「三韓」の用例(7)―朝鮮王朝実録2015/07/04

  『朝鮮王朝実録』は、李氏朝鮮の成立から日韓併合までの約430年間にわたる王朝の記録です。 この王朝実録にも「三韓」が多数使われています。 ここでは李成桂(太祖)が高麗を倒して新たに朝鮮国の王として即位した太祖元年(1392年)の7月から12月までの半年間に限って、「三韓」の用例を探してみました。 これは国の始まりの時代ですから、国名といったものを考察するのには重要な時期と言えます。

{1}太祖元年7月17日条       これを智異山の岩石の中から得た。そこには「木子が豚に乗って下りて来て、また三韓の国土を回復するだろう」と書かれていた。       (原文)得之智異山巖石中、書有木子乘猪下、復正三韓境

 「木子」は「李」を分解して二つの漢字で表したもの。李氏が三韓の領土を支配することになるだろう、つまり李氏朝鮮王朝が樹立されるだろうという予言です。

{2}太祖元年10月22日条       三韓は王氏が亡んでから、李氏が策略を謀り、様々な様相を呈しながらもう何年かが経った。       (原文)其三韓自王氏亡, 李氏運謀, 千態萬狀已有年矣

「王氏亡」は王氏が開いた高麗国が滅亡したことです。王氏高麗から李氏朝鮮に王朝交代がなされたことを示しています。「三韓」は高麗あるいは朝鮮全体の領域です。

{3}太祖元年10月22日条        王氏が昔三韓を有した報いもそうであったように        (原文)乃王氏昔有三韓之報, 亦然矣,

 高麗を開いた王氏は「三韓」朝鮮全体を支配していたということです。

{4}太祖元年10月22日条          それは三韓の臣民が李氏を尊んで、臣民たちに兵火がなくなり、人それぞれが天の楽を楽しむのも、即ち天からの命なのだ。        (原文)其三韓臣民, 旣尊李氏, 民無兵禍, 人各樂之樂, 乃帝命也。

 「三韓」の民が李氏の支配下に入るのは、天命だということです。「三韓」は朝鮮全体です。

{5}太祖元年11月6日条       優れた功績は三韓にあらわれて、本家の子孫も分家の子孫も百世まで栄えるだろう。        (原文)顯功烈於三韓, 茂本支於百世。

 この「三韓」も朝鮮全体を意味しています。

{6}太祖元年12月16日条       殿下は大義に従って軍隊を返し、三韓の人々を堕落から解放したのですから、殿下が世を救った功績は社稷にあるのです。           (原文)殿下擧義旋旆, 使三韓之民, 得免於糜爛, 是殿下康濟之功, 在社稷矣。

この「三韓」も朝鮮全体を意味しています。

{7}太祖元年12月16日条         城を築き、武名が轟き、航路が開かれ、三韓で40年間苦しめられた倭寇の災難が一日で止んだ。          (原文)以之築城堡, 武衛以奮, 漕路以通, 三韓四十年倭奴之患, 一朝而息矣。

 この「三韓」も特定地域ではなく、朝鮮全体を意味していると見た方がいいでしょう。

{8}太祖元年12月16日条       7月12日に至り、天は怒り、民は離反したので、三韓は翻然として殿下を推戴しました。       (原文)至七月十二日, 天怒民離, 三韓翻然, 推戴殿下。

 「殿下」とは、高麗に代わって朝鮮王朝を開いた李成桂(太祖)のことです。「三韓」は当然朝鮮全体の人民を表しています。

{9}太祖元年12月16日条         殿下は王氏に忠誠を尽くされましたが、天が見るには、三韓のみんなが知っていることであります。        (原文)殿下爲王氏之至誠至忠, 上天所鑑臨, 三韓所共知也,

