姜信子『私の越境レッスン・韓国編』 ― 2015/08/20
姜信子『私の越境レッスン・韓国編』(朝日新聞社 1993年10月)。20年以上前に買って、読まずに‘積ん読’していた本で、今何となく本棚から取り出して読んでみたら、なかなか面白かったです。
姜信子さんは、1980年代に朝日ジャーナル誌上で発表した「ごく普通の在日韓国人」が評判になり、第二回ノンフィクション朝日ジャーナル賞を受賞しました。
それまで日本国内にあった民族団体はその名の通り「民族の主体性」とやらを前面に押し出し、同化を拒否し、祖国との連帯を志向していました。 そういった活動家たちの考えが、そうでない一般的な在日韓国人とずれていくのが目立ち始めた時代です。 そんな時代に、姜さんはこの受賞作で「『在日韓国人』よりも『日本語人』というほうが身も心も軽くなる」と書いたものですから、民族の魂を失い同化してしまった醜い姿などと厳しく批判される一方で、言いたくても言えなかった在日韓国人の心情を正直に書いたと賞賛する人もいました。
その姜さんが夫の韓国赴任にしたがって、三歳の子供と一緒に二年間韓国に滞在した記録が『私の越境レッスン』です。姜さんの優れた筆力もあって、なかなか興味深いものです。 そのなかで、日本語と韓国語と違いについて考えさせるものがありましたので、紹介します。
韓国で生活を始めて半年。 子供は幼稚園や近所の韓国の子供たちと元気に遊ぶようになります。 子供は韓国語をどんどん吸収し、それに対し大人はなかなか上達しません。
韓国語にすっかり自信を持ち始めていた娘は、「オンマは頭が悪い」とのたまう。親に向かって大胆不敵なことを言うだけあって、確かに彼女は発音はうまい。 ‥‥‥韓国に来て、半年も過ぎた頃からだろうか。困ったことに、その自慢の娘の言動に無性に腹が立つことが増えてきた。 心がさかなでされ、条件反射的に神経が逆立つ。言葉遣いが妙に攻撃的だったり、猜疑心にあふれていたりするように響いて、私も夫もムッとする。 何度かそれを繰り返した後、ハタと気が付いた。 「この子、韓国語でものを考えている」 娘は家族のなかでただひとり、韓国語世界に奥深く入り込んでしまっていたのだ。(236頁)
例えば、私がオンドルでポカポカの床の上に、トドのように寝そべっている。 ボーッとよそ見をして歩いてきた娘が、不運なことにそのトドにつまずいて転ぶ。 その時に彼女がこう言う。 「オンマがナッちゃんを転ぶようにした」 あるいは夫がうっかりテレビのスイッチを切ってしまう。すると、「アッパはテレビを見えないようにする」とくる。 「あっ、ころんじゃった」「見てるんだよぉ」といった言葉を言えばすむところを、どういうわけだか、もってまわった表現が飛び出すのである。 この類の言葉を聞くたびに、瞬間湯沸器の気がある夫などは、「おいっ、アッパがひどいいじわるでもしたというか。 そういういやらしい言い方はやめろ!」と娘を一喝する。 ‥‥娘の韓国語が上達するにつれて、私と夫の気に障る日本語の表現が多くなってきた。(236~237頁)
相手がネイティブの日本語を話すのなら瞬間的に日本語が、相手がネイティブの韓国語で来れば韓国語がと、頭の中でどうなっているのか不思議なくらい、器用に二つの言葉を操ってはいた。 ただ、だんだん日本語の自然さがなくなっていくのだ。 娘は誰が聞いてもリズムやイントネーションはネイティブの日本語を話してはいるのだが、そこに込められている内容が韓国語的なのである。 つまり、気に障る娘の表現というのは、日本語にはない、韓国語の直訳的表現なのだ。(237~238頁)
