韓国の小説の翻訳に挑戦 (2)2015/08/02

 韓国を代表する作家である申京淑が、三島由紀夫を盗作した事件について前々回で触れました。    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/23/7714292

 韓国語の勉強のために、この小説を翻訳してみました。前に同じく語学の勉強のために、殷熙耕の小説を翻訳しましたが、   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/04/7626475   今回もその延長です。

申京淑 「伝説」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dennsetsu.pdf

 なお申京淑のこの小説は、石坂浩一氏が訳したものがあります。『韓国の福祉・希望と現実(韓国読本)』(社会評論社 1998年10月)所収 今回は語学の勉強ですから、参考にしないで訳してみました。 あとから読みましたが、やはり参考になることが多いです。

 ついでに、申京淑の盗作を最初に報じたのは、「ハフィントンポスト」というインターネット新聞における李ウンジュの記事です。これも翻訳してみました。http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/riunnjyuburogu

「辰国」とは何か2015/08/07

 韓国の古代史の本を読むと、我々日本人には馴染みのない国名が出てきます。その一つが「辰国」です。  「辰国」というのは、韓国のウィキ百科事典によると次のように説明されています。

진(辰)은 기원전 4세기에서 기원전 2세기 무렵 청동기 및 초기 철기문화를 바탕으로 한반도 중심부지역에 존재한 초기 집단으로, 고조선과 공존하였고, 이후 마한, 변한, 진한의 삼한으로 정립된 것으로 보인다. ‥‥진국(辰國)은 삼한 각부족의 명칭이 생기기 이전에 있었으리라고 추정되는 진왕(辰王) 세력하의 부족 연맹체이다. 기원전 4세기에서 3세기 무렵부터 금속문화가 한강 이남으로 전파되면서 남한의 원시 사회가 붕괴되고 새로운 정치적 사회가 성립되었는데, 이를 진국이라 한다.

辰は紀元前4世紀から紀元前2世紀頃、青銅器および初期鉄器文化を基礎として朝鮮半島中心部地域に存在した初期集団として古朝鮮と共存し、以後に馬韓、弁韓、辰韓の三韓として鼎立したものと見られる。‥‥辰国は三韓の各部族の名称が生じる以前にあっただろうと推定される辰王勢力の部族連盟体である。 紀元前4世紀~3世紀頃から金属文化が漢江以南に伝わって南朝鮮の原始社会が崩壊し、新しい政治的社会が成立したが、これを辰国という。

 時代はB.C.4世紀~2世紀ですから、日本では弥生時代前期~中期前葉に相当します。 卑弥呼の邪馬台国よりも500年も昔のことになるのですが、この時期にお隣の朝鮮半島では「辰国」という国があったということです。 へー!?本当かな? 何を根拠に言っているのだろうか?という疑問が湧きます。 調べてみると、これは『三国志』東夷伝と『後漢書』韓伝にありました。

 平凡社東洋文庫『東アジア民族史1』の現代語訳を提示します。 まずは『三国志』韓伝です。 『三国志』は3世紀の呉魏蜀を扱ったとものですが、この三国滅亡直後に陳寿が編纂しました。 同時代資料に近いもので、史料的価値は高いとされています。

[韓には]三種があり、一を馬韓、二を辰韓、三を弁韓といい、辰韓は昔の辰国である。‥‥辰王は月支国[に都をおき]統治していて ‥‥‥『魏略』は[次のように]伝えている。‥朝鮮の宰相である歴谿卿は東にすすみ、辰国に入った。(196~197頁、201頁)

 

[辰韓の]十二国は辰王に臣属している。 辰王は常に馬韓人を用いている。[辰王は]代々相次いでいるが、辰王は自分みずから[の意志で]王になることはできない。 『魏略』では、つぎのように言っている。 明らかに[辰韓人は]他の所から移り住んだ人たちである。 それ故に馬韓のために[辰韓が]制御されているのである。(272頁)

 これに基づいて、5世紀の范曄が『後漢書』韓伝では次のように記しています。

[韓の]地は全体で四千余里四方である。‥‥[これらの国々は]みな古の辰国[の領土]であった。 [韓のなかでは]馬韓がもっとも強大で、[三韓]はともに[馬韓]の種族をたてて辰王とし、目支国を都とし、三韓をことごとく支配した。 [三韓の]諸国の王の始祖は、すべて馬韓種族の人だった。(189~190頁)

