毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(3)2020/08/21

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/17/9279364 の続きです。

朝鮮戦争のさなかに生まれた曺さんは、国鉄(当時)神戸線のコンクリート壁を使ってバラックを組んだ長屋で13歳まで暮らした。25人以上が一つの共同便所を使い、曺さん一家6人は6畳一間。雨の日には、滝のような水が壁を伝った。  やがて強制立ち退きにあい、一家は再び路頭に迷う。ようやく借家が見つかった日のことを曺さんはよく覚えている。

 曺弘利さんは今67歳で、「朝鮮戦争のさなかに生まれた」とありますので、1953年7月27日以前の生まれと判明します。 国鉄高架下を不法占拠して作った家で暮らしていたようです。 当然、強制退去の対象です。 それは13歳の時ですから、1966年のことになります。

 ここで疑問は、強制退去から次の家が見つかるまで「一家は再び路頭に迷う」とあるところです。 私も多くの在日から、国有地等の不法占拠で暮らしていて結局は強制退去になった話はよく聞いたものでした。  しかし一家が「路頭に迷う」、つまりホームレスになったという話はありませんでした。 ですからこの部分には大きな違和感を持ちました。 たとえヤクザであっても、子供のいる家族を強制退去させて路頭に迷わせることはなかったと思うのですがねえ。

79年、曺さんは妻となる韓国人女性と出会った。結婚しようと思ったが、戸籍がなかった。「日本で出生届が出されていなかったし、あるのは外国人登録証だけ。当時、韓国に、籍がはっきりしないと結婚できない不文律みたいなものがありました」。曺さんは祖父の田舎の役所に手紙を書いて訪ねることに。「だけど、パンチョッパリ(半日本人)の朝鮮籍。3・1独立運動記念の時期に、臨時パスポートで行ったもんだから、最初はやっかい者扱いされましてね」

 曺さんは1979年に臨時パスポートで韓国に行ったとありますから「朝鮮籍」であったのは確かであり、朝鮮総連系だったと推定できます。 韓国女性と結婚するにあたって「韓国に、籍がはっきりしないと結婚できない不文律みたいなものがありました」とありますが、これは違うでしょう。 朴正煕政権時代は朝鮮総連への警戒心がすさまじかったですから、韓国人がこういう在日と結婚するとなると、‘韓国籍に変えて戸籍を作り、総連と縁を切れ’と要求するのが当然でした。

ルーツ探しはらちが明かず、結婚をあきらめ、駅までの道のりをとぼとぼ歩いている時だった。日本語を話せる役人が自転車に乗って猛スピードで追いかけてきた。「ありましたよ。曺秉元さんは確かにここで生まれ、暮らしていました。登録時、役所側に字体の書き間違えがあったんですよ」。遠い親族らが集まり、「『いつ子孫が来るのだろうか』と、よく話していたんだよ」と歓迎してくれた。「気持ちがスカッとしました」

 曺さんが1979年に韓国に行ったのは、ルーツ探しだったのですねえ。 その時に「遠い親族らが集まり、『‘いつ子孫が来るのだろうか’と、よく話していたんだよ』と歓迎してくれた」とありますから、曺さん一家は故郷の親族とはそれまで連絡がなかったと推定されます。

 しかしこれまでの話を総合すると、父の外石さんは1944年の徴兵検査で故郷(本籍地)に行っているはずです。 この時に親族の人たちと会わなかったのでしょうか? また彼は1940年代後半の戦後混乱期に日本から韓国へ密出国しています。 その時に故郷に行かなかったのだろうか?という疑問も抱きます。

曺さんはしみじみと言う。「おやじと叔父さんが重なって見える時があるんです。お互いの胸の内もわかるが故に、相反するんでしょう。歴史を覆すことはできないでしょうが、共に歩んでいかなきゃならない。そう教えてくれたのが自然災害です。みな同じ被災者になります。日本人も韓国人も在日も関係ありませんからね」

