支配者側の名前をつける性向2007/02/07

 ちょっと昔の朝鮮史の本には、時どき面白い記述が出てきます。

>蒙古の影響は‥‥数多くの高麗貴族が自分の名として、朝鮮名以外に蒙古式人名をつかった。そのあまりの熱心さに、さすがのフビライ汗も疑いを抱いたにちがいない。ともあれ、一二七八年かれは高麗王に、“なぜ、なんじは自国の習俗を捨てるのか”とたずねたという。>   李玉著、金容権訳『朝鮮史』(白水社 1983) 75頁

 これが史実かどうか分かりませんが、朝鮮民族が支配者側の名前をつけようとする性向は、結構古くからあるということです。  創氏改名の理由の一つに、朝鮮人側が日本名を求めたから、というのがありましたが、これに関連して考えると興味深いものです。

コメント

_ マイマイ ― 2010/03/27 10:45

  支配者ということばには被支配者が存在し「抑圧」が多少ついてきます。支配者側の名前をつける現象があったとするなら、弱い立場として生きていくために「妥協」もしくは「相手側への同調」があったと考えたいです。いきなり「性向」と表現するには飛躍があるように感じられます。
  創氏改名については、このブログ論考や水野直樹著『創氏改名』などを読みながら再考しています。完全に把握するのは無理ですが、創氏改名は植民地行政を検証する際に考える問題で、戦後の在日の通称使用の過程を考証するときにはさほど関係がないと実感しています。在日が通称を「使わざるを得ない状況」もしくは「使ってしまう状況」と「創氏改名」は、どちらも名前に関することなので混同しているだけで基本的には別物だと思います。「創氏改名」はあくまでも総督府の朝鮮半島に住む朝鮮人に対する政策で、日本に住む朝鮮人はその余波を受けたに過ぎないのではないかと個人的には考えています。よって「創氏改名」を朝鮮人側が求めたという論にはまったく同意できません。
  戦中祖父は日本にいて「設定創氏」を求められたのですが、それまでに日常生活で認知されていた「朝鮮姓の日本語読み」を「氏」にできなくて、「日本人風の氏」を仕方なく創りました。息子の進学のために妥協した結果です。但し名前については1930年代には「姓」ほどのこだわりはなく、父は「○郎」「○夫」のような日本人風の名を学内で使っていたようです。但しこれも学校側からの指導もしくは助言があって受け入れたということで、祖父が求めたものではないと理解しています。
  さらに整理できたら、また書かせてもらいます。

_ 辻本 ― 2010/03/28 05:40

> 戦中祖父は日本にいて「設定創氏」を求められたのですが、それまでに日常生活で認知されていた「朝鮮姓の日本語読み」を「氏」にできなくて、「日本人風の氏」を仕方なく創りました。>

 このあたりの事実関係をもっと詳しくお教えくださいませんか。
 当時日本に居住した朝鮮人が設定創氏した割合は14.2%です。しかも故郷の宗族が、我が一族は○○と創氏すると決められたことに従った場合がほとんどだったと聞きます。
 祖父様はそうではなく、独自に(宗族とは関係なく)氏を創られたようですので、ちょっと珍しい事例だと思われます。
http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/dainanajuudai

_ マイマイ ― 2010/04/01 12:19

  父の戦前戦中の記憶を残すために晩年に積極的に聞き取ったのですが、残念ながら不明なところが多いです。間違っている箇所があれば、指摘していただきたいところです。
  日本での「創氏改名」の問題を考えるときには、2つのポイントを押さえておく必要を感じています
  一つは戦前戦中日本に居住した朝鮮人の戸籍はとてもあいまいなものだったということです。創氏改名の時点で朝鮮戸籍に記載されていたのは祖父(次男なので、婚姻後戸主になったと考えられます)と祖母と父のみで、日本生まれの弟や妹は記載されていなかったはずです。
  もう一つは故郷での生活破綻のために日本に居住した朝鮮人の家族は、異文化社会で必死に生きていく中で、「イエ」意識を持った生活態度を身につけ始めていたということです。あるいは一族意識と「イエ」意識を兼ね備えていたということです。
  氏の設定届の受付は1940年2月11日から8月10日までの6ヶ月ですが、その間の3月4月は当時も卒業入学シーズンです。15歳だった父の地元(大分県の農村部に近い町)の旧制の専門学校に進学する時期に重なっています。願書を出すときか試験合格後の入学手続きのときかははっきり聞いていないのですが、校長から「創氏改名」をしないと入学させないといわれたらしいです。校長は上からの「創氏改名」を推奨する通達に従ってそういう言動になったと思います。この時点で「創氏改名」を勧められたということは「日本人風の氏」を設定しなさいということだと思います。祖父一家は朝鮮姓の日本語読みで実質的にはもう「氏」のようにして暮らしていたと私には思えます。「あそこは朝鮮半島から来た○さんの家」という認知を受けていたので、あえて「日本人風の氏」にする状況は受け入れがたいものだったようです。儒教的文化背景の中で育った祖父は、「姓」へのこだわりが強く屈辱的なものだったと思います。しかし息子の入学条件を前にして妥協したようです。父はしばらくして「△本」という二字の日本人風の名前にしたことを祖父から聞かされたらしいです。中祖の偉人の名前にちなんで決めたと教えられたということですが、祖父が故郷の宗家と連絡をとりあって決めたかも知れないといってました。とにかく以降は自ら名乗るときも相手側から呼ばれるときも名前が変わってしまいます。このあたりの感覚は朝鮮半島にいた朝鮮人とも、氏が変わることにさほど抵抗がない日本人とも違いところだと思います。
  父は「わけがわからん」というようなニュアンスで「○さんでよかったんや」といってました。入学許可に関して「創氏」を強制された例をほかで読んだことがあります。
  もし父の進学が一年前後にずれていたら、おそらく「創氏改名」時期はそのまま何もせず通過していたと思われます。尋常小学校に在籍していた弟や妹もいたのですが、学内に在籍する子どもの親に強制できたのか疑問です。
  仮に故郷の宗家から「△本」と創氏したと連絡があったとしても、日本で創氏を強制されなければ「朝鮮姓の日本語読み」ですましていたと思います。故郷の宗家と合わせる理由はないはずです。創氏改名以前に仕事や学校の関係で日本風の氏や名が便宜上使われていた事実は知られていますが、細々と商いをする祖父には便宜上日本風の氏を使わざるを得ない状況はなかったようです。もちろん誇りが高いからでもあります。
  私の推測ですが、祖父が息子の進学のために「創氏」しないといけないと宗家に相談して判断を仰ぎ「△本」にしたということではないでしょうか。
  私が知りたいのは、朝鮮戸籍はどうなっていたかです。祖父は創氏の手続きを地元の役場でしたことになります。この手続きの中身と朝鮮戸籍との関係が知りたいところです。私は祖父の朝鮮戸籍は何ら変更されていないのではないかと推測しています。
  解放後、故郷で家族全員が合流して落ち着いたときに、父は「まず戸籍を作った」といっていました。「創氏改名」以降に生まれた弟や妹の分だったのか、聞いておくべきだったと後悔しています。

