毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(1)2020/08/13

 毎日新聞2020年8月12日付けに「在日3世代100年の家族史 父は差別と闘い/叔父は特攻入隊 3代目、国境なき災害支援」と題する記事がありました。 「曺弘利」という在日韓国人が語った祖父からの家族史をもとに、「高尾具成」という記者が再構成した記事です。  https://mainichi.jp/articles/20200812/dde/012/040/018000c

 読んでみて、違和感を抱いた部分があります。 それをちょっと書いてみます。

曺さんの祖父、曺秉元(ピョンウォン)さん‥‥ 日本による植民地化が進み、国策企業が「持ち主不明農地の測量」を名目に、朝鮮人の先祖伝来の土地を奪い、移り住んだ日本人に払い下げていた。そのため現地住民は小作農に転落。秉元さんもその一人で生活苦にあえいでいた。

 ここでは祖父一家が「生活苦にあえいでいた」原因を、当時の土地調査事業によって日本の国策企業が「先祖伝来の土地を奪い」「日本人に払い下げ」、その結果「小作農に転落」したことに求めています。 しかしこの祖父が実際にこのような体験を語ったのかどうか、全く記されていません。

 私の考えでは、おそらく記者が朝鮮史の一般向け概説書に書かれてあった土地調査事業の説明をそのまま祖父に当てはめたものではないか、と思います。

 こういう歴史を語る人は結構多いものです。 ちょっと昔ですが、作家の金達寿さん一家が来日した由来を、土地調査事業で日本に土地を奪われて生活できなくなったからと書かれていたのを読んでビックリしたことがあります。 金達寿さんは『わがアリランの歌』(中公新書1977)の中で、父親が先祖からの土地を切り売りしながら遊蕩三昧した末に生活に窮し、日本に来ることになったと書いています。

 私はこんな例を知っていましたから、またか、何でも日本が悪いとしなければ気が済まないのだろうなあ、という感想ですね。

そんな折、日本人の手配師から持ちかけられる。「日本で1年も働けば、家の1軒ぐらいは建てられる」。秉元さんは話にのる。ちょうど100年前、1920年のこと。行き先は福岡・飯塚の炭鉱だった。創氏改名で「中山八郎」と名乗った。

 これにはビックリ仰天。1920年に「創氏改名」があったとは!!! これを書いた記者に対して、朝鮮史の基礎的初歩的知識に疑問を抱くところですねえ。 こんなフェイクを大手新聞の記事に書くなんて、さらにこれをそのまま載せることを決めた編集者の歴史常識も疑わしいですねえ。

炭鉱では「飯場のタコ部屋暮らし」で、1日12時間労働。薄給のうえ、休みは月1回だけ。「やめたい」と口にするたび、革のムチなどでたたかれた。体にくい込み、血が流れると、「消毒」と称して、傷口に焼酎を吹きかけられたという。「二度と『やめたい』などと言うな。ここに来るために貸した大きな借金がある。忘れるな」。そう現場の管理者から脅された。

 ここは最後の「ここに来るために貸した大きな借金がある。忘れるな」に注目しました。つまり祖父が来日するにあたって、借金があったということです。 借金返済のために「薄給」だったことが分かります。 これは今の外国人労働者とよく似た話ですねえ。 ところで祖父は借りたお金を何に使ったのでしょうか?

しかし、もう限界だった。秉元さんは炭鉱を抜けだし、宮崎・延岡に逃れた。そこで出会った在日の女性と結婚。22年に長男・外石(茂人)さん、2年後に次男・外徳(繁雄)さんが生まれ、その後、4女も授かる。秉元さんは魚の行商などをして一家を養い‥‥

 借金がありながら、そこから逃亡したということです。 借金はどうなったのか、気になります。 当時の借金取りは、簡単に諦めたということなのでしょうかねえ。 そんな心優しい借金取りなんて、今も昔もいないと思うのですが。

 祖父は1920年来日、1922年に最初の子ができていますから、結婚は1921年と判明します。 この時期の在日社会は男性が多く、女性は少ないという特徴がありました。 当時は日本には出稼ぎに行ってお金儲けする時代でしたから、男性が多かったのです。

 日本である程度成功した男性が故郷に行ってお見合い結婚し、女性が来日するというパターンが普通でした。 しかし祖父はそんな典型的パターンではなく逃亡先で知り合った同胞女性と結婚したとありますから、珍しい例だなあと少々ビックリ。