 「辰国」の根拠となる史料はこれだけです。 「辰国」の始まりは邪馬台国の時代よりはるか以前の話になります。 そして邪馬台国時代である3世紀には、「辰国」は朝鮮半島南東部にあった辰韓になってしまっており、王は何故かしら馬韓人であり、王のいる首都は辰韓ではなく馬韓の中にある月支国だと話になります。 さらにこの話が後の5世紀の范曄によって、かつてあった「辰国」は馬韓・弁韓・辰韓すべてを支配していたというように変わった、と推測できるだけです。 それ以上は皆目分かりません。

 後漢の王朝は1~3世紀ですから、『後漢書』は200年も経ってからの編纂になります。 范曄が『三国志』を参照しながら、自分の解釈を書き加えたと見た方がいいようです。

 なお『漢書』朝鮮伝に「真番辰国」がありますが、それ以前の『史記』朝鮮伝では「真番旁衆国」となっており「辰国」がありません。 『漢書』朝鮮伝は『史記』朝鮮伝をそのまま記しているものですから、ここは『漢書』の方が書き写す際に間違えたと考えるべきでしょう。

 以上により「辰国」については、やはり『三国志』が初見であり、『後漢書』はこれを改作して「辰国」が朝鮮半島南部を支配していたような歴史像を作り上げたものと推察されます。

 ところで韓国の一般向け歴史書では「辰国」は次のように説明されています。

箕子朝鮮に属するさまざまな小国の支配勢力は、各自が一定の星を自己の集団を象徴とする慣習があり、彼らが樹立した朝鮮を他の名前で「星の国」すなわち「辰国」と呼んだ。 多くの小国が地域ごとに辰韓・馬韓・弁韓の三韓としてまとまり、三韓全体を辰国と称し、三韓のなかで最も大きな勢力を保っていた辰韓から、辰国すなわち三韓全体の王である辰王(箕子)を推戴する仕組みであった。 衛満に国の中心部を奪われて東に追いやられた箕子朝鮮の人々は、自分の国を辰国と呼んで衛満の朝鮮と区別した。  (徐毅植ほか著『日韓でいっしょに読みたい韓国史』(君島和彦ほか訳 明石書店 2104年1月 29頁の本文)

後期の箕子朝鮮を辰国と呼び、辰国を形成した三つの連合体に属した小国の一部が個別的に南下して韓半島南部で三韓をつくりあげた」 (同上 29頁のコラム)

 著者は韓国の大学で教鞭をとっておられる有名な歴史家の方々ですが、ほんのわずかの史料からここまで話を広げていいのか、余りにも想像たくまし過ぎて、疑問を抱きます。

金時鐘さんの法的身分(続)2015/08/13

 7月28日の拙ブログで、金時鐘さんの法的身分について疑問を呈しました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/28/7718112

 金さんの数ある著作の中で、これに関連する記述があるのを見つけましたので紹介します。 金石範・金時鐘『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』(平凡社ライブラリー828 2015年4月)

金石範: 彼(金時鐘)は、両親を置いて済州島から逃げてきて、親も亡くなっているし、(外国人)登録証の「林大造(イム・テジョ)」も本名じゃない。 金時鐘は本当の名前だけれども、それを客観的に証明するものは何もない。私は、そういう事情を知っているからね。‥‥(195頁)

金時鐘: ‥‥ 後日、墓参の折、妻が僕の家族関係の写真が一枚でも残っていませんかと聞いたのね。 そしたら、この40年間墓守をしてくれている甥が、とたんに自分の胸を叩きながら泣きだしてね、「な、テリョジュプソ(どう か私を叩いてください)‥」と言ってね、「みんな燃やしてしまいました。何も残っていません」と言って謝るんですよ。‥‥         金石範: 時鐘につながる証拠のようなものはすべて焼いてしまった。残して見つかったら、捕まって殺られてしまうじゃない。だから、私を叩いてくれって謝ったわけや。(198~199頁)