 記事の最後は曺さんの言葉で終わりますが、いい言葉ですねえ。 記事の中で一番共感するところです。

 ところで今回の記事は、曺さんが祖父や父から聞いた話の記憶を元に書かれたようです。 記憶にはある程度の錯誤・誤解があるものですし、曖昧・誇張が多くなるものも仕方ないところです。 また後付けの知識で過去を語る場合も多々あります。 ですから、もしこれを記録に留めようとするならば、当時の社会状況をよく知った上で個々の細かい部分を確認しながらすべきものです。

 しかし毎日の高尾記者はそれをしなかったようです。 記者なら当然やるべき歴史事実の確認という基礎的作業を怠ったのではないか、そのために本人の語りに引きずられてしまい、ウソとすぐに分かるような話までも書いてしまったのではないか、という疑問を抱くものでした。

毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(1)  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/13/9278142

毎日新聞「在日3世代100年の歴史」への違和感(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/08/17/9279364

コメント

_ 曺弘利 ― 2020/09/08 11:17

神戸市長田区日吉町4丁目76番地
当時の国鉄山陽本線の新長田、鷹取駅間の間に鉄道高架壁に廃材を用いたバラック建て住居に私は住んでいました。
いわゆる朝鮮人部落です。むろん、用地の所有者は国鉄と一部神戸市の所有地に不法占拠で建てたものです。あなたが言う、子供のいるところなどは市が旧宅をあっせんし、路頭に迷うことはなかったと言われていますが、その当時のことを体験したのはあなたではなく、私です。市が半年前あたりから、それぞれが自主的にバラックを解体し、退去せよとの貼り紙で通告しに来ます。それでも通告に従わない場合は、市が来て強制排除にのりだし、その費用はのちに住人に請求するといったことでした。あなたの言うように、そんなことはありえないいきるのでしたら、神戸市に問い合わせてみてください。先日、図書館に行けばこの集落が記載されていた住宅地図を見つけました。よければ差し上げましょう。見てもしないことを、言い切るのはやめませんか。

_ 辻本 ― 2020/09/08 14:00

 あなたを含めて、ご家族はホームレスにならなかったということでしょう。 「路頭に迷った」ではなく、「路頭に迷いそうになった」が正解ではありませんか。

_ 辻本 ― 2020/09/08 14:31

 長田区のご出身のようですね。 25年ほど前に隣の兵庫区に住んでおられた在日一世のおばあさんから、「砧」の道具をいただいたことがあります。 在日朝鮮人の民俗資料として貴重なものです。

 私が個人で所蔵するには勿体なく、いずれゴミになるだけですから、長田にある「神戸コリア教育文化センター」に数年前に寄贈しました。 「辻本寄贈」ということで受け入れられました。 もしこのセンターに行くことがございましたら、「砧(다듬이) 」をご覧いただければ幸い。

_ (未記入) ― 2020/09/09 11:21

辻本寄贈なるもの神戸コリア文化センターに問い合わせました。確かに、10年前ごろかにツジモトタケシなる大阪在住の方から寄贈を受けたとのことでした。まんざら、あなたの言うことは嘘ではなかったようです。また、貴殿のブログの中には私の友人である人物、組織も登場します。かなり在日のことをよく知っておられるようですが、しかしながら、自分の視点の尺度でもって、一つでも言葉、表現などが食い違えば、歪曲、捏造などと決めつける内容なるものを探しあて、ある意味の非難して行くという、ネトウヨの独特の手法を取っているようにも思えます。それは表現の自由で結構なことですが、ここでご意見をいただきたいのですが、我々は関東大震災で当時朝鮮人が虐殺されたということを教わってきましたがあなたは、それが事実だったか、捏造であったかどう思われますか、また、当時の新愛知の新聞号外のなかで「不逞鮮人一千名と戦闘開始、歩兵一個小隊全滅か」との号外記事をネットで見つけましたが、あなたはどう思われますか、ご質問いたします。

