かつて日本人は朝鮮部落をどう見ていたか(2) ― 2025/10/15
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/08/9808117 の続きです。
大阪区裁判所検事 三木今二「内地に於ける朝鮮人とその犯罪について」司法省調査課『司法研究』第17集 報告書集第二 (1933年)
朝鮮人が群衆的騒擾性、付和雷同性を多分にもち、かの万歳騒擾(1919年の三・一独立運動)、元山罷業の騒擾(1929年の植民地期最大のゼネスト)または光州学生騒擾(1929~30年の抗日学生運動)等は彼等のこの性癖に帰するものがあると謂われて居る。
その群衆騒擾性付和雷同性は彼等の闘争心の強きこと、一般に信仰なく常に焦慮不安を抱いて居ること、教育なきために分別理性に欠くるところがあり、何等かの衝動を受けくると之を抑えることが出来ないで各々他人を中心として妄動するに基づくものであろうが、内地に於ける朝鮮人には生活の脅威に対する焦慮不安が自暴自棄の観念を起こさせると自然に醸成されつつある民族意識に支配されることによって、些細なことに端を発し凶暴なる騒擾を惹起するおそれがある。 (以上、杉原達『越境する民 近代大阪の朝鮮人史』岩波現代文庫 2023年3月 200頁より再引)
当時の在日朝鮮人の犯罪を直接担当した治安当局者の発言ですが、「群衆的騒動性」「付和雷同性」「焦慮不安」「自暴自棄」などの言葉の連発は、今なら差別発言だと問題になることでしょう。 現代の欧米の異民族スラム街での犯罪や暴動が時おりニュースになっており、担当の治安担当者も同じような感想を持っているだろうなあ、と想像します。 今の日本でも一部民族コミュニティに対してそのような傾向が指摘されているので、気になるところです。
近年に発刊された岩波新書『在日朝鮮人』に、戦前に形成された朝鮮人集住地区(朝鮮部落)について、次のように記述されています・
(1920年代以降の)このような朝鮮人集住地区は、日本人の眼には「猥雑」「不潔」としか映らず、理解不能な異文化が日本社会の中に移植されたかのように見えた。 (水野直樹・文京洙『在日朝鮮人―歴史と現在』(岩波新書 2015年1月 33頁)
100年前の戦前において日本人から朝鮮人を見た時の正直な感想は、「猥雑」「不潔」「理解不能な異文化」というものだったのでした。 そして100年経った今、各地に一部外国人民族コミュニティができていてその様子がユーチューブなどで公開されていますが、そこで出てくる感想と大きく違わないことに注目されます。
次に戦後に発表された資料ですが、法務省の方が在日朝鮮人の歴史を簡潔にまとめています。
森田芳夫「数字からみた在日朝鮮人」 『外務省調査月報』第1巻 第9号 1960年12月
(戦前の)朝鮮人は故郷にあっては純朴な農民であったが、教育が不十分、日本語が未熟なまま貧困の身で生存競争の激しい異郷に流入したために、治安や労務面で日本内の社会問題とされ、それに日本内が経済不況で、失業者が多い年もあったため、日本政府は行政措置により就職や生活の見通しのたたないものの渡航阻止を行なった。
(戦後の)在日朝鮮人には、女が少なく、老人が少ないこと、教育程度が低い者が多いこと、また職業の上で、農業従事者が少なく、定職のない者が多いことなどが犯罪率を高くする要因となっている。 今後、年齢構成の変化と教育程度の高まりと、生活の安定と共に、犯罪率は低下することであろう。 (以上、『数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史』明石書店 1996年6月 65~66、32頁に所収)
在日朝鮮人史に関心のある人なら、森田芳夫は必ず知っておかねばならない人物です。 戦後法務省官僚として、客観的統計資料に基づいて在日朝鮮人の実情を分析・研究した方です。 彼は戦前の在日朝鮮人について「純朴な農民であった」「教育が不十分」「日本語が未熟なまま貧困の身」と簡潔に評しましたが、その通りだった言うしかありません。
さらに戦後の在日朝鮮人について、「年齢構成の変化と教育程度の高まりと、生活の安定と共に、犯罪率は低下するだろう」と見通しました。 これは65年前(1960年)の分析ですが、それ以降の在日の歴史を見渡せばその通りの経過となっていますね。
「教育程度の高まり」と「生活の安定」は在日自身が努力してきたものです。 つまり在日が自ら望んで日本社会に馴染んだというか統合されたというか、端的に言って同化されてきたということです。 その結果が「犯罪率の低下」に繋がったのでした。
ここは今の外国人問題の解決に向けて何を努力すべきか、ヒントを得ることができると考えます。