金時鐘: ‥‥なぜ私は4・3関係を隠して口にしなかったか、そのことから話すと‥二つ理由があります。‥‥ もう一つは、やむ得ない事情でこちらに来たにせよ、4・3事件で追われて来たことを明かすということは、不法入国者ということを自ら名乗り出るということでもあるのですから。            金石範: 時鐘は、北で生まれているから出生記録もないだろう。 この人間(金時鐘)の存在を証明する書類は何もない、時鐘は幽霊みたいな存在じゃないか。それが今回やっと済州島に本籍ができて、幽霊が人間になったようなものだけど、どうやって、韓国に戸籍を作ったんや。            金時鐘: ‥‥当時の在大阪副総領事、情報部の責任者である外交官ですが、親の墓参りを続けたいという僕の思いを殊のほか親身に受け入れてくれて、国籍取得の方法まで講じてくれました。 外国人登録証名での新たな戸籍の取得を大法院に申請して、裁可を受けてくれたのです。「金時鐘」では、手続きが複雑すぎて駄目だとのことでした。 それでも特別な計らいであったようには思っています。 戸籍は他人が使用している住所でなければ、韓国のどこでもいいと言ってくれていましたが、済州島以外に故郷を作る気などないしな。        ‥‥文京洙: 領事館も、金時鐘先生だから特別にしたんでしょう。(200~201頁)

文京洙: 韓国に戸籍を作って韓国籍を取られて、韓国との関係はそれで決着がついたわけですけど、日本の入管法との関係はまだ解決していないですね。          金時鐘: 韓国籍を取ったとき、挨拶状を2003年の12月10日付で出しました。その挨拶状をどこで見たのか、大阪府警外事課の警官がすぐさま問い合わせに来ました。 私の家までです。 登録証の名前と「金時鐘」との違いをあれこれ聴いて言いましたが、「金時鐘」はペンネームだと言い張りました。(201~202頁)

 今のところの資料が金時鐘さんの著作だけであり、日本の当局(警察や入管)、韓国の当局(領事館や法院等)の資料がないので、確かなことは分かりません。 金時鐘さんの言い分だけを読むしかないのですが、それでも様々な疑問が湧きます。

①、金時鐘さんは1949年の密入国以来「林大造」に成りすまして生活してきました。 この「林大造」は実在の人物だったのかどうかが気になるところです。

②、韓国での戸籍には他人に成りすました「林」名で取籍したというのですが、こんなことが可能なのかと疑問を有します。 金さんの原籍は北朝鮮の元山だということですから、韓国に戸籍はなかったでしょう。しかし父親の金讃國さんは朝鮮戦争後も妻の金蓮春さん(金さんの母親)と韓国で暮らし、1958年に韓国で亡くなっていますから、父親は韓国内で戸籍を新たに作成していた可能性が高いです。 そうであれば、この父親の戸籍に連関する形で入籍するのが一番自然なことなのですが、これをせずに他人の名前で新たな戸籍を作成したというのですから、首を捻ります。

③、韓国領事館から、外国人登録名の「林大造」なら戸籍取得は可能で、本来の名前である「金時鐘」名での戸籍取得は手続きが複雑で駄目だと言われたそうです。 事実と違うことを承知の上で、他人の名前で戸籍を作れるものなのでしょうか。 しかもこれが韓国公館の説明だったというのですが、いくら韓国でもこれはないだろうと思いました。

④、金さんが韓国で新たに作ったという「林大造」名の戸籍の父母欄には誰の名前が記されているのでしょうか。 実父母である「金讃國」「金蓮春」なのか、「林」姓の人物なのか、それとも空欄なのか、とても気になるところです。

⑤、金さんは韓国では「林大造」で戸籍を作り、日本では法律上の本名が「林大造」であって「金時鐘」はペンネームだということで押し通しているとのことです。 これでは韓国でも日本でも公式には「金時鐘」という人物の証明はできません。 父(金讃國)と母(金蓮春)の間に1929年に生まれた金時鐘という人間は、韓国でも日本でも存在していないのです。 本人はこれで納得したとしても、家族や親族は納得できるものなのでしょうか。

⑥、金さんは他人の名前で生きて来たし、これからもこれで生きて行くと決断されたようです。 しかし事実関係を明らかにしているにも拘わらず、それでも他人の名前で生きて行くという気持ちが私には理解できません。

⑦、金さんの父親の実家は北朝鮮の元山であり、金さんはこの元山の祖父の元で三歳から六歳までの間暮らしています。 従ってこの元山には父方の親戚がいたはずだし、今も暮らしている可能性があります。しかし金さんの著作には、この父方の親戚の話が全くと言っていいほどに出てきません。 他人の名前で生きる決意をした金さんは、北朝鮮にいる可能性のある父方親戚とは全く縁を切るおつもりなのでしょうか?

