木村幹『全斗煥』(2)―歴史問題は中曽根訪韓から ― 2025/01/11
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027 の続きです。
日本と韓国は歴史問題でこれまでずっと摩擦を続けてきたし、これからもなかなか収まりそうもありません。 ところで日本側の認識では1965年の日韓条約で歴史問題は「最終的かつ完全に解決」としてきたのですが、韓国側ではくすぶり続けてきました。 歴史問題が日韓の外交問題に浮かび上がったのは、全斗煥大統領の時からです。
全斗煥大統領は1984年に日本を国賓訪問した時、天皇から植民地支配を謝罪する言葉が欲しいと要求し、すったもんだの末、宮中晩さん会の際の天皇陛下が挨拶に「両国の間に不幸な過去が存したことは誠に遺憾」と述べたことで一旦は決着しました。
しかしその次の盧泰愚大統領が国賓訪問した際、韓国側は前の全大統領の時よりも〝さらに一歩踏み込んだ謝罪“の言葉が欲しいと要求し、これもすったもんだの末、天皇陛下は「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い,私は痛惜の念を禁じえません」という言葉を述べました。 これで歴史問題は決着してもう問題化しないと思いきや、その後の慰安婦問題等々で、日韓関係は泥沼状態からなかなか抜け出せずに今に至っていることは周知だと思います。
以上の経過から、日韓の歴史問題の原点というか出発点は1984年9月の全斗煥大統領国賓訪問の時であると、私は思ってきました。 しかし木村幹『全斗煥』(ミネルヴァ書房 2024年9月)によれば、出発点はそれより以前にあるということを知りました。
日本の現職首相の韓国訪問は‥‥1983年1月の中曽根康弘による訪問が初めてであった。 ‥‥ここで今日の日韓関係にまで繋がる大きな出来事がひとつあった。 それは韓国側が首脳会談において、中曽根からの「過去の反省」の言葉を求めたことである。 結果、中曽根は晩さん会の場で次のように述べている。
他方、日韓両国の間には、遺憾ながら過去において不幸な歴史があったことは事実であり、我々はこれを厳粛に受け止めなければなりません。 過去の反省の上にたって、わが国の先達はその英知と努力によって一つ一つ新しい日韓関係のいしずえを築いてこられました。
会談終了後、全斗煥は韓国国会にてこの首脳会談を次のように評価している。
日本首相のわが国への初の公式訪問を通じて両国政府は、昨日を反省し、明日を設計するについて志を同じくした。‥‥
今日において重要なのは、ここにおいて韓国側がこの首脳会談を本来の目的であった「経済協力」問題や朝鮮半島の平和と安定について議論することに加えて、「過去の不幸な歴史」を巡る問題を解決するものとして明確に位置づけ、また日本側の「反省」を求めたことである。 李承晩や朴正熙が訪日した際に行われた首脳会談では、韓国側は同様の「反省」を求めてはいないから、ここに大きな変化が存在することが分かる。 (以上 『全斗煥』 255~256頁)
1983年1月に訪韓した日本の中曽根首相は、韓国側が「過去の反省」を求めてきたのに応じて、「過去において不幸な歴史があったことは事実であり‥‥過去の反省の上にたって‥‥」と挨拶したのでした。 このような日韓間のやり取りが起きた背景には、前年8月にいわゆる教科書問題(「侵略」を「進出」に書き換えた)で日本が中国や韓国から批判を浴びた事件がありました。 これがあったからこそ、日韓首脳会談で歴史問題について韓国側が要求しそれに日本側が応じたという経過になったのです。 歴史問題が日韓首脳外交に取り上げられたのは、この時が初めてでした。
そして韓国側は中曽根首相の「反省」の挨拶を外交的勝利ととらえたようで、翌年の1984年大統領国賓訪問時にも要求して天皇陛下の「遺憾」発言を引き出したと考えられます。 『全斗煥』では次のように記しています。
このような全斗煥政権の姿勢がさらに明確になるのが、この中曽根訪韓の塀例を意味をも込めた訪日においてであった。‥‥ 全斗煥が重要視し、また韓国の世論も注目したのが、戦前に大日本帝国の元首として朝鮮をも君臨した、昭和天皇自身からの謝罪の表明であった。 全斗煥の訪日は、韓国の国家元首として初の公式な国賓訪問であり、当然それを迎える歓迎晩さん会は、国際慣例上は元首格として扱われる天皇の主催によって行われる‥‥ そこでは天皇による歓迎スピーチが予定されており、韓国側はここに植民地支配に関わる文言が入ることを強く期待した。