 二男四女を育てる家庭を営んでいましたから、魚の行商でそれなりに生活は安定していたと推定できますね。

【拙稿参照】

土地調査事業         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2008/04/23/3273840

水野直樹・文京洙『在日朝鮮人』(1)―渡日した階層 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/06/8066021

水野・文『在日朝鮮人』(5)―強制連行と逃走  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/04/29/8080041

水野・文『在日朝鮮人』(6)―渡航の要因 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/09/8086320

水野・文『在日朝鮮人』(7)―人口の急増   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/05/14/8089137

金達寿さんの父が渡日した理由   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/12/24/1044999

コメント

_ 曺弘利 ― 2020/09/07 18:56

祖父も父もこの世にはおりませんが、あなたの言葉を借りれば死人に口なしと言うことで、歪曲と作り話を毎日新聞社が掲載したということを批判されていると思います。
また、金達寿氏を引き合いにして、当時渡日した在日の代表的な形であると、一元化するような決めつけをされていますが、さまざまな事情はそれぞれにあったはずです。
祖父の当時は、韓国で生きていけなかったから、日本に職を求めて渡ってきたのです。たこ部屋的なところは今も昔もあったはずで、いまも福島原発の廃炉作業員として借金をはらうために、放り込まれている人たちもいることも事実で当時であれば、何らおかしな話ではありません。この新聞記事の内容がすべてウソであり、捏造されて日本がなんでも悪いというが、どこにそんな内容があるのか逆にお聞きしたいですね、掲載されている写真すら捏造されたものだといいかねないし、また全く関係のない写真が使われていると今度は言われるでしょう。あなたも、当時の東洋拓殖が行った事業を日本の都合だけでかたるのではなく、勉強していただきたいものですね。

_ 辻本 ― 2020/09/07 23:29


ご本人様からのご投稿、有り難く思います。

 問題の記事は次の部分です。

>国策企業が「持ち主不明農地の測量」を名目に、朝鮮人の先祖伝来の土地を奪い、移り住んだ日本人に払い下げていた。そのため現地住民は小作農に転落。秉元さんもその一人

 祖父様が来日されたのは1920年とされていますので、「持ち主不明農地の測量」はいわゆる「土地調査事業」と思われます。 「事業」の終了は1919年までとされていますから。 この事業の対象は442万町歩で、事業の結果、日本人土地所有は24万町歩に過ぎません。 また併合以前より日本人は朝鮮にかなり進出しており、その時に土地を購入した場合も多いです。

 また土地所有について紛争となったのは、駅屯地などが国有化されたことが大半です。 日本人土地所有では紛争はほとんどなかったと思いますが。

 従って土地調査事業で「朝鮮人の先祖伝来の土地を奪い、移り住んだ日本人に払い下げていた」ことに疑問を抱いた次第。

 なお「国策企業」とは「東洋拓殖株式会社」のことと思われます。 この会社は、「持ち主不明農地の測量」は行ないません。 測量を担当したのは、朝鮮総督府の土地調査局・土地調査委員会です。

>この新聞記事の内容がすべてウソであり、捏造されて日本がなんでも悪いというが、どこにそんな内容があるのか逆にお聞きしたいですね

 こんなことは書いていません。 記事の内容に違和感・疑問があることを書いたまでです。 よくお読みください。
 ウソと明記したのは、「1920年のこと。‥‥創氏改名で『中山八郎』と名乗った」という部分と、「44年、外石さんに召集令状が届く。だが、徴兵検査当日の朝」の二か所だけです。

_ 辻本 ― 2020/09/07 23:39

>祖父の当時は、韓国で生きていけなかったから、日本に職を求めて渡ってきたのです。

 祖父様の来日理由に「土地調査事業」があったとするのは、 曺弘利 さんではなく毎日新聞記者が書いたということなのですかねえ。

_ 辻本 ― 2020/09/08 00:13

>当時の東洋拓殖が行った事業を日本の都合だけでかたるのではなく、勉強していただきたいものですね。

 東洋拓殖会社が国有地化された土地を、日本人らに払い下げたのは事実です。

 毎日の記事によりますと、祖父様の土地が一旦国有地化されたあと、東洋拓殖の所有となり、その後日本人に払い下げたということですかねえ。 何か根拠となるもの(例えば当時の土地登記簿等)はありませんか?