 「三韓」は朝鮮全体の人民を指しています。

{10}太祖元年12月16日条         今天は既に殿下に命令して、三韓で父母の役目をするようにした。       (原文)今天既命殿下, 而父母三韓矣。

 この「三韓」は朝鮮全体の領域です。

 以上の10例がありました。 全ての例で、「三韓」は「‘三つ’と‘韓’」という二つの言葉の合成語ではなく、従って馬韓・辰韓・弁韓を指すものではありません。 見ての通り「三韓」はこの二文字で一語として、「私たちの国」あるいは「我が国土」、「我が国民」に近い言葉です。

 {2}{3}のように「三韓」に王氏や李氏が王朝をもったということからすると、「三韓」は王朝・政府・国家といった人為的組織ではなく、それよりも意味が広い「(我が)くに」「(我が)ふるさと」「(我が)はらから」などのような意味ではないだろうかと思います。 朝鮮全体の領域や文化圏を表す表現として「青丘」「三千里」「海東」「大東」などがありますが、このような言葉としてもう一つ「三韓」があると見た方がいいように思われます。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715

「三韓」の用例(3)―日本古代    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200

「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/22/7678138

「三韓」の用例(5)―中国古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/26/7680561

「三韓」の用例(6)―沖縄金石文   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/30/7690495

金時鐘さんの出生地2015/07/05

 毎日新聞2015年7月5日号の書評欄に「増補 なぜ書きつづけてきたか なぜ沈黙してきたか」(金石範、金時鐘著 平凡社ライブラリー)があります。 その中で書評の執筆者(生)は著者の経歴を次のように書いています。    http://mainichi.jp/shimen/news/20150705ddm015070012000c.html

済州島にルーツを持つ石範と同島生まれの時鐘

 これを読んで、あれ?! 金時鐘さんは済州島生まれではないはずだが‥と思って調べてみました。

 金時鐘さんが最近出した自叙伝『朝鮮と日本に生きる』(岩波新書2015年2月)には、次のように記されています。

私は港湾都市釜山の、海辺の飯場で生まれたそうです。‥‥父には私が初子でしたので大そうな喜びようだったそうです。‥‥三歳になった年の春、私は元山の祖父のところへ引き取られていきました。‥‥祖父は長老格のクリスチャンでしたが、家伝の漢方秘法があるとかで、煎じ薬と丸薬ずくめの三年をすごしました。‥‥どのような理由で済州島暮らしが始まったのかわかりませんが‥‥悪童たちからつきまとわれる、気が滅入りそうな日々が早くもその公立小学校で待ち受けていました。(23~25頁)

年譜 1929年 1(陰暦1928・12・8) 釜山で生まれる。 父・金鑚国、母・金蓮春         1936 年 元山市の祖父のもとに一時預けられる           1937年 普通学校に入学         (以上は292頁)

 このように金時鐘さんは自分の出生地が「釜山」であると書いていますし、おそらく自分がチェックしたはずの年譜でもそうなっています。 ところが毎日新聞の書評欄では「済州島生まれ」となっているのです。

 ちなみにウィキペディアに拠りますと、金時鐘さんは「朝鮮元山市生まれ」となっています。 自分の出生地について「釜山」「済州島」「元山」と三つもありますから、ご本人はビックリされているでしょうね。

 なお金時鐘さんが元山の祖父の家にいたのが、彼自身の著作の文章では三歳から三年間、年譜では普通学校(小学校)入学直前の一年間となっています。 お年を召した方の回想には錯誤が付き物ですが、これもその一例でしょう。

「三韓」の用例(8)―近代日本2015/07/10

 「三韓」が、本来の馬韓・弁韓・辰韓を離れて高句麗・百済・新羅の三国と同義であり、朝鮮全体を意味で使われるというのは、近年まで続いてきました。 例えば1941年(昭和16年)に金素雲が著した『三韓昔がたり』(1985年再刊)には、次のように記されています。

