「三韓」の用例(1)―中国古代2015/06/08

 中国の古代の歴史書で「三韓」の用例を集めてみました。とりあえず唐時代までのもので限定します。  

①『後漢書(范曄)』東夷伝      「韓には三種がある。一を馬韓といい、二を辰韓といい、三を弁辰という。‥‥[韓の中では]馬韓がもっとも強大で、[三韓]はともに[馬韓の]種族をたてて辰王とし、目支国を都とし、三韓の地をことごとく支配した。[三韓の]諸国の王の先祖は、すべて馬韓種族の人であった。」 (189~190頁 平凡社東洋文庫『東アジア民族史1』)

②『太平御覧』 ―ここに所引される『後漢書(謝承)』      「三韓の俗は、臘日をもって家家祭祀す。」

③『翰苑』―ここに所引される『魏略』      「三韓‥‥魏略曰く、三韓に各長師あり」

④『南斉書』加羅国伝      「加羅国は三韓の種族である。[南斉の高帝の]建元元年(四七九)、[加羅]国王荷知が遣使朝貢した。」 (274頁 『東アジア民族史1』)

⑤『隋書』列伝      「[隋の]二代目の煬帝は[先代の]基礎を承けつぎ、その志は宇宙を包むほどで、しきりに三韓の地域を践み躙り、千鈞もの巨大な弩をしばしば打ち込んだ。[そのため]小国の[高句麗]が滅亡を恐れることは、敢えて言えば、追いつめられて苦しむ獣と同じようであった。」 (24頁 『東アジア民族史1』)

⑥『旧唐書』百済国伝       「 [唐の高宗は]璽書(親勅)を[使者に託して]義慈に与え、‥‥その結果、三韓の民衆の生命は、[危険な]刀爼(包丁とまないた)のもとに置かれている。」(245頁 『東アジア民族史2』)

 ① 『後漢書』東夷伝は、3世紀に陳寿が記した『三国志』東夷伝に基づいて5世紀に范曄が記した文です。 元の『三国志』には「三韓」という文言はありません。 「三韓」は范曄が書き加えたものと推定されます。 従ってこの『後漢書』が「三韓」の初見資料と言えます。 ここでの「三韓」は馬韓・辰韓・弁辰(弁韓)の三つの領域を示しています。

 ②・③は所引資料に出てくる「三韓」です。 原文に元々「三韓」があったのか、それとも引用者が「三韓」と書き改めた(或いは書き加えた)のかどうかは確認のしようがありません。 またこの「三韓」が馬韓・弁韓・辰韓なのか、それとも百済・新羅・高句麗なのかも不明です。

 ④ この「三韓」は①の『後漢書(范曄)』東夷伝に拠っているので、馬韓・弁韓・辰韓の意味です。 加羅国はこのうちの弁韓に相当します。

 ⑤ 隋が高句麗を攻めた時の記録です。 つまりこの『隋書』の「三韓」は高句麗を意味しています。 従ってこの時の「三韓」は朝鮮半島南部の馬韓・弁韓・辰韓ではありません。 「三韓」は朝鮮半島北部~満州を跋扈した高句麗地域まで拡大しており、百済・新羅・高句麗の三国の地域全体を「三韓」と称しているのです。         別に言えばこの三国が「三韓」として一括できる地域と認識されています。 「三韓」は「三つの韓」というような複合語ではなく、「三韓」の二文字で一つの言葉なのです。 このように理解すれば、隋は高句麗だけを攻撃して新羅や百済は攻撃していないのに、なぜ「三韓の地域を践み躙り」と表現されるのかが分かります。

 ⑥は百済の義慈王が新羅を攻撃したことに対し、唐の高宗皇帝が651年にこれを抑えようと百済王に下した勅文です。 この「三韓」は百済・新羅・高句麗の三つの国という意味にもとれますが、中国の皇帝が百済という一国の王に対して他国である高句麗・百済の民に言及するのはあり得ません。 従って「三韓」は三つの国ではなく、これだけで朝鮮全体という意味になります。

 以上の中国の歴史書資料から、「三韓」は5世紀の范曄が編纂した『後漢書』では馬韓・辰韓・弁韓の「三つの韓」という意味で使われたのが、7世紀後半には百済・高句麗・新羅を含めた朝鮮全体の意味に使われるようになったと言えます。 あるいはこの7世紀後半期までに、百済・高句麗・新羅の枠組みを越えて、この三国を一体視する見方が出てきたとも言えるでしょう。

【関連拙稿】

「韓」という国号について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/09/7630067

「三韓」は朝鮮の国家と民族を表す http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/09/10/6977764

「三韓」は朝鮮でも使っていた  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/05/25/1533306

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(2)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/04/6798932

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(3)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/07/6803186

