「5・18光州事件」小考2017/10/25

 韓国の現代史では例えば5・18光州事件を「光州民主化運動」と称するなど、「民主」という言葉の使い方にちょっと理解できないところがあります。 この事件は『韓国・朝鮮を知る辞典』(平凡社 2014年3月)では次のように解説されています。

1980年5月17日の全斗煥らによる軍事クーデターと金大中の連行をきっかけに、全羅南道光州を中心として起こった民衆の蜂起。5月18日、クーデターに抗議する学生デモが光州で起こったがデモ隊に対する戒厳軍の暴行が激しかったため、それに怒った大勢の市民がデモに立ち上がった。19日にもデモが行われたが、戒厳軍の暴行がやまなかったため、デモ隊は20万人にふくれあがり、木浦など全羅南道一帯にまで波及した。光州では、学生と市民の一部が武器をとって戒厳軍と対峙し、道庁舎を占拠したりしたが、5月27日に鎮圧され、各地の闘いも前後して鎮圧された。逮捕者は2200余名で、そのうち175名が内乱・布告令違反容疑などで起訴された。

 この事件は映画化もされていて、市民が軍・警察の武器庫から銃・弾薬等を奪取し、道庁舎に立てこもって武装闘争する様子が描かれていました。 私がこれを見て疑問に思ったのは、これが何故「民主化運動」なのか、ということです。 抗議してデモを行なったところまでは「民主化運動」と言っていいと思いますが、武器を持って官庁を占拠したとなると果たしてそれは「民主化」と言えるのだろうか、という疑問です。 つまりその時点で「民主化」から抜け出て、民衆による武装反乱へと質を転換させたのではないか、ということです。

 私見ですが、光州事件は国家権力の過酷な行為に対する抵抗運動であって、過去の朝鮮史において頻出する「民乱(民擾ともいいます)」の系譜を引くと考えた方がいいと考えます。

 民乱の最古の記録は高麗時代の「万積の乱」です。これは1198年に万積という奴隷が起こそうとして未遂に終わった反乱事件です。 また李朝時代後期以降の19世紀に頻発した民衆反乱では、洪景来の乱(1812)、壬戌民乱(1862)、東学党の乱(1894)などがあります。 いずれも過酷な国家行為に対する激しい抵抗運動と位置付けることができます。 ただし現政権を打倒して新たな国家を作ろうという革命運動でもなく、ましてや民主社会の実現を目指すものでもありませんでした。

 光州事件は軍の理不尽な弾圧に対して民衆が激憤し過激化した結果、武器庫襲撃・奪取、道庁舎占拠という武装反乱に至った、そして反乱指導者たちはその後の見通しを有していなかった、だからかつての「民乱」の再現と言えるのではないか、少なくとも「民主化運動」とは言えないと思います。

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