大阪では1969年に矢田教育事件が起きた影響と思われますが、翌年の大阪中学校長会内部文書が暴露されました。 中学校に通う在日朝鮮人子弟がどんな様相であり、教育関係者が彼らをどう見ていたのかが記されています。 当時の底辺校に勤務したことのある教師なら、心の中で〝さもありなん”と思うでしょう。
大阪市立中学校長会「昭和45年度研究部のあゆみ」
朝鮮人子弟は、一般的に利己的・打算的・刹那的・衝動的な言動が多く、それが情緒不安定、わがまま勝手、ふしだらな傾向、実行の伴わないみせかけの言動となってあらわれる。 罪悪感に欠け、性的早熟、自己防衛的でその場限りのウソも平然とし、同じあやまちや不注意も繰り返す。 半面、外国人ということを卑下して、日本人のように振る舞おうとし、無気力になったり、荒々しくなったりする。 (永井萌二『見知らぬ人 見知らぬ町』1971年7月 五味洋治『高容姫』文春新書 2025年6月 65・65頁より再引)
「利己的」「打算的」「刹那的」「衝動的」「情緒不安定」「わがまま勝手」「ふしだらな傾向」「実行の伴わないみせかけの言動」「罪悪感に欠け」「性的早熟」「その場限りのウソも平然」「同じあやまちや不注意を繰り返す」‥‥。 教師たちが在日朝鮮人子弟たちによほど困っていて、それを正直に書いてしまったのでしょう。 今ではこんな発言は許されません。 しかし上述してきたような在日朝鮮人社会のなかで、このような子弟が生まれてきたと言えば理解してもらえるでしょうか。
これを今の外国人問題に引きつけるなら、彼らの子弟のなかに学校の授業についていけず、上記のような在日朝鮮人子弟と同じ振る舞い、時には悪の道に走る例が見られることです。 かつての在日子弟と同じような歩みを今の外国人子弟が歩んでいるのではないか、ということです。 とすれば、これまで日本人教師たちが取り組んできた在日朝鮮人子弟教育の経験は今の外国人子弟教育に生かしているのだろうか、同じような悩みを繰り返しているのではないか、という疑問を抱きます。
なお私の経験からすると、1980・90年代の在日朝鮮人子弟教育は学力向上よりも「本名を呼び名乗る」ことに重点をおいていて、教育というものからちょっとずれていたように記憶しています。 なにしろ教育研究集会では〝うちの学校で何人の在日生徒に本名宣言させたか”を発表していましたし、テレビで「二つの名前で生きる子ら」というドキュメンタリー放送をしたりしていましたから。 在日の子は通名(日本名)を名乗って朝鮮人であることがバレないかと怯えながら暮らしているから不良の道に行くのだ、本名を名乗れば不良にならない、なんて言うヘンテコな活動家がいましたねえ。 この「本名を呼び名乗る」取り組みは今の在日外国人子弟の教育問題に果たして繋がっているのだろうか、私は疑問に感じています。 (続く)
かつて日本人は在日朝鮮人をどう見ていたか(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/08/9808117
戦前の朝鮮部落の状況 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2025/10/01/9806622
水野・文『在日朝鮮人』(10)―子弟の教育 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/06/22/8116734
在日の低学力について(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/04/28/9371638
在日の低学力について(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/05/05/9374169
【在日の本名についての拙稿】
第21題「本名を呼び名乗る運動」 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainijuuichidai
第85題(続)「本名を呼び名乗る運動」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuugodai
第84題 「通名と本名」考 http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daihachijuuyondai
「部落民宣言」と「本名を呼び名乗る」運動 https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2021/10/28/9435562