金達寿の思い出―祖母の反日話2023/03/15

 在日朝鮮人小説家であり古代史研究家であった金達寿。 彼は日本において韓国や朝鮮に関心が非常に薄かった1958年に岩波新書から『朝鮮―民族・歴史・文化―』を刊行しました。 これが1970年代初めまでの日本における韓国・朝鮮の唯一と言っていい入門書でした。 また1970年代から『日本の中の朝鮮文化』というシリーズものの古代史本も出していました。 在日朝鮮人として超有名人だったのですが、25年前に亡くなっておられます。 今の若い人では知らない方が多いでしょうねえ。 関心のある方は検索してください。 

 彼には自叙伝として中公新書『わがアリランの歌』(昭和52年6月)があります。 ところで、そこには載っていない思い出話を見つけましたので紹介します。 『朝鮮研究 月報 第7・8月合併号』(1962年8月 日本朝鮮研究所)にあったものです。

私自身のことをお話しますと、私は1930年に満10才で日本に来たのですが、その数年前に両親や兄弟は日本に来ていて、僕とおばあさんと2人だけ故郷に残って日本からの仕送りで暮らしていた。 その間7~8才の頃ですが、色々聞かされたおばあさんの話に忘れられないものが多いんです。 その中で日本人についての話は、甚だ面白くないでしょうが、日本人は「夷狄」であるという考え方です。 無知なおばあさんですが、小中華意識から「倭人」を見ているんです。 日本人のことをみな「ワエノム」(倭奴)と呼んでいました。 その「ワエノム」に国を盗まれて‥‥というわけです。

日本人は飯を皿に盛って箸で食う野蛮な連中だという話がありました。 これは、数時間もっておいても暖かい鍮器の器で、匙を使うのが原則、箸はおかずをつまむものと考えている朝鮮人の感覚からいうと、まずいことです。 それには、昔、日本人が朝鮮人に「我々もあなた方のように白い飯を食おうと思うが、どんな器を使いましょう」とお伺いをたててきたので、お前らのようなつまらん奴は皿ででも食ったらよかろうと言ってやった、それでそうなったのだというような説明がありました。 もっとも皿というので私は小皿を想像していたのですが、日本に来てみると茶碗のことだったが。

それからまた、何か被りたいがとも聞いてきたので、ポスム(靴下)でも被れと教えてやったら喜んで被っているというのもあった。 烏帽子のことですが、なるほど形が似ています。 このような話は壬辰の役(秀吉の朝鮮出兵)などの時に愛国心を高揚するためにもできたのでしょうが、とにかく庶民の意識の中にそういうものがあって、その話を子供に語りきかせるので、自然にそういうイメージができていく。

そして近所の子供同士でも日本人は人食い人種だぞと言い合うわけです。 僕の村のそばの中里という駅の前に日本人のお菓子屋さんが一軒だけありましたが、「あそこの日本人は生首を塩漬けにして部屋の中においている。日本人はそういうことを平気な野蛮な人間だ」ということで、朝鮮人の村の子がそのお菓子屋に入って食べることはありませんでした。(以上 2~3頁)

 朝鮮人が日本人に対して有する侮蔑的意識は、へき地農村といえるような所でも口伝で代々受け継がれてきたようです。 紹介した話は100年も昔の1920年代植民地時代に金達寿がお年寄りから聞かされたものですが、そのなかにある日本への侮蔑的意識が現在の韓国・北朝鮮での反日に繋がっていると言えるのかも知れません。 ですから朝鮮半島の現在の反日は古来から受け継がれてきたものであり、解放後はそれぞれの政府で増幅されたと考えられるでしょう。

これ(日本に対する侮蔑)は、日本を小中華意識のメガネでみていたということですが、日本は(朝鮮人の)封建的儒教意識・慣習を支配の手段として温存しなければならなかったため、同時に皮肉にも夷狄意識も温存されたわけです。

 日本は朝鮮を植民地支配した時、統治をスムーズにするために朝鮮人の旧来の「封建的儒教意識・慣習」を支配の手段として利用した、だから日本人を侮蔑する「夷狄意識」が温存されたというが金達寿の考え方ですね。

 ここは何とも言えないところです。 日本は「封建的儒教意識・慣習」を利用したのではなく放置した、と私は考えるのですが、どうでしょうか。

私はその後日本で学校を出て、1940年代になってから京城に就職していったわけですが(小・中学校教育から日本で受けて卒業してから京城へ行くというのは、普通とは逆のコースでした)、驚いたのは京城の町では、農村と違って瓦屋根と高い厳重な塀で内部をうかがい知れない建築構造になっていることです。 これを、一緒に下宿していた金鐘漢という詩人は徹頭徹尾「ドロボウ」を防ぐためと主張していましたが、ともかく、外へ出て役所に行く時などは日本人とも話をするが、塀の中では他者をよせつけず、李朝時代のまま生活を続けていました。

 「瓦屋根と高い厳重な塀で内部をうかがい知れない建築」というのは朝鮮人のお金持ちの家のことで、おそらく京城に住む不在地主でしょう。 その金満家では、古くからの伝統をそのまま受け継いだ家庭が営まれていたのでした。 戦後(韓国では光復後)、韓国でも日本同様に農地解放が施行されましたので、不在地主は消滅しました。 「不在地主」なんて、今はもう死語ですね。

ところで、みなさんは朝鮮人というと在日朝鮮人によってイメージをもたれると思いますが、在日朝鮮人について考えねばならないことは、玄界灘を裸一貫で渡ってきた連中は、多くは農民だが、故郷を出るとき、恥や外聞というか小中華意識・東方礼儀の国の国民という意識を故郷にあずけて日本に来たということです。 

日本で働いてもうけたら早く故郷に帰り、取られた田畑を買い戻すという考え方が殆どでした。 2世、3世などの場合はともかく、少なくとも1世の我々世代の親達の世代の場合は。 だから意識も非常にプライドがあり、閉鎖されたものがあって、朝鮮の農民の意識とそう変わりがないと言えます。

 金達寿によれば、朝鮮人農民は植民地時代に日本に出稼ぎに来て「小中華意識・東方礼儀の国の国民という意識」から一旦は離れるのですが、やはりいつかは故郷に帰ると考えていたので、その意識は変わらなかったということです。

基本的な朝鮮人の意識は統治期間を通じて変わらなかったと言えます。 逆説的に言えば、日本がもっと近代的な仕方で統治したら民族意識を減殺されたのではなかろうかとも言えます。(以上 3頁)

 日本は植民地統治のなかで朝鮮の古くから牢固としてある民族意識を変えられなかった、しかし近代的な統治をしていたらそういう民族意識は減殺されただろう、というのは金達寿の見解ですが、どうなんでしょうねえ。 私は近代的な統治をしても、民族意識というものはなかなか変わるものではないと考えているのですが。

【拙稿参照】

金達寿さんの父が渡日した理由      http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2006/12/24/1044999

金達寿の「族譜」       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2010/10/08/5392903

伝統的朝鮮社会の様相(2)―両班階級 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/09/05/9149522

古田博司 『醜いが、目をそらすな、隣国・韓国!』(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2014/03/21/7250136

「韓」という国号について(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/05/14/7633517