矢木毅『韓国・朝鮮史の系譜』(4)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/05/10/6805823

コメント

_ 健介 ― 2015/06/08 08:57

 私は素人だが、雑文で知るくらいに過ぎない。ただ韓国へは仕事で一週間行ったことはある。
 わが国日本の古代史には興味があり、雑文を読むくらいで、いわゆる専門的な本はよんだことはない。朝鮮研究家今西龍の名前くらいはしっているその著作は読んだことはない。
 いつも思うが朝鮮もわが国日本も独自の文字を持たずに、漢字を介して、文字を知った。
 この三韓という文字は音としてどのように発音するのですか。日本語の五十音表記(カタカナ)によるものでいいですから、ご教示願えないか?
 私は日本における雑文を読むといつも思うが、音に関する知見がかけていると思う。万葉集、古事記などを学校で習ったとき、どうしてこのように読むかさっぱりわからなかった。
 朝鮮の史書は確か12世紀が初めてで、わが国は8世紀です。この落差は何によるか?大きな疑問です。
 常識で見れば後に書かれた史書は前のものを参考にするはずだから、三国史記は古事記、日本書紀などを参考にしないはずはないと思うがこの点における研究書はありますか?
 いずれにしても音に関する視点が抜けている。これについての研究書ないし専門家をご存知ですか。日本の研究家をご存知ならお教えいただきたい。

_ (未記入) ― 2015/06/08 20:20

まずは自分で調べるべし。

これが出来ない人にいくら教えても、無駄というもの。

図書館に行くのが一番早いよ。

_ 健介 ― 2015/06/09 08:00

>未記入
そのくらいはしているよ。最も専門家ではないがら、できる範囲内でだが。
 専門家は事案いついて、五分で説明せよといったら五分で、三時間でせよといったら、三時間で、するのが専門家だと私は思っている。
 今頃、図書館とはね、ネットでは世界中のものがあるからまず英語ができることです。
 いつも似たような答えですね。
ブログをいろいろ読んだが、何かしらかけているものがあるきがするので、それが何かは興味を持っている。
 南北朝鮮いついては歴史、現代のものでもうそ偽りが多いが、それはわが国より、南北朝鮮のほうが多いと思っている。
 国内の朝鮮研究家は外圧に弱い。

_ 辻本 ― 2015/06/10 19:49

拙ブログで質問される方は多いです。

かつては、質問にできるだけ答えようとしましたが、止めました。
理由は、質問する側は知識が増えてメリットになりますが、こちら側にはメリットがないからです。
質問者側から得られる知識は、ほとんどありませんでした。
また質問者は、こちらにとってはお客さんでもなく、教え子という関係でもありません。
こちらが親切に教える義理のない方ばかりです。

こちらにメリットがあると判断した方だけに、質問に答えます。

_ 健介 ― 2015/06/11 06:29

>こちらが親切に教える義理のない方ばかりです。
 もともとこのようなブログは、その昔では、塀に書かれた落書きと同じようなものでしょう。義理という考え方が生じるとは思えない。その上メリット、デメリットという考えはまあ実際にあるとかも知れないが、そもそもそのようなものはマネーで現代社会はみる.つまり有料ブログということです。
 素朴に、高校で万葉集や古事記の一部分を習ったが普通に疑問に思ったことは、なぜそのような読み方をするのかといいうことで。先生も答えられなかった。
 したがって、私がたずねたことはその当時と同じ疑問に過ぎないから。ごく初歩の質問に過ぎない。
 私が調べた範囲内では、引用されている文章は支那の文章ですから、まあ実際の話、辻本氏もわからないだろうと推定する。
 この問題は簡単ではないが、支那語の音に関しては確か東大に藤堂という教授がいたと思う。現代は知らない。

 古代においても朝鮮に関する記事は誤りが多い。

 具体例を挙げれば、稲作だが、現代の発掘調査から見ると水田耕作は日本から、朝鮮南部に渡ったと見るほうが合理的でしょう。すると漢字の伝播は果たして朝鮮からかという疑問が生じる。ところが朝鮮には吏読(リトウ)というものがあるという。それではそのリトウでかかれた文章があるかというと、郷歌(ヒャンガ)というものあるそうだが、三国史記はそれでかかれているかというと違う。ここが古事記、万葉集と大きく違うところで、なぜそうなのか、朝鮮は文化が進んでいたかはずならそれが生じたはずだが?
すると古事記万葉集を朝鮮語で読むということになるが、仮に読むとしても、当時の読み方を知る必要がある。
 実際に出版されている万葉集などを読んでも、のっけから、何打だということになる。日本語ですら変な読み方と思うものがある。
 一音一字となるのは終わりのほうで、始めのほうは違う。そこで朝鮮語で読むとなると、果たして、当時朝鮮語という概念ができうるか? 
 このあたりまで来ると、雑文読みでは無理です。
だから、簡単に<三韓>を音で把握するとしたらどのような音かという質問となった。日本語は言語音としての音という概念はない言葉だと私は見ている。
 あげればいろいろな疑問が生じる。
辻本氏がかかわっておられる、領域はメリット、デメリットでは捉えられないものがあり、それを持ち込むと見えるものが見えなくなる。何かしら辻本氏のブログは気になるものがあるわけだから、どうもそれが元かな?