娘の、「日本語の姿を借りた韓国語」を聞くと、それは本当にはっきりと分かる。 表現に曖昧さや婉曲さがなく、それゆえ、時にひどく攻撃的に感じるのだ。 韓国語が攻撃的な言語だというわけではない。日本語の体系に脈絡なく放りこまれた韓国語直訳型日本語が、そう聞こえるのだ。 韓国語の体系の中では、たぶん、何でもない表現だ。韓国人の人間関係のありかたの中では、当然、特に何の問題もない表現なのである。 親の怒りを買う「オンマが転ばすようにする」にしたって、「オンマにつまずいた」ということを言いたかったはずなのに、頭に浮かんだ韓国語を日本語に直して、そこに娘なりの抗議の意をちょっと込めたら、相手の悪意を強調するような日本語となって飛び出したにすぎない。それに私や夫の日本的心性が逆撫でされる。(238頁)
端的に言えば、日本語は曖昧・婉曲・受動的だが、韓国語は明確・単刀直入・攻撃的だという言葉の性格を親子間で体験したとことになります。 この言葉の違いは、果たして民族の違いとまで言えるのかどうかについて、姜さんは次のように言います。
言語と文化はつながる。それでは、民族はどうか。 ‥‥私は、必然の糸で、言語―文化―民族を繋ぎたくない。繋げることにむしろ危うさを感じる。 言語を民族のまとまりの象徴とする思考をどこかにそっと捨ててしまいたいとおもうのだ。言語は様々な思考の「形」として、様々な視点でものを語るときの「道具」として、考えたい。(239~240頁)
外国語を学ぶ時の外国語は、姜さんの言うように「様々な視点で語るときの『道具』」であることには、異議はありません。 なぜなら外国語は自分の意識の表出ではないからです。 外国語は意識と言葉が完全に分離している状態ですので、姜さんの言うとおり「道具」でしかありません。 外国語を使うというのは、国語に直して国語でもって意識(考えること)し、次に外国語に直して外部に表出(言葉を発すること)するのです。 外国語は、意識を交流する時の道具の役割だけです。
一方、国語は人間の個人や集団の心の中の意識(欲望や知性、規範など広い意味の精神)が表面に現れる「言葉(あるいは言語)」であり、また逆にこの言葉が意識を規定します。 つまり意識と言葉とは表裏一体をなすというのが私の考えです。 国語は民族(国民)が使う言葉ですから、国語と民族は表裏一体です。
姜さんは「攻撃的」という言葉でもって 「韓国語が攻撃的な言語だというわけではない。日本語の体系に脈絡なく放りこまれた韓国語直訳型日本語が、そう聞こえるのだ。韓国語の体系の中では、たぶん、何でもない表現だ。」 としておられますが、果たしてどうでしょうか。 それぞれの民族内では「何でもない表現」が他の民族間で対立しているのなら、それは民族性の違いということに他ならないと思います。
今回の場合に即して言うと、韓国人と日本人の民族性の違いというのは、自分にとって何か都合の悪いことが発生した時、自分の不注意や誤った判断ではないかと内省するのか、それとも他人がそういう事態になるような状況を作ったとするのか、の違いです。
来日した韓国人が、日本人はどうして何でもないことで直ぐに「すみません」と謝るのかと不思議がられることがよくあります。 私の経験では、韓国で満員電車に乗って隣に立っていた女の子の足を踏みそうになり、その母親が私の体をつついて注意した時、思わず「チェソンハムニダ(すみません)」と言いました。 その時、その母親だけでなく周囲の人がビックリしたようにこちらを見ました。 韓国ではこういう時は何も言わずに足を引っ込めるだけでよく、もし何か言うとすれば「お前がそこにいたからだ」というような言い方になるので何も言わないのが一番とのことでした。
姜さんの子供は、韓国の民族性を身につけてそれが言葉として現われたのか、あるいは韓国語を身につけることによって日本の民族性から離れて行くようになったのか。おそらく両方が同時進行したのではないかと思います。
姜さんは国籍上・血統上は韓国ですが、日本に生まれ育った日本人と全く同じ日本語を使っており、だから本国の韓国人の気質とは対立を感じている、それは日韓の民族性の違いである、ということになるでしょう。
姜さんの昔の本を読んで、言葉と意識、言語と民族を少々考えてみました。