【関連拙稿】

金時鐘さんの出生地 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

在日の密航者の法的地位 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/23/6874269

姜信子『私の越境レッスン・韓国編』2015/08/20

 姜信子『私の越境レッスン・韓国編』(朝日新聞社 1993年10月)。20年以上前に買って、読まずに‘積ん読’していた本で、今何となく本棚から取り出して読んでみたら、なかなか面白かったです。

 姜信子さんは、1980年代に朝日ジャーナル誌上で発表した「ごく普通の在日韓国人」が評判になり、第二回ノンフィクション朝日ジャーナル賞を受賞しました。

 それまで日本国内にあった民族団体はその名の通り「民族の主体性」とやらを前面に押し出し、同化を拒否し、祖国との連帯を志向していました。 そういった活動家たちの考えが、そうでない一般的な在日韓国人とずれていくのが目立ち始めた時代です。 そんな時代に、姜さんはこの受賞作で「『在日韓国人』よりも『日本語人』というほうが身も心も軽くなる」と書いたものですから、民族の魂を失い同化してしまった醜い姿などと厳しく批判される一方で、言いたくても言えなかった在日韓国人の心情を正直に書いたと賞賛する人もいました。

 その姜さんが夫の韓国赴任にしたがって、三歳の子供と一緒に二年間韓国に滞在した記録が『私の越境レッスン』です。姜さんの優れた筆力もあって、なかなか興味深いものです。 そのなかで、日本語と韓国語と違いについて考えさせるものがありましたので、紹介します。

 韓国で生活を始めて半年。 子供は幼稚園や近所の韓国の子供たちと元気に遊ぶようになります。 子供は韓国語をどんどん吸収し、それに対し大人はなかなか上達しません。

韓国語にすっかり自信を持ち始めていた娘は、「オンマは頭が悪い」とのたまう。親に向かって大胆不敵なことを言うだけあって、確かに彼女は発音はうまい。 ‥‥‥韓国に来て、半年も過ぎた頃からだろうか。困ったことに、その自慢の娘の言動に無性に腹が立つことが増えてきた。 心がさかなでされ、条件反射的に神経が逆立つ。言葉遣いが妙に攻撃的だったり、猜疑心にあふれていたりするように響いて、私も夫もムッとする。 何度かそれを繰り返した後、ハタと気が付いた。  「この子、韓国語でものを考えている」  娘は家族のなかでただひとり、韓国語世界に奥深く入り込んでしまっていたのだ。(236頁)

例えば、私がオンドルでポカポカの床の上に、トドのように寝そべっている。 ボーッとよそ見をして歩いてきた娘が、不運なことにそのトドにつまずいて転ぶ。 その時に彼女がこう言う。 「オンマがナッちゃんを転ぶようにした」 あるいは夫がうっかりテレビのスイッチを切ってしまう。すると、「アッパはテレビを見えないようにする」とくる。 「あっ、ころんじゃった」「見てるんだよぉ」といった言葉を言えばすむところを、どういうわけだか、もってまわった表現が飛び出すのである。 この類の言葉を聞くたびに、瞬間湯沸器の気がある夫などは、「おいっ、アッパがひどいいじわるでもしたというか。 そういういやらしい言い方はやめろ!」と娘を一喝する。 ‥‥娘の韓国語が上達するにつれて、私と夫の気に障る日本語の表現が多くなってきた。(236~237頁)

相手がネイティブの日本語を話すのなら瞬間的に日本語が、相手がネイティブの韓国語で来れば韓国語がと、頭の中でどうなっているのか不思議なくらい、器用に二つの言葉を操ってはいた。 ただ、だんだん日本語の自然さがなくなっていくのだ。 娘は誰が聞いてもリズムやイントネーションはネイティブの日本語を話してはいるのだが、そこに込められている内容が韓国語的なのである。 つまり、気に障る娘の表現というのは、日本語にはない、韓国語の直訳的表現なのだ。(237~238頁)