_ (未記入) ― 2015/06/12 17:15

>今頃、図書館とはね、ネットでは世界中のものがあるから

 ひょっとして、ネットだけで資料調査しているのか??!!

 稲作のことが書いてあったが、だったら日本と韓国の水田遺構に関する考古学的調査の報告書、および両国のそれに関する学術論文を手に入れなければならないだろ。
 それはネットでは入手できない。図書館か研究機関かに行かねばならない。
 まずはそれから作業を始めるべし。

_ 健介 ― 2015/06/12 19:40

> (未記入) ― 2015/06/12 17:15

 別に学術論文など読まなくても、いくらでもある。東大へ留学した人が書いた本を読んだが、まあなあ、あれではねえ。
 大体日本もだが韓国の学問レベルもどの程度なん。
前方後円墳が発見されたその年代を見ると日本より後という事だが、この事実を学術論文はどのように扱っているのか、知っているのか?
 大体ね南朝鮮(韓国)も土木工事をしたからいくらでも発掘品があり、展示されているはずだ。それを自分の目で見て考えればいい。いすに座った考古学者という概念が西洋にある事を知ってるのか?
 もう縄文期における日朝の関係は大体判明している。それが表に出ないことが考古学会の問題で、元は南朝鮮(韓国)の学問的思想がないことによる。日本もだがな。
 いったい誰が先進文化が朝鮮から日本に渡ったと言い出したか調べるといい。いまだわからないけれどもね。
 日本から稲作技術が朝鮮半島の南部へ渡ったと見ることが合理的です。調べてみたらいいでしょう

_ (未記入) ― 2015/06/14 16:09

>日本から稲作技術が朝鮮半島の南部へ渡ったと見ることが合理的です

 根拠は?

 稲作技術を水田耕作・ジャポニカに限定すると、日本より古い稲作が発見されているのは揚子江下流地域。
 一方、日本で一番古い水田遺構は、縄文時代末期の福岡だ。
 つまり揚子江下流→福岡が、稲作の伝播ルート。
 福岡は玄界灘地域だから、揚子江→朝鮮南部ルートも考えられる。ただし今のところ仮説。

 福岡→朝鮮南部ルートはあり得るのか?これが成立するには、朝鮮南部に福岡より古い稲作が存在していないこと、および福岡からの影響受けた新しい稲作が存在しているを証明しなければならない。

 これぐらいは当然調べたのでしょうね。

_ 健介 ― 2015/06/14 21:19

 もう一度書くが私は研究者ではない。したがって、その人々がかいた、書籍から判断する。ご指摘の稲作のルートは承知です。
 米の遺伝子から見ると、朝鮮にはないものが日本のものにはあるという記述があった。
 もうひとつ大きなことはMT遺伝子の比較で、それから見ると、朝鮮から日本へ来たのは女性だけとなるそうです。
 これは専門家の判断です。したがって、日本から男女が朝鮮半島南部へいき、やがて、引き上げた、そこで残った女が新たに来た人々と混血した。それがたぶん朝鮮人の祖先ということでしょう。
 私が問題意識を持ったのは もしね、朝鮮から文化が来たなら、対馬は朝鮮の縄張りになるのではないかという疑問です。ところが違う。学校教育においてそれを思ったが質問はしなかった。
 この事実をみて、どのように思われるか。
 それと邪馬台国についての疑問です。詳しいことは忘れたが、魏志倭人伝に最初に書いている国々はたぶん朝鮮半島の南部にあったと考えると合理的に説明できるという人がいた。
 私もこれが正しいのではと見ている。
とにかく、文化が朝鮮半島からきた、朝鮮文化のほうが進んでいたということは古代から事実だろうかという疑問で、誰が最初にそれを言い出したか?おそらく明治以降の西洋人ではないかと私は見ている。 
 >一方、日本で一番古い水田遺構は、縄文時代末期の福岡だ。

 これは間違いではないか。もっと早い遺跡が見つかったとあったがその名前は確か菜畑遺跡だったと思う。
稲作についてはこれまでの常識を覆す発掘があり、考古学会はその事実に直面できないでいるような感じです。

>これが成立するには、朝鮮南部に福岡より古い稲作が存在していないこと、
この文章は近代的な学問を知らないことの証明だと思うがその意味はお分かりですか?

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