李朝時代の婢には名前がある2016/03/19

 以前に「李朝時代の女性に名前はなかったか」と題するブログについて誤解される人がいました。 よく読んで頂ければ分かると思いますが、当時の西洋人が「朝鮮の女性には名前がない」と報告しており、それは個人のアイデンティティを表わすものとしての名前はなかったということです。 いつの時代でも本人を特定する必要がある時に何らかの名称があるものですが、李朝時代の女性は父系家族の関係性でもって本人特定されていたのでした。 つまり個々の女性に付けられる名前というものがなかったのです。

 ところが実は李朝時代には、個人の名前を持つ女性たちがいました。 それは妓生や婢です。 どちらも最下層の賤民の身分です。 「婢」というのは奴婢身分のことで、男性が「奴」、女性が「婢」となります。 朝鮮の女性賤民には他にも巫堂などがあり、この人たちも名前があった可能性があります。 今回はこの「婢」の名前について書きます。

 李朝時代の女性には名前がないとされているのに、なぜ女性賤民の「婢」には名前があるのか? という問題です。

 答は簡単です。 婢には名前を付ける必要があったからです。 まず奴婢は両班の財産であって、売買・相続・贈答されるものであることに注意しなければなりません。 そして奴婢には両班のような父系血縁集団である門中とか宗族がなかったのですから、父系血縁を表わす「姓」というものを持っていませんでした。 現代の韓国では全ての人がこの父系血縁を示す「姓」を有していますが、これとは違う世界が李朝時代の奴婢にあったのです。

 次に李朝時代の奴婢には「一賤則賤」と「従母法」の原則がありました。 「一賤則賤」というのは奴婢から生まれた子供はすべて奴婢であるということです。 そして「従母法」というのは、婢の所有者である両班はその婢から生まれた子供も自分の所有になるということです。 だから婢が子供を生むというのは、その両班にとって財産が増えることを意味します。

 両班は、たとえば財産相続する時などでは奴婢が自分の所有財産であること証明した上で相続することになります。 その時、奴婢の母親の名前が必要になるのです。 宮嶋博史『両班』(中公新書 1995年8月)から、その一例を紹介します。

この分財記では、相続される奴または婢のひとりひとりについて、次のような内容が記されている。「婢夫叱徳壱所生奴長命年参拾陸乙亥」。この場合、長命というのが相続される奴の名であり、彼は夫叱徳という婢の一人目の子供で乙亥年の生まれ、年齢は36歳である。奴と婢の別、名、だれの子供であるという出生関係、生年、年齢などの情報が記されている。出生関係は、相続される奴または婢の母親の名で示される ‥‥奴婢の出生関係を示すのに母親である婢の名前を記すことが多いのは、「従母法」によるものであって、母である婢の所有主は、その婢の生んだ子供の所有主となる。(61~62頁)

 両班は奴婢が自分の所有物であることを証明するためには、その母親も自分の婢であることを証明せねばなりません。 しかし婢には父系血縁集団がありませんから、一般の朝鮮人女性のように「○○の娘」「○○の妻」というような名付け方が出来ません。 だから婢は女性であっても個々の名前を付けることになるのです。 この資料では婢の名前として「夫叱徳」が出てきます。 

 以上をまとめますと、李朝時代の両班などの女性は所属する父系血縁集団の関係性で名付けられていて個人を表わす名前というものはなかったが、これはこれで当時は本人を特定できた。 一方最下層である婢は従母法により本人特定が必要となるが、婢には父系血縁集団がないので個々人に名前を付けるしかなかった。

 別に言うと、李朝時代の女性は一般的に父系血縁関係に所属することに存在意義があって個々の名前がなくてもよかったが、父系血縁のない婢には個々の名前が必要だった、ということです。

 李朝時代の女性は厳しい女性差別の故に名前がないのが普通であったが、最下層の婢は女性差別だけでなく過酷な身分差別も加わっていたが故に名前があった、というのが結論です。

【関連拙稿―朝鮮人女性の名前】

李朝時代に女性は名前がなかったのか http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/02/29/8033782

名前を忌避する韓国の女性   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/03/10/8043916

【参考拙稿―朝鮮人の名前】

支配者側の名前をつける性向    http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/02/07/1170029

韓国人の名前 行列字       http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2007/06/30/1615438