毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(2)2020/08/17

 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142 の続きです。

44年、外石さんに召集令状が届く。だが、徴兵検査当日の朝、しょうゆ2合ほどをがぶ飲みするという行動に出る。「日本人として扱われない自分が、なぜ日本のために戦争に行って命を捨てなくてはならんのか」。結果は丙種不合格。

 召集令状が来てから徴兵検査に行く?? 徴兵は、「徴兵検査」して合格者の中から選んで「召集令状」を発するものです。 しかし徴兵検査もしていないのに先ず召集令状が来た!! これも超ビックリですね。 こんなフェイクを載せることを決めた編集者の歴史常識も疑わしいですねえ。

 ところで朝鮮人への徴兵は1944年から始まります。 徴兵検査は本籍地でするものですから、父の外石さんは故郷の全羅北道の南原に行ったものと考えられます。 そこで徴兵逃れのために醤油2合を「がぶ飲み」したとあります。

 当時の徴兵逃れは重罪ですから、そんなことはさせまいと軍当局も取り締まっていました。 「醤油がぶ飲み」という方法も当然ながら当局は知っていましたから、そんなことを本当にしていたら直ぐに判明したと思うのですが‥‥。 それに醤油を2合も飲んだら、急性高血圧となって脳や心臓、腎臓、動脈等に大きな障害が起きるはずですが、その後の彼の生活ぶりは健康そのものという感じですねえ。

 また「丙種不合格」とありますが、「丙種」は軍隊の現役には適さないが国民兵役には就けるというものです。 ですから「丙種不合格」というのは、ないはずだと思います。 不合格は「丁種」以下だったと思うのですが。

 それに外石さんが徴兵検査を受けた1944年は戦局が悪化していた時代で、丙種でも召集され始めていました。 ですから、ますます「丙種不合格」に疑問を抱くのです。  

滋賀の航空隊に入隊した外徳さんは、特攻隊志願者名簿に署名をする。だが、「九州方面に向かう」と告げられた列車の中で、終戦を迎えた。家族は喜んだが、本人は悔やみ続けていたという。戦後も、軍人であったことを誇りに日本名で暮らし、九州で戦後復興の土木事業に携わった。

 これは叔父(父の弟)の外徳さんの話。 記事では父の外石さんと対比しながら話を進めています。 従って叔父が「日本名で暮らし」とあるのは、父は日本名ではなかったことになります。 当時、日本名のない在日は極めて珍しかったですから、ちょっと違和感があります。 

外石さんは戦後の混乱期、闇市場で稼ぎ生き抜いた。密出国して朝鮮半島へ「帰国」したことも。だが、母国は「在日」に冷たかった。再び宮崎に戻り‥‥

 これが事実なら、日本から密出国した時点で、日本の在留資格は失っています。 今となっては密出国したかどうか、そしてまた日本に密入国したかどうか、確認することはほとんど不可能でしょうが‥。 当時の国境管理がルーズだったことを示していますね。 ところで父の外石さんは朝鮮に帰国して、どこに行ったのかが気にかかります。

再び宮崎に戻り闇米を仕入れては神戸・長田に赴いて売り、その資金でゴム製の長靴や運動靴などの履物を仕入れては宮崎で売った。当局者には賄賂を贈り丸め込んだ。だが、ある時、密告され、ついえる。戦中にいじめられた顔見知りの元特高警察だった。「分けてほしい」と懇願された靴を渡さず、恨まれていた。

 父の外石さんの戦後です。 ここで引っかかったのは「顔見知りの元特高警察」という部分です。 特高警察は思想犯や政治犯を取り締まるところですから、そんな人と「顔見知り」というところに、へー!と驚きました。 しかし外石さんは特高にいじめられても捜査対象にはなっていなかったようです。 すると特高の協力者だったということなのだろうか、と勝手ながら想像しました。

毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142

コメント

_ 辻本 ― 2020/08/19 19:20

 在日のお年寄りの話には、時々とんでもない間違いが入り込むことが多いです。  8年前の拙ブログに、偶然知り合った在日のお年寄りの話が読売新聞になったことを書きましたが、これを思い出しました。   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/09/28/6586324