『三韓昔がたり』と名づけたこの本の中には、古い昔から朝鮮にあった、さまざまな語りぐさが集められている。 およそ四十あまり ‥‥ 新羅、高句麗、百済――、これを朝鮮では、三国時代といふ。 きみたちが歴史で教はったやうに、この三つの国は、今は去る一千年前に、高麗によって統一された(くはしくいへば、新羅に統一されて、それが高麗に渡されたのだ)。 日本といふ一つの海に流れ入るまでには、高麗から李朝へと、さらに千年の道のりがつづいたが、ここにあるのは、すべてその三国時代のものがたりだ。    三つの国が相前後して興り、また相前後して滅びた。一番永かった新羅が九百九十六年、高句麗が七百五年、百済が六百八十年――。地理でいへば、中部朝鮮から北へ、満州一帯が、ほとんど高句麗によって占められ、新羅、百済が、今日の京畿道あたりから南へ国を建てた。(金素雲『三韓昔がたり』講談社学術文庫 1985年5月 3~5頁)

新羅・高句麗・百済――、この三つの国の前に朝鮮が辿って来た足跡を、これで一通りかいつまんで述べた。 興味が歴史に片寄っては、かんじんの物語がお留守になるきらひもあるが、一応ここまでの経路は知って置いてもらひたい。 三国時代そのものを理解するためにも、これは必要なことだ。‥‥ さしあたり、ここにある四十あまりの短い物語で、三国時代は総ざらへしたといってよい。(同上 251~252頁)

 ここでは「三韓」はもはや馬韓・弁韓・辰韓ではありません。 そのような国名・地名が全く出てこず、「三韓」は新羅・高句麗・百済の「三国」と同義なのです。 『後漢書』にあるような「三韓」=「‘三つ’の‘韓’」=「馬韓・弁韓・辰韓」とする考えは、最初からなかったと言わざるを得ません。

 そしてこのような使い方は、7世紀の新羅統一の時代からずうっと続いてきた認識であることに注意せねばなりません。 『後漢書』の認識の方が例外と言えるでしょう。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715

「三韓」の用例(3)―日本古代    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200

「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/22/7678138

「三韓」の用例(5)―中国古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/26/7680561

「三韓」の用例(6)―沖縄金石文   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/30/7690495

「三韓」の用例(7)―朝鮮王朝実録 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/04/7697561

「三韓」の用例(9)―「三韓」で一つの言葉2015/07/14

 先に「三韓」は‘三つの韓’という意味ではなく、その二文字で一つの言葉(領域名)ではないかと論じました。 ところで古地名で「三」の付くものは意外と多いものです。 例えば日本では、旧国名の「三河」があります。 三河には目立った川は矢作川と豊川があるくらいで、他は小さな川ばかりです。 だから三河は‘三つの河’という意味ではありません。 結局三河の言葉の由来は不明とされています。 国名だけでなく旧郡名でも「三島」「三重」「三根」「三野」「三木」など「三」の付くものは多数ありますが、そのほとんどが地名の由来について‘三つ’という意味はなさそうです。

 このことは朝鮮でも同じです。 李朝時代の地理書である『拓里誌』(邦訳は平凡社東洋文庫『拓里誌―近世朝鮮の地理書』2006年6月)で、「三」の付く郡名を拾ってみました。

 平安道―「三和」「三登」

 咸鏡道―「三水」

 江原道―「三陟」

 慶尚道―「三嘉」

 このうち三陟は、韓国の三陟市のHPによれば地名の由来は不明とのことです。 少なくとも「‘三つ’の‘陟’」という意味はなさそうです 他の郡でも、管見では由来は不明です。

 日本でも朝鮮でも、「三」と付く古地名には‘三つ’と意味となるものはないようです。 従ってこれらは二つの語が合成されたのではなく、二文字で一つの語だと解釈すればいいのではないかと思います。

 時代はかなり違いますが、「三韓」も「‘三つ’の‘韓’」という二語の合成語ではなく、二文字の一語であって一つのまとまった領域名であると考えればどうだろうか、と思います。