_ 曺弘利 ― 2020/09/09 11:57

砧について「私が所蔵するには勿体なく、いずれゴミになるでしょう」。とあります。そこで在日朝鮮人の貴重な民族資料として、なぜあなたが在日1世のばあさんがあなたに上げようとしたのか、そして、いずれゴミになるなるだけのものをなぜあなたが受け取ったのか、疑問ですね、廃品回収でもやっておられたのですか。

_ 辻本 ― 2020/09/09 16:02

>貴殿のブログの中には私の友人である人物、組織も登場します

 黄光男さんのことじゃないですか。 彼は以前に神戸で講演したような話を聞いたことがあります。

>我々は関東大震災で当時朝鮮人が虐殺されたということを教わってきましたがあなたは、それが事実だったか、捏造であったかどう思われますか、また、当時の新愛知の新聞号外のなかで「不逞鮮人一千名と戦闘開始、歩兵一個小隊全滅か」との号外記事をネットで見つけましたが、あなたはどう思われますか、ご質問いたします。

 関東大震災で朝鮮人を殺害したとして、裁判で起訴された日本人は367人、その時殺害された被害者の朝鮮人の数は233人です。 これは日本政府の公式記録です。 

 これは立件し裁判になった人数だけですから、実際はもっと多かったことは確実です。 

 犯罪内容には「棍棒又は割木にて乱打し殺害す」「竹槍又は手製の槍を以て刺殺す」などが列挙されており、虐殺と言うしかないものです。

>在日1世のばあさんがあなたに上げようとしたのか

 歴史資料収集の一環として、ゴミに出される寸前に頂きました。

>いずれゴミになるなるだけのものをなぜあなたが受け取ったのか、疑問ですね、廃品回収でもやっておられたのですか。

 1990年代までは、このおばあさんだけでなく、在日朝鮮人社会では砧はゴミとして廃棄されてきました。 私が収集して発表したのが最初だと思います。

 そのせいでしょうか、その後朝鮮学校では家に砧が残っていないか、生徒らに聞いて回ったという話を聞いたことがあります。 砧を在日朝鮮人の民俗資料として貴重だと最初に言ったのは私だと、勝手に自画自賛しています。

 こういう資料は個人蔵のままにしておくと、相続する者がいなければゴミとして廃棄されるものです。 貴重な資料と考えて寄贈先を探していましたねえ。

>自分の視点の尺度でもって、一つでも言葉、表現などが食い違えば、歪曲、捏造などと決めつける内容なるものを探しあて、ある意味の非難して行くという、ネトウヨの独特の手法を取っているようにも思えます

 誰でも自分の尺度で、社会や周辺人物を評価するものです。 だから様々な人と議論しながら、「自分の尺度」を検証していくものと考えています。

 あなた自身もご自分の尺度で、私を「ネトウヨの独特の手法を取っているよう」だと評価しておられますねえ。

 私のHP・ブログは右からも左からも激しい批判を受けました。 しかし今はどちらからも無視されて注目する人はいなくなりました。 まあ私はそんな人間です。

_ 辻本 ― 2020/09/09 16:11

>その後朝鮮学校では家に砧が残っていないか、生徒らに聞いて回ったという話を聞いたことがあります

と書きましたが、2000年代初めごろに神戸の朝鮮学校出身者から、学校から家に砧があるのかどうか聞けという通知が来たという話を聞きました。 その年代を尋ねると、私が砧について発表した直後の頃だったので、私の発表の影響かなと推測しました。

_ 辻本 ― 2020/09/09 18:13

>我々は関東大震災で当時朝鮮人が虐殺されたということを教わってきましたが‥‥あなたはどう思われますか、ご質問いたします。

 これは最初から自分の答えを用意しておいて、相手方に質問し、自分の用意するものに沿った答えをするかどうかを試そうとするものですねえ。

 ネットウヨクさんが、ネット上でやる手口と同じですね。 この辺りは、右も左も同じ、同じ穴のムジナだと思います。

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック