ビックリ「安倍晋三」論 ―ハム・ヨンジュン(1)2019/11/27

 韓国の朝鮮日報が出している『週刊朝鮮』2581号(2019年11月4~10日)に、「“大日本帝国”の嫡孫、安倍」と題する2ページほどの小論があります。 論者はハム・ヨンジュンさんという方で、朝鮮日報社会部長・国際部長、週刊朝鮮編集長、大統領秘書室 文化体育観光秘書官、高麗大学メディア学部招聘教授を歴任しているので、韓国では最高レベルの知識人といえますし、これまでも成程!と感心する論考も書いておられました。 だからこれも日本の安倍首相をきっと鋭く的確に論じているはずと期待して読んでみました。 しかし期待外れでした。 逆に言うと、日本や安倍首相に対する韓国人の知識と理解がどの程度のものかを示すものとして意味のある資料ではないかと思い、ここに紹介するものです。

 一部抜粋や意訳では誤解の恐れがありますので、全文を直訳します。 日本語として不自然な部分や前後の脈絡不明なところが出てきますが、そのままの直訳ですので、ご了承願います。 また所々で私の感想を挟み込みます。

私が日本に関心をもったのは、‘Japan as NO.1’と呼ばれて、世界経済を思いのままにした1990年代の初めだった。 日本の株価総額がアメリカを追い越し、東京の土地を売ればアメリカ全体を買うことが出来た。 韓国の国内総生産(GDP)より、日本の一企業(日本電信電話・NTT)の時価総額がもっと大きかった時期であった。

私は日本の怪力が気になった。まず駐韓日本大使館の活動から気になって取材要請をした。 しかし大使館は全く意外な態度を見せた。 まず事務室の出入りから塞いだ。 許容された場所は、一階ロビー横の小さな密室。 資料の要請は100%拒否された。 文化院広報冊子すら、「在庫がない」といって拒絶された。 大使館全職員に、私と接触禁止命令が下りた。思案の末、日本大使館を担当する我が情報要員を訪ねていったが、彼らにも「かん口令」が下りていた。

 当時の日本大使館は韓国の情報要員にかん口令を敷くほどの影響力があった、というのは信じられないですね。 これは本人が自国の情報機関からも警戒されていたということではないでしょうか。

大使館は私をスパイ扱いした。以降さんざん苦労して取材したが、この経験は非常に有益だった。 日本人たちの実体を実感したためである。透徹した保安意識はもちろん、些少な動きは一つも見逃さない微視的頭脳プレーは、本当に大したものだった。 強大な経済力と技術力等を元に、全世界を相手にする「日本株式会社」の情報力。 その中でも対韓国情報力は、断然最高だった。

   「日本株式会社」というのは、当時世界からそう呼ばれていましたねえ。 日本は自分の利益だけのために団結しているというイメージが広がっていたのです。 今はそんなことを言う人はいませんから、死語ですね。 「対韓国情報力は、断然最高」というのは、異議のあるところです。 

その原初的な力は19世紀後半から続く大陸進出、朝鮮併呑および植民支配などを通して蓄積された資料、経験、人脈から出てくる。 彼らは韓国人の心性、社会的虚実、歴史を貫き通して各界に相当な人脈を構築している。 一生涯、韓国だけを研究する専門家、最初から韓国人と結婚したり帰化して韓国人のように暮らす人たち、甚だしくは韓国に骨を埋める隠れた(undercover)情報要員たちも多い。 これは、彼らが「大陸浪人」と呼ばれた、日本帝国主義の時代からの伝統だ。

 植民地支配も含めて日韓交流が盛んになれば、「韓国だけを研究する専門家」が多くなるのは当然ですし、「韓国人と結婚したり帰化して韓国人のように暮らす」人も多くなるでしょうし、中には「韓国に骨を埋める隠れた情報要員」も出てくるでしょう。 しかし彼らが「『大陸浪人』と呼ばれた、日本帝国主義の時代からの伝統」とは、一体どういうことなのでしょうか。 韓国専門家や韓国に帰化して住んでいる日本人たちは、昔の大陸浪人・日本帝国主義の伝統を引いていると考えているのですねえ。 ビックリです。

当時取材に協力した韓国人職員の証言が、今も生々しい。1980年代初め、前田駐韓日本大使が金浦空港で日本の有力政治家を乗せて、楊花大橋を渡る時だった。 大使はいきなり明成皇后殺害の首謀者である井上馨の逸話を話した。 井上は内務・外務大臣を務めた国家元老であるが、1894年に職級を三段階落として朝鮮公使(局長級)として赴任した。 当時楊花津は済物浦(仁川)からソウルに入ってくる水路の関門。

「到着の初日、楊花津の渡し場に下りてソウルに入って来ながら、ずっと駕籠かきの歩数を数えたのです。 駕籠かきの歩幅に歩数をかけて、楊花津から景福宮までの距離を計算したのですが、今の実際の距離とほとんど合っているのですよ。 先輩たちはこのようにして徹底して仕事をしたのですが、このごろの若者は一体全体‥‥」

 そう大したこともない逸話です。 日本では戦国の時代から、軍隊を進めるにあたって距離は極めて重要でしたから、指揮官クラスの武士ならば歩幅に歩数をかけて距離を測るのは常識に属することでした。 当時の井上は外交を担当する公使でしたが、昔の武士・軍人時代の癖が出たのでしょうかねえ。 それよりも、こんな逸話が韓国人には特筆すべきものだったことに驚かされます。

赴任1年後である1985年10月8日明け方、日本の軍人や剣術者たち80余人は、景福宮に侵入、明成皇后を無残に殺害して焼いてしまった後、逃亡した。大部分が楊花津から船に乗って済物浦に行き、日本に逃げた。 運転席の横に座って、この対話を立ち聞きした韓国人職員は「ヒヤリと感じて、ぞっとした」と回顧した。一国の王妃を凄惨に殺害した、類例のないこの事件は、当時の総理である伊藤博文(後日の朝鮮統監)、朝鮮駐屯軍司令官 山縣有朋(後日の陸軍元帥・総理)などの黙認のもとに井上が企画し、後任の三浦悟楼 前陸軍中佐によって実行された。

 ここは、井上馨が楊花津とソウルの間の距離を測ったのは、その後の閔妃暗殺事件の犯人らが楊花津まで逃げることを想定していたからだという話になっています。

 ところでこの事件は、主に日本人80人ほどがその日の明け方に集まって王宮に侵入し、王妃を殺害したというものです。 一国の王宮が、臨時に集まった80人ほどの混成集団にいとも簡単に侵入され、さらに大した抵抗もせずに王妃を殺害されてしまったのですから、自らの身を挺して王宮と王妃を守ろうとする護衛兵がいなかったのです。

 事件は一見、無計画で引き起こしたのに偶然に大成功を収めてしまったように見えるのですが、ハムさんによれば事前に周到に準備されていたということです。 そうならば更に情けないことです。 王宮はわずかな手勢で簡単に襲撃できるし、王妃の警護は全く手薄であることが既に日本側に分かっていたというのですから。

 つまり日本側は政府が一丸となって事前に入念に準備していたのに、わが朝鮮側は当日まで何も気付かずに事件が引き起こされてしまい、事件後も全員にまんまと逃げられてしまったと言っておられるのです。 本来は自分たちの不明を恥じるべきものでしょう。

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