 これは、「百済」に‘百の’という意味がないのと同様だと言えば、分かり易いかも知れません

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「三韓」の用例(10)―まとめ2015/07/18

 これまで「三韓」について、資料にどのように現れるか、その用例を列挙しました。 最後にこれを整理してまとめたいと思います。

① 「三韓」の初見は5世紀の范曄の『後漢書』である。  3世紀に陳寿が編纂した『三国志』には「三韓」という文言はない。 5世紀の范曄は3世紀の『三国志』の文章に「三韓」を追加したものと考えられる。

② 3世紀以前に実在した馬韓・弁韓・弁韓(弁辰)の時代に、「三韓」という呼び方は存在しない。 ①のように5世紀の范曄の『後漢書』が、1~3世紀の後漢の歴史を記述する際にこれらをまとめて「三韓」としたのである。

③ 『後漢書』系統史料は、「三韓」を「‘三つ’の‘韓’」というように二語の合成語として馬韓・弁韓・辰韓の三つを指し示すものとする。 馬韓は百済、弁韓・辰韓は新羅に相当するので、「三韓」の範囲は朝鮮半島南部の百済・新羅の領域に相当し、半島北部にあった高句麗は除外される。

④ しかし7世紀以降になると、「三韓」が高句麗・百済・新羅を合わせた朝鮮全体の範囲を示す史料が大半となる。 ③では除外されていた高句麗が入りこんだのである。 10世紀~14世紀の高麗、および14世紀~19世紀の朝鮮の公式記録でも、自らの国土領域全体を「三韓」と表現している。

⑤ 「三韓」は史料上④のような高句麗を含む朝鮮全体説が大部分を占める。 またこの説は中国でも日本でもさらには沖縄までも同様に大部分を占める。 ④説は東アジア全体に行き渡っており、③説は非常に少なく、例外的と言える。

⑥ 以上をまとめると、史料的にみると「三韓」が朝鮮全体を指す④説は7世紀後半から現代に至るまで、朝鮮はもちろんのこと中国・日本・沖縄、すなわち東アジア全体の認識として定着していた。 ただし、例外的に『後漢書』系統の資料(③説)では朝鮮半島南部だけを指した。 これにより「三韓」は、高句麗の範囲を含む朝鮮全体とする圧倒的多数説と、高句麗を除外した朝鮮半島南部とする少数説との二つの違った意味が平行してきた。

⑦ 二つの意味を持ったために、大韓帝国成立時には10世紀の高麗統一を3世紀以前の「三韓」の統一と表現され、現在の韓国の古代史概説でも7世紀の新羅統一を3世紀以前の「三韓」の統一と記される例が出てくる。 つまり3世紀以前の朝鮮半島南部だけにあった馬韓・弁韓・辰韓の「三韓」と、それから数百年後に統一された朝鮮全体(=新羅・高麗)とが時代の違いを越えて同一とされたのである。 なお当事者はこれを矛盾とは捉えていないようである。

⑧ 結局「三韓」は百済・高句麗・新羅・高麗・朝鮮等の各王朝を越えた名称で、朝鮮民族にとっては「我が国土」という意味で使われてきたし、東アジアでは朝鮮民族が居住する「朝鮮半島」という意味で使われてきた。 従って朝鮮人自身が「三韓」を確実に使い始めた7世紀後半が、それまで対立し戦争し合ってきた百済・高句麗・新羅が同一民族意識を持ち始めた重要な時期と言えるのではないだろうか。

⑨ つまり朝鮮民族(韓民族)が民族として一体感を持ったことの表現が、「三韓」という言葉であったと思われるのである。 考えてみれば朝鮮史古代では、半島北部の高句麗はツングース系の遊牧民であり、半島南部の百済・新羅は農耕民だ。 この三国は元々のアイデンティティが違っていたのであるが、互いに‘あなたも私も同じ民族’と一体感を持つに至ったのは、7世紀後半から使われ始めた「三韓」という言葉にその鍵があると言える。