日本側は抵抗した。‥‥天皇が過去の問題について自らの意見を述べるのは「天皇の政治利用の禁止」を定める憲法の規定に反する、と主張したからである。 しかし韓国側は天皇による植民地支配に関わる発言を執拗に要求し、結果、1884年9月6日に行われた晩さん会で昭和天皇は、「今世紀の一時期において両国の間に不幸な過去が存在したことは誠に遺憾であり、再び繰り返されてはならないと思います」と述べることになった。 (以上 256~257頁)
結局、日本側は韓国側の「天皇の謝罪」要求を受け入れました。 そして韓国政府はこれを了承したのですが、韓国のマスコミは〝これでは謝罪になっていない”と厳しく批判し、世論を誘導していきます。
韓国メディアの多くは昭和天皇が用いた「遺憾」という言葉は謝罪を意味しておらず、韓国側が要求した条件を満たしていない、と批判した (257頁)
韓国では歴史問題で日本に対する厳しい世論が盛り上がります。 この世論を背景に、日韓の外交では韓国側が要求し日本側が謝罪するという「パターン」が生まれました。
重要なのは、こうして日韓両国が二回の公式首脳会談を通じて、外交関係における歴史認識の重要性を再発見し、会談ごとに日本側が謝罪の意思を示す、という一つのパターンが出来上がったことである。 (259頁)
この「パターン」は全斗煥大統領時代に生まれ、継続・拡大していきました。 次の盧泰愚大統領では1990年の国賓訪日時に更に強く要求し、「痛惜の念」という天皇陛下の言葉を引き出したのです。 つまり韓国がより強い「おわび」の要求を日本にしたら、日本はそれに応じてより強い反省で答えたのでした。 このようにして韓国側は歴史問題で日本に要求し、日本側はその要求に応じるという外交「パターン」が定着しました。 韓国の大統領が替わるたびにこの「パターン」が繰り返されたのでした。
そしてついに、2012年には時の李明博大統領が「痛惜の念とかいう言葉で誤魔化すな」と天皇発言を否定し、「天皇は韓国に来たければ独立運動家に謝罪しろ」と言うくらいに激化しました。 さらにその次の朴槿恵大統領は2013年に、「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、1000年の歴史が流れても変わることはない」と、1000年経っても解決しないとまで発言したのでした。
以上を振り返ってみると、〝日韓外交の失敗”は1984年の全斗煥大統領の訪日ではなく、それより前の1983年の中曽根康弘首相訪韓の時から始まったと言えます。
『全斗煥』を読んで、韓国現代史の知識を改めねばならないところです。 (続く)
木村幹『全斗煥』を読む(1)―捏造の北朝鮮軍事情報 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/01/06/9745027
【日韓歴史問題に関する拙稿】
韓国で歴史問題が国内政治化したのは2003年から https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/21/9474297
韓国が対日請求権解釈を変えたのは1992年から http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2022/03/15/9472590
韓国では日本の存在感はない http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/02/17/8789342
韓国の反日外交の定番 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/01/22/7546410
世界で唯一日本を見下す韓国人 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/10/06/8216253
中韓は子供と思って我慢-藤井裕久 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/12/27/7157809
実は韓・中を見下している「毎日新聞」社説 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/02/19/7226754
毎日新聞 「“強い国”こそが寛容に」 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/15/7344974
韓国を理解できるか https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/02/14/7572016
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