます。例を含めてこれらは、日本社会の慣習に合わせている或いは、無意識のうちに受け入れている現象だと思います。理由は日本に住んでいるからです。
  戦前渡日した朝鮮人は、日本名に関して不愉快な経験をしていますが、それとは別問題で「氏」を使う生活を受容していたと思われます。それは聞きなれぬ「日本風の氏」であったり、「朝鮮姓」を代用することでした。日本は「氏」なしでは日常生活が送りにくい社会です。現在でも来日した韓国人はすぐに「キムさん」「パクさん」と他称されるようになりますが、これは「氏」で呼ぶことが礼儀とする日本の慣習から、一見「氏」のように見える「姓」で呼ばれるからです。やがて「キムです」「パクです」と自称するようになります。韓国では、日本の氏のように姓だけで名乗ったり呼ばれたりする慣習はないはずです。むしろ姓だけで呼びかけると、失礼な行為にあたると聞いたことがあります。
  現在の韓国はファミリーネームを持つ欧米の影響がありますが、それとは別に夫人が夫の姓を便宜上でも名乗る或いは、家族の名前として父親の姓を使う現象があれば、それこそ「創氏改名」の関連を考えてもいいと思います。しかしそのような慣習を持つ国ではありません。「創氏改名の残滓」と呼べるものはどこにも存在していないと考えます。
  <朝鮮民族はなぜ家族名がないか<もおおむね納得はできます。
  日本が家族名としての「氏」をみなが持つようになったのは明治時代で西洋の慣習の導入と理解しています。以下は私のあいまいな知識ですが、大きくはズレていないと思います。アジアを見渡して、日本以外で家族名を持っている民族はいるでしょうか。身近な国ではフィリピン、タイ、インドが未確認ですが、持っているなら、西洋文化の受容或いは、国家の管理に重点をおいた歴史的経緯が関係しているように思います。
  漢字文化圏だった民族はありません。イスラム教文化圏のマレーシアとインドネシア、さらにモンゴルでは個人名しかないはずです。ただし、子の名前の後ろに父親や祖父の名前をつけるらしいです。一方ミャンマー(ビルマ)では個人名だけしかなく父系を表現する伝統はないと聞いています。
  日本はいい意味で稀なケースだと思います。しかし家族名を持たない民族は珍しいことではなく、しかも傍が思うほど不自由していないということを確認しておきたいです。
  個人的には家族名を持つことに悪い感情は持っていません。

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