⑩ 現在の韓国の古代史学では少数説である③を採用して馬韓・弁韓・辰韓を「三韓」とし、その後の高句麗・百済・新羅の三国と区別して「三韓時代」という時代を設定している。 韓国の古代歴史区分は、三韓時代→ 三国時代→ 統一新羅時代となる。 韓国古代史は、東アジアで定着し近年に至るまで連綿と続いてきた圧倒的多数説である④を無視し、「三韓」が朝鮮民族(韓民族)のアイデンティティそのものであったことを否定するとになるので、いかがなものかと考える。

「三韓」の用例(1)―中国古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/08/7664404

「三韓」の用例(2)―朝鮮古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/13/7667715

「三韓」の用例(3)―日本古代   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/18/7671200

「三韓」の用例(4)―朝鮮古代金石文 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/22/7678138

「三韓」の用例(5)―中国古代金石文  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/26/7680561

「三韓」の用例(6)―沖縄金石文   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/06/30/7690495

「三韓」の用例(7)―朝鮮王朝実録  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/04/7697561

「三韓」の用例(8)―近代日本  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/10/7704555

「三韓」の用例(9)―「三韓」で一つの言葉  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/14/7707210

申京淑の三島由紀夫盗作事件2015/07/23

 今は旧聞になりましたが、先月の韓国は申京淑の三島由紀夫盗作事件で、大きな話題となっていました。 申京淑は韓国の人気作家の一人で、ベストセラーの小説を次々に出し、日本をはじめ世界各国で翻訳され、韓国の文学賞の選考委員をやっているなど、韓国文壇の大御所的存在です。 そんな彼女が日本の三島由紀夫の作品から盗作したと批判されたのです。

 まずは韓国のハンギョレ新聞の報道(2015年6月17日付)です。

韓国文壇を代表する小説家、申京淑(シン・ギョンスク)氏が、日本の小説家の三島由紀夫の作品を盗作したという主張が出され衝撃を与えている。 申氏の盗作論議はこれが初めてではないが、今回の主張は申氏の盗作疑惑に十数年間にわたり沈黙してきた韓国文壇に対する正面からの問題提起であり、波紋は一層大きくなるものと見られる。  三島由紀夫は1970年11月、自衛隊の覚醒と決起を叫んで割腹自殺した代表的な右派だ。            小説家であり詩人であるイ・ウンジュン氏は16日、ハフィントンポスト・コリアのブログに書いた「偶像の闇、文学の堕落」というタイトルの文で、申京淑氏の短編小説『伝説』の一部が三島の短編小説『憂国』の翻訳本を盗作したものと主張した。  三島の『憂国』の翻訳本の中の 「二人とも実に元気な若い肉体の所有者であったせいで、彼らの夜は激烈だった。(中略)初夜を過ごして一カ月が過ぎようかという時、すでに麗子は喜びが分かるからだになっていたし、中尉もそんな麗子の変化を喜んだ」 (『金閣寺、憂国、宴のあと』233ページ、1983)という文章が、申京淑の『伝説』では 「二人とも元気な肉体の持ち主だった。彼らの夜は激烈だった。(…)初夜を持ってから二カ月余り、女はすでに喜びが分かるからだになっていた。(…)女の変化を最も喜んだのはもちろん男だった」 (『ずっと前に家を出た時』240~241ページ、1996)に変わったというのだ。            イ氏はこの点を提示して三島の作品を翻訳した詩人キム・フラン氏が「(以前、他の人の翻訳で)「愛の喜びを知った」という地味な表現を「喜びが分かるからだになった」という流麗な表現に翻訳した」として「このような言語の組合わせは(中略)意識的に盗用せずには絶対に飛び出し得ない文学的遺伝工学の結果である。 (中略) 純粋文学のプロ作家の一人としては、とうてい容認されえない明白な作品窃盗行為、盗作」だと明らかにした。            イ氏は「もともと申京淑は盗作論議がきわめて頻繁な作家」だとして、申京淑氏が小説『いちご畑』に在米留学生アン・スンジュンの遺稿集『生きてはいる』の序文を無断で使ったこと、長編小説『汽車は7時に出る』と、短編小説『別れのあいさつ』がパトリック・モディアノと丸山健二の小説の中の文章とモチーフ、ムードを盗作したなど、1999年にハンギョレの紙面等を通して疑惑が提起されたことに言及した。  申氏は『いちご畑』盗作疑惑に対して、出所を明らかにせず使ったことは認め謝ったが、盗作疑惑は強く否定した。          イ氏は盗作問題を提起した理由について「申京淑は単なるベストセラー作家ではない。 申京淑は韓国文壇で処世の達人である評論家から神様のように持ち上げられ、東仁文学賞の終身審査委員を受け持っている等々の理由で、韓国文壇の最高権力でもある」とし、何度も盗作論議が起きたにもかかわらず、文壇の沈黙の中で「韓国文学にみじめな堕落を持たらすことになった」と嘆いた。 さらに「今私がこの文を書いて誰かがこの文を読むということは、誰かが誰かの欠陥をつかみ出して攻撃する性格では決してない」として「韓国文人の誇りを回復するためであり、浅薄な環境の下でも血と汗の雫で韓国文学を編み出して来た先輩作家と読者に謝罪しようとする今日の韓国文人すべての姿だ」と強調した。           イ・ジェソン記者

