壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2)2024/07/05

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684 の続きです。

https://www.youtube.com/watch?v=XlKtYk_nQR0&t=18s

職業選択権がなかった陶工たち (4:18)

それでは、この陶工たちはどのようになったでしょうか? 磁器製作は技術を学ぶのに時間が多くかかります。 また安定的な磁器供給のためには、官窯に適正人員が常に必要だったでしょう。 だから官窯で陶器を作る陶工たち、沙器匠は世襲職になります。 1542年に編纂された法令集があります。 『大典後続録』という法令集ですが、これを見ると沙器匠はその業を代々に世襲すると規定されています。 また先ほど申し上げた『経国大典』には、王室磁器管理機関である司甕院、「司甕院」といいます、この司甕院所属の沙器匠の人員を380人に規定しました。 定員が380人で、これを維持しろという意味ですね。 最初は全国の沙器匠1140人を3年単位で選び出して交代させました。 

ところでこれは粛宗の時に、最初から官窯の周辺に村を作って暮らす専属職人たちで官窯を運営しました。 どういうことかと言いますと、職業選択の自由、居住地移転の自由が剥奪された世襲職人だったという意味です。 この人たちは窯を焼く木を探して 京畿道広州のなかを移動し続けて窯を築き、陶器を作りました。 320基を越えました。 今発掘調査されたものだけです。 この広州内の窯周辺には、沙器匠たちとその家族で大きな村を成しました。

 文禄・慶長の役以前の15世紀の朝鮮では、陶磁器の公的生産機関として官窯が整えられました。 なお後述しますが、慶長の役の際、日本軍はこの官窯がある広州には至っていません。 ということは広州官窯の陶工は、日本に連行されなかったのでした。

飢え死にした陶工たち (5:47)

ところが1697年のある春の日、その広州で陶工39人が一度に飢え死んだのです。 どうしてそうなったのでしょうか? 陶工はその職業が賤しい工人です。 身分は賤民であったり、平民であっても賤民扱いを受ける「身良役賤」の人たちが大部分でした。 彼らは陶器を焼くという業務以外には、何の仕事もしてはならないのでした。 1697年、広州の官窯から中央政府に送った報告書には、このように書かれています。 「彼らは農業や商業で生計を立てる道がなく、昨年は私的に陶器を焼くこともできず、みんな飢えるようになりました。」 一人二人でもなく、40人にもなる専門職業人が一度に飢え死んだのです。 飢え死にした者は39人であり、力尽きて動けない者が63人です。 家族がちりぢりになった家が24戸出ました。 残った人たちも、陶器を作れない境遇だったといいます。

 李朝時代、朝鮮では陶工は身分が「賤民」であったことは覚えておかねばならないことです。 「조선팔천(朝鮮八賤)」に「공장(工匠)」があって、これに当たるのではないかと思います。 汗水流して働く肉体労働者は、奴婢なんかと同じ賤民階級だったのです。

官窯から逃亡した者はむち打ち百回、そして懲役3年の刑に処罰されるという、そんな規定もあります。 それくらいに辛かったために逃亡した人がいて、そのために逃亡した人を処罰する規定まであったくらいに辛かったという話です。 朝鮮政府は守ることのできない法で、耐えることのできない義務を、国家の需要のために強制していたのです。

この報告書に、こんな話が出てきます。 「사번」私的に陶器を焼くことができなかったという件が出てきます。 個人用途で陶器を焼いてはならない。 つまり官窯にある器物と装備を使って、私的に陶器を焼いて売って自分の生計維持をしてはならない、ということです。 国家の財産と施設で個人の利得を手に入れた犯罪行為、犯罪だとして処罰する、としていたのです。 しかしながら、こんな状況で「사번」個人用途で器を焼くことは公公然に行なわれ、黙認された慣行となっていました。 なぜなら農業もできないようにして、農作業も商売もできないようにするのですから、そこにある装備、遊休装備を利用して私的利得、営利行為をすることを黙認してきたのです。 ところがこれを公式的にちゃんと禁止し始めたのでした。 

 「사번」が何なのか分かりません。 普通は「四番」となるのですが、それでは意味が通らないようです。 煩わしいという意味の「事煩」もありますが、これも意味が通りません。 分からないので、そのままハングルで表しました。