 ところで曺さんによりますと、祖父様からそうではなく、「韓国で生きていけなかった」という話だったようです。 「土地調査事業」「東洋拓殖」がなぜ出てこないのか、違和感を抱きました。

_ 辻本 ― 2020/09/08 09:16

>祖父の当時は、韓国で生きていけなかったから、日本に職を求めて渡ってきた

 水野直樹・文京洙著『在日朝鮮人 歴史と現在』(岩波新書 2015)の25頁には、朝鮮人の渡日に関して、次のように書かれています。 

>渡日を選んだのは、朝鮮社会の最下層ではなくむしろ中層(ないし下層の中の上位クラス)に属する者が多かった。

>最下層の者は日本に行くための経済的・文化的能力を備えておらず、朝鮮内の都市に出て「土幕民」(バラック居住者)として雑業に従事したり、農村に滞留して作男(朝鮮では「モスム」と呼ばれた)や火田民(焼畑農業をする者)になったり、あるいは朝鮮北部や満州に移住したりするケースが多かった。

>中層の者は少しばかりの金を持ち、日本語も少し話せるが、かといって朝鮮内では社会的上昇を望めないため、渡日の道を選ぶことになった。 (以上25頁)

 当時の在日朝鮮人が来日した事情についての、おおまかな説明です。 「韓国で生きていけなかったから」とは違いますね。

 またこれ以外に、金達寿の父親のように遊蕩の末に破産した場合もあります。 これは確かに「韓国で生きていけなかったから」になりますね。

 渡日の理由は、人それぞれ様々な理由があります。 毎日の記事は曺さんの祖父の場合、「土地調査事業」「東洋拓殖」を挙げました。 ならばそれを詳しく説明してほしいものですが、それが全くありません。

 朝鮮史にある一般的記述をそのまま曺さんの祖父に当てはめただけではないか、というのが私の違和感というか疑問です。

_ 曺弘利 ― 2020/09/08 10:56

祖父の借金がなぜ生じたのかということと、炭鉱から逃げたということで、あなたが「そんなに、優しい借金取がいたかとの疑問を言われておりますが、なればあなたが当時のことをすべて精通しわかっておられるようなので、お聞きしますが、当時の借金取の取り立てのやり方はどうだったのでしょうか、教えてください。ちなみに当時渡日した朝鮮人の事情を作家の金達寿氏の書いた本のなかからの引用を引き合いにされておられ、その形がすべてのような印象を持たせるよにも思えます。あなたは、過去に一人でも自分の目と耳で取材したことがあるのでしょうか、それともすべて人の書いた文献、雑誌、またはこういったネット情報のかき集めた資料がすべてでしょうか。おききいたしますが、よろしければお答え願えませんか。

_ 曺弘利 ― 2020/09/08 13:34

土地測量事業を始めたのは、朝鮮総督府の土地調査局・とち調査委員会と言うのはどこが作った組織ですか、日本でしょう。あたかも、日本政府っが直接関与していないとの言い回しをされているのですが、あなたたちの歴史観そのものは、日本中心に世界が回っているという、実に身勝手な思考でおられるようですが、植民地化を併合といい、安重根を暗殺者という。まず、日本は朝鮮半島を侵略したということを認めないあなた方のような日本人がいる限り、相互理解の道はまずないということが言えます。近隣アジア諸国、とりわけ韓国、北朝鮮は日本を心底から信用することができない、警戒感が解けないのは、あなたの文書から見ても歴然とします。

_ 辻本 ― 2020/09/08 13:47

 金達寿は一例として出したまでです。 それが全てだとは書いていません。 そのような印象を持たれたということに、ビックリですね。

 一般常識的に借金して来たというのなら、最後はその借金をどう処理されたのかに関心が行きました。 その借金を返したのか、それとも返せなかったのか、というところですね。
 借金取りの取り立ては、昔も今もあまり変わらないでしょう。 まともな金融屋なら裁判所に申し立てるだろうし、そうでないなら悪質金融屋に債権を転売するだろうし。
 借金取りが取り立てを諦めるというのは、普通考えられませんが。

 私自身は20人以上の一世から直接話を聞きましたねえ。 もう30年も前のことですが。

_ 曺弘利 ― 2020/09/09 18:26

このたびは、あなたのブログに巡り合えて、大変勉強になりました。永年、在日のこと、朝鮮半島のことに関してよく研究し学習しておられることには実に驚きました。あなたが指摘された違和感と言うものに対して、私が高尾記者に対して語った内容を私も、もう一度整理し、私としても一方的な歴史観をも改めていくようにとも思うところです。貴殿のますますのご活躍を祈念したし、この度の違和感への質問を終わらせていただきます。では

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