在日の出産に産婆さんがつくようになった2025/11/02

 昔の在日韓国・朝鮮人の日常生活に関心があり、ちょうど『ポッタリひとつで海を越えて』(合同出版)という本を見つけて購入し、興味深く読んでいます。 今回は出産で、いわゆる産婆さんのことです。

 朝鮮人は出産の際の介助はどういう状況だったのでしょうか。 植民地時代の朝鮮の出産について、総督府はやはり調査していますね。 蔚山のある農村での出産状況について、産婆さんなどの介助者の有無について、次のように報告しています。

1936年7月に行なわれた朝鮮の農村衛生に関する調査(朝鮮農村社会衛生調査会編『朝鮮の農村衛生』1940年刊)によれば、蔚山邑達里という農村の婦人143人のうち、プロの産婆を頼んだケースはわずかに2人、それも裕福な内地人(日本人)だけである。 素人介助が56%、人手を借りずに一人で産んだケースが42.7%となっている。‥‥ 当時の朝鮮農村に医学知識をもったプロフェショナルな産婆がいなかったことを示唆している。 こうした状況下では、介助といっても姑や経験のある婦人などに頼むしかなく、貧しい家であればあるほど、誰の介助も受けることができずに一人で産んでいることがうかがえる。 (小泉和子編著『ポッタリひとつで海を越えて』合同出版 2024年9月 179頁)

 日本では江戸時代から産婆という出産の介助を職業とする女性が活躍していたのですが、朝鮮ではそういった産婆さんが存在していませんでした。 「素人介助」つまり姑などの出産経験者に介助してもらって出産した例が56%、そういう介助者がいなくて一人で出産した例が42.7%。 これには驚きました。 これでは母体や出生児の死亡率がかなり高かったでしょう。 かつての朝鮮女性がどれほど過酷な人生を歩んでいたのか、ここからも分かります。 

当時の朝鮮農村では通常、プロの産婆がおらず、姑や経験豊かな婦人に頼んだり、たった一人でお産するケースが多かったにもかかわらず、なぜ日本では産婆を頼む人が多かったのだろう。 一つには、日本では産婆によるお産がかなり普及していたことが挙げられるだろう。1899年に「産婆規則」が制定されて以降、日本では産婆が専門職として制度化された‥‥ 都市部を中心にこうした近代的なお産が広まりつつあった。 このような事情を反映し、在日の婦人たちも産婆を頼んだ‥‥  (同上 185頁)

 在日女性は出産に際して、朝鮮での風習をそのまま持ち込むのではなく、周囲の日本人社会で普及していた近代的な方法を取り入れていったようです。 そしてもう少し後の太平洋戦争中になりますが、産婆さんによる出産が一般化します。

そのほかの要因として、「妊産婦手帳」制度の実施も挙げられる。 1942年7月13日、妊産婦手帳規定が公布された。 この制度は母子保健の向上や流産・死産の防止を目的とした妊産婦の保護指導策で、市区町村に妊娠の届け出を行ない、役場から妊産婦手帳を公布してもらうと、さまざまな優遇措置が受けられるというものである。 その内容は、(出産前に医師や産婆の診察を受けることを規定し、生活困難者には無料、脱脂綿やガーゼなどの出産用品の配給、栄養食料品の優先配給がある)などである。 手帳を交付してもらうには、医師か産婆にかかる必要があった。 (同上 186~187頁)

 在日女性も妊娠すれば、「妊産婦手帳」が交付されて、様々な優遇措置を受けることができたのでした。 ただし手帳をもらうには、医師か産婆の診察を受けねばなりません。 在日女性の出産には、産婆さんがつくようになります。

李賛蓮さん(1922年生)‥‥日本で出産したときには、妊産婦手帳をもらうために産婆を頼んだ‥‥姑は「産婆さんのお金がもったいない」といったが、手帳があれば五ヶ月になると妊婦用の晒(さらし)やネルの配給があるので、産婆の介助を受け、一週間沐浴をしてもらったという。 (同上 187頁)

金福順さん(1924年生)は‥‥1943年の出産時はすでに制度ができており、配給もあったので産婆を頼み、その産婆が役所に行って手帳を交付してもらったという。 戦中の物資不足の折、配給の優遇を受けられる制度は積極的に利用された (同上 188頁)

 この手帳制度のおかげで、在日女性の出産は日本人のそれと変わらなくなりました。 「民族受難」を強調する従来の在日朝鮮人史の言い方ならば、〝日本式の出産を強制された”となるのかも知れません。 しかし日本式の出産のやり方は戦後も続き、日本人と同様に産婆さんから医師による出産へと変化していきました。

(川崎市ふれあい館での調査によれば)1940~1960年までは、ほとんどの女性が出産の際に産婆(1947年以降は助産婦と改称)を頼んでいる。 1961年からは、助産婦によるお産はなくなり、介助者はすべて医師になっている。 ‥‥ 1955年までの日本では、お産の介助はほとんど産婆(助産婦)によるものであった。 しかし1965年には出産全体の三割を切り、1975年には一割にも満たなくなっている。 かわって、医師の手による施設での出産が一般的になっていく。 在日の女性たちの出産も、こうした事情に沿っているわけである。  (同上 185頁)

 戦後の在日の出産状況は、日本人のそれと全く変わらないですね。

 なお朝鮮の慣習を知っている母親がいれば、産婦のためにわかめスープを用意します。 これは出産においてかろうじて残った民族の痕跡と言える風習です。 また近年に来日したニューカマー女性も出産時に今なお祖国の韓国に残る風習の通りにわかめスープを食べるようです。 それ以外にお産の神様である「三神(サムシンハルモニ)」を祭るという風習がありましたが、在日ではお年寄りでも今はもう知る人はいないでしょう。