禁止された営利行為、技術の失踪 (8:26)

集団餓死が起きて57年が過ぎます。 1754年7月17日、当時の国王英祖がまたこのように宣言します。 竜が描かれた王室用の陶磁器の他に青花白磁生産を禁じると命じます。 この価格の高い回回青顔料が奢侈の風潮を助長するという、そんな理由でした。 よくご存じのように、英祖は潔癖症と言われるくらいに質素でした。 本人だけ質素でしたらよかったのですが、社会全体にこの質素を強要したのです。

英祖はまた次のように話します。 「技巧と奢侈の弊害を防ぎ、職人たちの仕事を減らす、装飾のついた扇の製作を禁止する」と。 社会内でお金が回り、生産活動を維持しようとするなら、高級製品も作られねばなりません。 ところが英祖は最初からすべてのものを禁止する方向に、国家経済を主導していったのです。

 これは日本では質素倹約を旨として贅沢禁止を命じた〝寛政の改革″と同じようなものなんでしょうねえ。 高級品を作らなくなったら、生産技術は低下するということです。なお英祖がこのような贅沢禁止令を出したというのは、ちょっと調べてみましたが、分からなかったです。

英祖に続く正祖も、政策は似たものでした。 在位15年目の1791年9月24日、正祖はこのように命じます。 「怪異な陶器を秘密裏に作った者は処罰せよ」。 そして4年後に正祖はまた次のような命を下します。 耐熱製品、「匣鉢」と言います、「匣鉢を蓋にして塵や破損を防ぐ高級磁器の製作を禁じる」。このように蓋をかぶせて使う陶器を作る行為を「匣燔」と言います、こう言えば、もう少し高級な製品が連想されるのでしょう。 そしてこれを禁止したのです。

 「匣鉢」「匣燔」なんて全く知らなかった単語です。 本文で説明してくれているので、意味は分かります。 韓国でも一般人は知らない専門用語なのでしょうねえ。 次からは「匣鉢」を「蓋付き高級磁器」、「匣燔」を「高級磁器製作」と訳します。

そして正祖がこの官窯に人を送りました。 この官窯に御史(地方行政を監視する官吏)を派遣して状況がどうなのか調べて来いと言ったのです。 そうしたら御史は戻って来て高級磁器製作を許容すべきだ、高級製品を作ることができるからと報告します。 そうしたら、この御史を「とんでもない」として義禁府(大罪人の取り調べを行なう官庁)に引き渡して取り調べをさせます。 高級磁器製作を禁じ、御史監察を指示した理由はこうです。 「陶器の浪費は奢侈風潮の一面である、高級磁器製作を禁止すれば沙器匠たちは利得できないとは、これより怪しいことがあるだろうか?」

すでに7ヵ月も前に高級磁器製作禁止問題が案件に上っていました。 御前会議で、です。 朝廷ではこのような合意がなされていました。 どういう合意かといえば、「以前にもそれなりに生計を立てていたはずなのに、困っているとは敢えて言えないのではないか。」 だからどのように生計を立てていようがいまいが知らないし、ともかく高級磁器製作することを禁止するというのです。

 「御史」とは暗行御史のことで、地方行政を監視するために秘密に派遣した国王直属の官吏です。 韓国ドラマの時代劇に時おり出てきますね。 

 高級磁器を生産しなくなったということは、そんな技術がなくてもできるキムチ甕などの日常雑器ばかりを生産したということです。 ただし官窯ですから、納入先は朝廷に限られます。

もっと本質的な理由がありました。 技術者だけに差別的に適用されるという、偽善的な倫理と法です。 「사번を許容すれば貴賤の区別がなくなり、法秩序が確立しない。」 사번を許容すれば、その者たちは金儲けをするようになる、そうなれば貴賤の身分区別がなくなり法が確立しない、というのです。 これが正に国王の正祖も言だったのです。 賤しい沙器匠が利益を得れば規律が守れない‥‥そんな社会のなかで、先端窯業技術者が飢え死にしていったのです。 技術者が死ねば、技術も一緒に死にます。 (続く)

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