『金達寿伝』を読む―金家はなぜ没落したか2020/09/07

 拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142 で、故金達寿の来日の由来について、次のように書きました。

作家の金達寿さん一家が来日した由来を、土地調査事業で日本に土地を奪われて生活できなくなったからと書かれていたのを読んでビックリしたことがあります。 金達寿さんは『わがアリランの歌』(中公新書1977)の中で、父親が先祖からの土地を切り売りしながら遊蕩三昧した末に生活に窮し、日本に来ることになったと書いています。

 これをもう少し詳しく書きます。 最近出版された『日本のなかの朝鮮 金達寿伝』(廣瀬陽一著 クレイン 2019年11月)の19頁には次のように記述されています。  

金柄奎(金達寿の父)一家は、本家や親類が没落して離散した後も亀尾村で暮らした。しかしまもなく彼らと同じ運命を辿ることとなった。その最大の要因となったのは、韓国併合直後から1918年にかけて朝鮮半島全土で実施された土地調査事業である。

朝鮮総督府は植民地支配の財源確保を目的に、土地の地目を調査して所有者を確定する作業を進めた。この過程で農民を中心に数百万人もの朝鮮人が、何が何だかわからないまま一夜にして土地の所有権や共有地を失い、小作人や肉体労働者に転落した。辛うじて免れた者も、困窮のために高利貸しに手を出して、土地や家屋を手放さざるを得なくなった。

金家の田畑や山林も事業のなかで失われ、わずかに残った財産も、将来に絶望した柄奎が馬山浦の歓楽街で遊蕩して使い果たしてしまった。‥‥

こうして財産を失ったあげく、一家離散の時が来た。 1925年冬、表通り沿いのポプラ並木の落ち葉が木枯らしで舞い上がる中、柄奎と福南(金達寿の母)は声寿(金達寿の兄)とミョンス(金達寿の妹)を連れて<内地>に渡った。

 この本は、金達寿の生涯の歴史を具体的な資料に当たりながら辿っているのですが、金家没落の「最大要因」が「土地調査事業」であるとする資料は提示していません。 土地調査事業によって財産をどのように「失った」のか、そして「わずかに残った財産」とはどれくらいだったのか。 こういう肝心なところがさっぱり分かりません。 朝鮮総督府が施行した土地調査事業について一般概説書の偏った説明を、そのまま金達寿一家の没落に当てはめたようです。

 なお金達寿自身は、著書『わがアリランの歌』(中公新書 昭和52年)のなかで、次のように書いています。

私の家というのはいわば没落した中小地主の一つだった。1910年のいわゆる「日韓併合」とともに、約十年間にわたってくり返し行なわれた「土地調査」とはどういう関係にあったか、これについても私はくわしくは分かっていないが、ともかく私が生まれたころ(1919年)にはもう、その没落は確実なものとなっていた‥(4~5頁)

 このように著者自身は、土地調査事業によって没落したのかどうか分からないと明記しています。

 次に『金達寿伝』では、金家が財産を失った二番目の原因を「将来に絶望した柄奎が馬山浦の歓楽街で遊蕩して使い果たしてしまった」としていますが、『わがアリランの歌』ではちょっと違います。

馬山は人口3万ほどの都会で、そこには妓生組合、すなわちその妓生と遊ぶ妓楼があって、父はほとんどそこに入りびたりとなっていたのである。いわゆる遊蕩で、しかも父にはいつも四、五人の取巻きたちがついてまわっていたという。

その取巻きたちは家に来たこともあって私も見たことがあるが、しかしそうしてちちがたまに家に帰った翌朝など目をさましてみると、馬山の市で買い入れてきた大口魚の鱈などが軒先にずらりとぶらさげられたりしていた。‥‥

そうして父は家にいることはあっても、私はその父の働くのを見たことがなかった。ただ一度か二度、先のほうに小さな鍬のような金具のついた長い竹竿を持って、作男たちの働いていた田んぼをちょっと見てまわったことがあるのを、私はやっと覚えているだけである。

要するに父は、残った田畑を一枚二枚と人手に渡しながら、遊蕩三昧だったのである。

いま考えると、その取巻きをも含めた父たちは、半分やけくそになっていたかとも思う。

いわば父たちにとっての青春とは、いわゆる「日韓併合」であった。父はそのときまだ20歳になっていなかったが、しかしそれでもう希望もなにもなくなってしまった、といえなくもない。

いわゆる「日韓併合」時の義兵抗争にも参加できなかったばかりが、三・一独立運動の中心部にあって抵抗することもできなかった無力な彼にとって、できることといえば、やけくそになるよりほかになかったのかも知れない。 (以上『わがアリランの歌』6~7頁)

   金達寿自身は、父親は「やけくそ」だったであろうとしています。 『金達寿伝』にあるような「将来に絶望」とはちょっとニュアンスが違うように思えます。

 どちらであれ、父親は働きもせずに先祖からの財産を切り売りしながら仲間たちと一緒に遊蕩三昧。 これが一家没落の原因だということが分かります。 

 ここで疑問が出てきます。 父親は作男(使用人)に田畑を耕作させるだけで、なぜ自分で働かなかったのか? 先祖からの財産を切り売りするだけで、なぜ財産を増やそうという発想がなかったのか? 自分で働いて得る収入がないのに、妓生遊びになぜ夢中になったのか? そして他人である取巻き連中になぜ気前よく奢ってやったのか? こんなことをしていたらいつかは破産することがなぜ分からなかったのか? 

 このような疑問に対して、私なりの回答をしてみます。 金達寿の父親は李朝時代から連綿と続く両班(上流階級)の暮らしがいつまでも続くと思っていた、だから汗水たらして働くことに拒否感があったし農業経営にも関心がなかった、そして自分が両班であることを見せるために周囲に大盤振る舞いをせねばならないし妓生とも遊ばなければならないと考えていた、父親はこのような両班意識から脱することができなかった。

 ちょっと言い換えますと、李朝時代には通用していた両班意識は近代社会には全く通用しなくなった、だから両班意識を引きずる両班の後裔たちは時代の波に乗れず、没落するしかなかった、ということです。 金達寿自身が言うところの「やけくそ」ですね。 「将来に絶望」ではないでしょう。 金家の没落は、昔ながらの両班意識にとらわれたというところから説明できると考えます。

 両班については、拙ブログで下記のように解説していますので、笑覧いただければ幸甚。

伝統的朝鮮社会の様相(2)―両班階級  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/09/05/9149522

伝統的朝鮮社会の様相(3)―貧富格差 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/09/20/9155647

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/26/7254093

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(5) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/29/7261186

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(8) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/09/7270572

『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(9)http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/04/14/7274402

李朝時代に女性は名前がなかったのか(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/01/8061795

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