 その話によると、1943年に徴用された父親に従って3歳の時に来日したとあります。 しかし徴用は戦時動員ですから、幼子を連れてくるなんて、あり得ません。

 それに徴用令が朝鮮で適用されたのは1944年ですから、これも年代的に合いません。

 おそらくは、戦前・戦中に来日した朝鮮人はすべて「徴用」だと表現するようになった戦後の間違い知識を、そのまま過去の歴史に当てはめたものと考えられます。

_ 曺 弘 利 ― 2020/09/08 13:16

私の父の徴兵検査にびっくりと
徴兵検査は本籍地で行うとのことですが、あなたはこの記事をしっかりと読んでいないようですね。
大正11年に日本に生まれた在日2世です、あなたの本籍と言うのは韓国の全羅道のことですか、一旦徴兵検査に韓国に戻って受けたのでしょうか、当時の在日は。ご質問します。

_ 辻本 ― 2020/09/08 13:56

 かつての日本の徴兵制度では、徴兵検査の通知は本籍地の役所が行ないます。
 従って父親様の徴兵通知は、本籍地の全羅道南原の役場(おそらく面事務所)が出したはずです。
 そして一般的に当時の徴兵検査は、本籍地で行なうものでした。 ただし例外があるのかも知れません。 それは未確認です。

_ 辻本 ― 2020/09/08 14:53

>大正11年に日本に生まれた在日2世です、あなたの本籍と言うのは韓国の全羅道のことですか

 当時、朝鮮戸籍は日本への転籍は禁じられていました。 従って、父親様の本籍は朝鮮の全羅道南原にあると考えられます。

 もし日本に本籍があるとしたら、婚姻や養子等により日本人の戸籍に入籍することだけでした。

 しかし祖父様も父親様も、そんな身分行為をした形跡がありません。 だから曺さんご自身は日本籍ではなく「朝鮮籍(あるいは韓国籍)」でしょう。

 日本に引っ越しして何年経とうが、また2世になっていようが、本籍の日本への移動はできません。

_ 曺弘利 ― 2020/09/10 10:24

あなたが言う徴兵検査を本籍地で受けるというのは
間違いですね、当時、日本にいた在日朝鮮人が徴兵検査を朝鮮の本籍地に行って受けたなど聞いたこともないし
事実すらありません。知っての通リ亡くなった6500名余の特攻隊員の一割に朝鮮人がいました。ほとんどの隊員が日本で徴用されたり、志願したり、私の叔父もその一人、1944年11月に滋賀航空隊入隊と写真の裏に書いていました。本籍地に行って、志願したのではありませんし、徴兵検査など受けていません。そのあたりいかがなものかと思います。

_ 辻本 ― 2020/09/10 14:49

 そうですか。ちょっと調べてみます。

 ところで植民地化朝鮮には日本人が75万人ほどが居住しており、彼らは当初より徴兵対象でした。 彼ら(相当年齢の男性)は本籍地に帰って徴兵検査を受けています。 私の見る限り、朝鮮での居住地で徴兵検査を受けたというのが出てきません。 ひょっとしたら例外があるかも知れませんねえ。
 ここから類推して、在日朝鮮人の徴兵検査は、あるとしたら本籍地だと考えました。

 なお朝鮮人への徴兵令は1944年に施行されましたが、徴兵検査実施はもう少し後になります。 召集はさらにもっと後になります。

 日本在住の朝鮮人に対する徴兵が実際に行なわれたのかどうか(徴兵検査が実施されたのかどうか)、ここがもう一つ分からないところです。 私も在日朝鮮一世たちから戦争中の話を聞いていますが、徴兵検査を受けたというのは全くといっていいほどありませんでした。

 ひょっとしたら徴兵検査実施前に終戦になったのではないかと考えています。 徴兵令翌年の1945年4月以降は関釜連絡船の大半が途絶しており、たとえ徴兵検査の案内通知を本籍地の役場が出したとしても、本人には届かなかったのではないかと思われるからです。

 それ以前の朝鮮人兵はすべて志願兵です。 朝鮮人特攻隊員も、おそらく全て志願兵だと思われます。
 しかし今問題にしているのは徴兵の方であって、志願の方ではありません。 志願者に「徴兵検査」はあり得ません。

 叔父様は志願者であって、徴兵されたのではないと考えられます。

_ 辻本 ― 2020/09/10 16:12

 父親様が徴兵検査を受けたというのは、本当でしたら極めて珍しい例になります。 徴兵検査を受けるにあたっての書類等(徴兵検査案内通知、検査結果など)の資料が残っていましたら、貴重な資料ですので、お探しになることをお勧めします。

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