娘の、「日本語の姿を借りた韓国語」を聞くと、それは本当にはっきりと分かる。 表現に曖昧さや婉曲さがなく、それゆえ、時にひどく攻撃的に感じるのだ。 韓国語が攻撃的な言語だというわけではない。日本語の体系に脈絡なく放りこまれた韓国語直訳型日本語が、そう聞こえるのだ。 韓国語の体系の中では、たぶん、何でもない表現だ。韓国人の人間関係のありかたの中では、当然、特に何の問題もない表現なのである。  親の怒りを買う「オンマが転ばすようにする」にしたって、「オンマにつまずいた」ということを言いたかったはずなのに、頭に浮かんだ韓国語を日本語に直して、そこに娘なりの抗議の意をちょっと込めたら、相手の悪意を強調するような日本語となって飛び出したにすぎない。それに私や夫の日本的心性が逆撫でされる。(238頁)

 端的に言えば、日本語は曖昧・婉曲・受動的だが、韓国語は明確・単刀直入・攻撃的だという言葉の性格を親子間で体験したとことになります。 この言葉の違いは、果たして民族の違いとまで言えるのかどうかについて、姜さんは次のように言います。

言語と文化はつながる。それでは、民族はどうか。 ‥‥私は、必然の糸で、言語―文化―民族を繋ぎたくない。繋げることにむしろ危うさを感じる。 言語を民族のまとまりの象徴とする思考をどこかにそっと捨ててしまいたいとおもうのだ。言語は様々な思考の「形」として、様々な視点でものを語るときの「道具」として、考えたい。(239~240頁)

 外国語を学ぶ時の外国語は、姜さんの言うように「様々な視点で語るときの『道具』」であることには、異議はありません。 なぜなら外国語は自分の意識の表出ではないからです。 外国語は意識と言葉が完全に分離している状態ですので、姜さんの言うとおり「道具」でしかありません。 外国語を使うというのは、国語に直して国語でもって意識(考えること)し、次に外国語に直して外部に表出(言葉を発すること)するのです。 外国語は、意識を交流する時の道具の役割だけです。

 一方、国語は人間の個人や集団の心の中の意識(欲望や知性、規範など広い意味の精神)が表面に現れる「言葉(あるいは言語)」であり、また逆にこの言葉が意識を規定します。 つまり意識と言葉とは表裏一体をなすというのが私の考えです。 国語は民族(国民)が使う言葉ですから、国語と民族は表裏一体です。

 姜さんは「攻撃的」という言葉でもって 「韓国語が攻撃的な言語だというわけではない。日本語の体系に脈絡なく放りこまれた韓国語直訳型日本語が、そう聞こえるのだ。韓国語の体系の中では、たぶん、何でもない表現だ。」 としておられますが、果たしてどうでしょうか。 それぞれの民族内では「何でもない表現」が他の民族間で対立しているのなら、それは民族性の違いということに他ならないと思います。

 今回の場合に即して言うと、韓国人と日本人の民族性の違いというのは、自分にとって何か都合の悪いことが発生した時、自分の不注意や誤った判断ではないかと内省するのか、それとも他人がそういう事態になるような状況を作ったとするのか、の違いです。

 来日した韓国人が、日本人はどうして何でもないことで直ぐに「すみません」と謝るのかと不思議がられることがよくあります。 私の経験では、韓国で満員電車に乗って隣に立っていた女の子の足を踏みそうになり、その母親が私の体をつついて注意した時、思わず「チェソンハムニダ(すみません)」と言いました。 その時、その母親だけでなく周囲の人がビックリしたようにこちらを見ました。 韓国ではこういう時は何も言わずに足を引っ込めるだけでよく、もし何か言うとすれば「お前がそこにいたからだ」というような言い方になるので何も言わないのが一番とのことでした。

 姜さんの子供は、韓国の民族性を身につけてそれが言葉として現われたのか、あるいは韓国語を身につけることによって日本の民族性から離れて行くようになったのか。おそらく両方が同時進行したのではないかと思います。