 この記事を検証するために、申京淑の「伝説」という小説、三島由紀夫の「憂国」を韓国語に翻訳した本、三島由紀夫の原文を探しました。

 申京淑の「伝説」の該当部分は次の通りです。 正確を期すために直訳しました。

二人とも健康な肉体の主人公だった。 彼らの夜は激烈だった。男は外から帰って土ほこりの付いた顔を洗っても、何かもどかしくて急いで女を押し倒すのは毎回だった。 初夜を持った後の二ヶ月あまり、女はもう喜びを知る体になった。 女の清逸な美しさの中へ、官能は香ばしく豊穣に染み込んだ。 その成熟は歌を歌う女の声の中にも豊かに染み入り、今は女が歌を歌うのではなく、歌が女に吸い取られるようだった。 一番喜んだのはもちろん男だった。  (申京淑「伝説」〈『ずっと以前に家を出た時』創作と批評社240~241頁〉1996年9月)

 次に三島由紀夫を韓国語に翻訳した文です。 1980年代に韓国では世界文学全集に採録されていました。 これも直訳です。

二人とも実に健康な若い肉体の所有者だったせいで、彼らの夜は激烈だった。 夜だけでなく、訓練を終えて土まみれの軍服を脱ぐ間すらもどかしくて、帰宅するや否や妻をその場で押し倒すことは一度や二度ではなかった。 麗子もよく応じた。初夜を送って一ヶ月が過ぎるかどうかの時、もはや麗子は喜びを知る体になり、中尉もそんな麗子の変化を喜んだ。  (三島由紀夫、金フラン訳「憂国」〈『金閣寺、憂国、宴のあと』主友世界文学全集二〇 233頁〉1983年1月)

 それでは三島の原文はどうなのか。

二人とも実に健康な若い肉体を持っていたから、その交情は激しく、夜ばかりか、演習のかえりの埃だらけの軍服を脱ぐ間ももどかしく、帰宅するなり中尉は新妻をその場に押し倒すこと一再でなかった。 麗子もよく応えた。 最初の夜から一ㇳ月をすぎるかすぎぬに、麗子は喜びを知り、中尉もそれを知って喜んだ。  (三島由紀夫「憂国」〈『花ざかりの森・憂国』新潮文庫 1968年9月)

 事実関係は以上です。これはやはり申京淑の盗作と言わざるを得ません。 申京淑は「三島由紀夫の『憂国』は読んだことがない」と主張し、出版社の創批社が「三島の作品より申の作品の方が文学性に優れている」と居直ったことから、騒ぎがさらに大きくなったという経過です。

 結局は、申も出版社も盗作を認めたのですが、後味の悪い事件でした。

金時鐘『朝鮮と日本に生きる』への疑問2015/07/28

 金時鐘さんが最近出した回想記『朝鮮と日本を生きる』(岩波新書 2015年2月)について、以前に少し触れました。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

 金さんは南朝鮮労働党(南労党)の活動家として1948年の済州島4・3事件に関わり、日本に亡命=密入国した方です。 4・3事件では武装蜂起した側の立場に立った記述をしています。 この事件に関しては、拙論で少し論じたことがあります。 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/06/01/7332806

 それはともかく、金さんの今回の回想記を読んで、彼自身の法的身分関係について疑問を持ちました。 彼は1949年に日本に密入国するのですが、日本でどのような身分を獲得したのかが記されていないのです。

 金さんはその後日本共産党に入党したりして日本国内で活動し、また病気して長期入院し、在日女性と結婚したりしていますから、何らかの身分を持ったはずです。

 一番考えられるのは、当時は外国人登録証が売買されていた時代ですから、これを購入して他人に成りすましたのではないか、ということです。 当時の在日でこういう方は多いもので、例えば中公新書『オンドル夜話』の著者の尹学準さんは、1953年に密入国して当時のお金で3万円で外国人登録証を買い、「李継栄」という名前で暮らしてきたことを明かしています。

 金さんが尹さんと同じように他人に成りすましただろうと推定する根拠は、この本の288頁にある「あいさつ」文です。 その内容は次の通りです。

あいさつ  略啓   小生この度、外国人登録書名の「林」でもって韓国の済州島に本籍を取得しました。‥‥ ‘03年十二月十日

 ここから金さんの外国人登録名が「林」であることが分かります。 金さんの父は「金鑚国」(292頁)ですから、「金」が本名です。 とすると外国人登録の「林」は別人の名前ということになります。 おそらく「林」名義の外国人登録証を購入したことになるでしょう。

 当時は戦後の混乱期でした。 在日朝鮮人では寄留届(住民登録に相当)の転出を届けずに韓国に帰国した人も多く、その場合は公的書類上日本に所在していることになります。 こういった不在の人たちが外国人登録され、その外国人登録が売買されたのです。 それ以外にも全くの架空の人物の外国人登録(偽造ですが本物と区別がつかなかったといいます。 「幽霊登録証」などと言われていました)もあったそうで、これも高価に売買されたようです。

 日本での身分関係は以上のように推定できるのですが、今度はこの「林」名義で韓国の入籍(韓国は戸籍に代わり、家族関係登録簿となっている)したというのが、よく分からないところです。 おそらくは日本国内では家族含めてこの「林」名で生きて来られたので、今更もとの「金」では生活し難いと思われたのだろう、と推測します。

 ところで金さんが韓国で作成した家族登録簿(戸籍に相当)の父母欄には実父母の名前が記載されているのか、それとも「林」名という他人の名前が記載されているのか、気になるところです。

 金時鐘さんの身分関係について、彼の回想記から推測に推測を重ねました。実際のところはどうなんでしょうかねえ。

【関連拙稿】

金時鐘さんの法的身分(続)      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/13/7732281

金時鐘さんの法的身分(続々)     http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/26/7750143

金時鐘さんの法的身分(4)      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/08/31/7762951

金時鐘さんの出生地          http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/07/05/7700647

在日の密航者の法的地位 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/06/23/6874269

韓国密航者の手記―尹学準        http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/03/7933877