 姜さんは国籍上・血統上は韓国ですが、日本に生まれ育った日本人と全く同じ日本語を使っており、だから本国の韓国人の気質とは対立を感じている、それは日韓の民族性の違いである、ということになるでしょう。

 姜さんの昔の本を読んで、言葉と意識、言語と民族を少々考えてみました。

金時鐘さんの法的身分(続々)2015/08/26

 金時鐘さんの法的身分について、先に疑問を呈しました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

 これについて、小熊英二・姜尚中編『在日一世の記憶』(集英社新書 2008年10月)に次のような聞き書きが記録されているのを見つけました。

せめて一年に一回は(親の)お墓の草刈りをしようと思う気になってね。 朝鮮籍だと墓参も五回が限度というから、2004年に韓国籍を取った。 韓国籍も本名では作れなかった。 領事館に尽力いただいて、一代きりの本籍を取得した。 済州島には恨みもあるけれど、懐かしさもある、だから済州島に本籍をおいた。そのときの心情は声明文にして、まわりの方に送ったよ。(570~571頁)

 ここでも韓国での戸籍が本名の「金時鐘」とは違う名前(「林大造」のこと)で作成されたとしています。 しかもその戸籍が「一代」限りのものであるとしています。

 ここが全く理解できないところです。 「林大造」は金さんが日本に密入国した際に入手した偽の外国人登録の名前のようです。 従って「林大造」は金さんにとっては他人の名前であって、偽名に相当します。 ところがこの名前で韓国の戸籍が出来たということが、なぜ可能だったのか? 

 法治主義の観点からすると、他人の名前・偽名で戸籍が作られることはあり得ません。 しかし韓国の当局(領事館や戸籍担当官署等)がそれを承知の上で戸籍作成したとしているのですから金さんの不法行為ではありません。 当局側が法治主義を曲げた例外的措置ということになるのですから、かなりの特殊事情があったと思われます。 しかしその事情が全く明かされていません。

 「一代限り」の戸籍というのも理解できないところです。 韓国の戸籍法にはこんな規定が見当たらないからです。 何故こんな戸籍ができたのか、その事情も全く明かされていません。

金時鐘さんの法的身分(4)2015/08/31

 金時鐘さんの法的身分について疑問を呈してきました。 金さんのウィキペディアによると、その経歴のなかで次のような一文があります。

在留特別許可を得て在日朝鮮人の政治・文化活動に参加した

 在留特別許可ですから、金さんは警察あるいは入管に密入国の件で出頭して取り調べを受け、裁判を経て、法務大臣から「在留特別許可」という法的身分を得たことになります。

 この在留特別許可によって作られた外国人登録名が「林」ということになります。 この「林」が本名でないことは、ご本人も認めておられます。

 本名でない名前で、何故「特別在留許可」が下りたのか。 それ以前に密入国や不法滞在について裁判を受けているはずですが、この時も本名ではなく、「林」という別名だったということになります。 こんなことが何故可能だったのか、疑問に思えます。

 この疑問は、ご本人の著作『なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか』(平凡社ライブラリー)の次のような対談でも確かめられます。

文京洙: 韓国に戸籍を作って韓国籍を取られて、韓国との関係はそれで決着がついたわけですけど、日本の入管法との関係はまだ解決していないですね。          金時鐘: 韓国籍を取ったとき、挨拶状を2003年の12月10日付で出しました。その挨拶状をどこで見たのか、大阪府警外事課の警官がすぐさま問い合わせに来ました。 私の家までです。 登録証の名前と「金時鐘」との違いをあれこれ聴いて言いましたが、「金時鐘」はペンネームだと言い張りました。(201~202頁)

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

 ここでは文京洙さんが「日本の入管法との関係はまだ解決していないですね。」と発言しておられます。 つまり金さんの法的身分に関して疑問が残っているわけです。

 そして金さんは警察の問い合わせに対して「林」が本名で、「金時鐘」はペンネームだと言い張ったそうです。 

 法律上(外国人登録や韓国戸籍)は「林」が本名なのかもしれませんが、親から「金時鐘」という名前をもらい、20歳まではその名前で暮らし、学校に通っておられました。 何故この本当の本名の「金」で外国人登録をしなかったのか、また何故本当の本名の「金」で韓国の戸籍を作らなかったのか、やはり理解できないところです。