_ 辻本 ― 2010/04/02 06:27

マイマイ様、ありがとうございます。参考になりました。しかし、ちょっと疑問があります。

>一つは戦前戦中日本に居住した朝鮮人の戸籍はとてもあいまいなものだったということです。創氏改名の時点で朝鮮戸籍に記載されていたのは祖父(次男なので、婚姻後戸主になったと考えられます)と祖母と父のみで、日本生まれの弟や妹は記載されていなかったはずです。

 日本に居住した朝鮮人も、出生や死亡、婚姻などは居住地の役場・役所に届けます。すると、この身分事項は本籍地である故郷の面事務所等に送られ、戸籍に登載されます。「日本生まれの弟や妹は記載されていなかったはずです」は、ちょっと理解できないのですが。

>氏の設定届の受付は1940年2月11日から8月10日までの6ヶ月ですが、その間の3月4月は当時も卒業入学シーズンです。15歳だった父の地元(大分県の農村部に近い町)の旧制の専門学校に進学する時期に重なっています。願書を出すときか試験合格後の入学手続きのときかははっきり聞いていないのですが、校長から「創氏改名」をしないと入学させないといわれたらしいです。校長は上からの「創氏改名」を推奨する通達に従ってそういう言動になったと思います。

 設定創氏の届け出の割合は、2月に0.36%、3月に1.07%、4月に2.20%です。つまり届出期間の最初のうちは、実際に届け出たのは微々たる数字です。この当初時期には、創氏届出の圧力はなかったと言っていいと思います。
 しかし、祖父様はこの時期に、朝鮮ではなく日本において、圧力があったとされています。
 朝鮮内での設定創氏の届出率は最終的(8月まで)に76.4%、日本(内地)での届出率は14.2%ですので、日本に居住しておられた祖父様の事例は、かなり珍しいものと考えられます。

>祖父は創氏の手続きを地元の役場でしたことになります。

 創氏の届出は居住地の役場で可能です。祖父様はわざわざ故郷に帰って創氏を届け出られたのでしょうか?

_ マイマイ ― 2010/04/06 12:13

  輪郭が見えてきました。ご指摘通り弟や妹の戸籍は祖父が役場で届けを出しているはずで、戦争末期に生まれた末弟の分を「戸籍を作った」といったのでしょう。今まで祖父の「創氏改名」に至る事情が珍しいという認識がなかったので、感慨深いものがあります。
  大分県在住の一世が残した「五十年史」によれば、県内で「協和会」の支部が結成されたのは1940年の初めで、3月13日を皮切りに連日各地で「支部」が結成されたとあります。祖父は地元のA町の協和会支部が結成されたときから終戦までずっと指導員を任命されています。A町に初めて住み始めた朝鮮半島出身者であるからだと思いますが、渋々やっていたと聞いています。
  大分合同新聞に1940年3月19日付けで「Aさん一家が内地人名に変る 県内ではトップ」という見出しで出ています。この一家は「郷に入れば郷に従う」という考えで、かねて朝鮮半島の裁判所に改名を出願し、3月14日付けで大分地方法院戸籍課から許可されて、家族それぞれが朝鮮名から日本人風の名に変えています。同日さらに大分市役所に出頭して創氏手続きをしたとなっています。
  祖父もこの頃故郷の父と手紙でやりとりをして、「氏」を考えてもらい、地元の役場で「創氏」の手続きをとったと考えられます。祖父は故郷とは手紙のやりとりや仕送りはしていたと思いますが、終戦まで一度も帰っていません。
  日本での創氏の意義を広めることを協和会が担ったことは知られています。「朝鮮姓の日本語読み」で通すには生きにくい時代になっていたことを想像すると、大きな枠組みで考える問題のようにも感じられます。あるいは校長が朝鮮姓で入学することを単に嫌がったからかも知れません。
  で、あらためて日本にいた朝鮮人にとっての「創氏改名」を独断で考察してみました。
  「創氏改名」の時期が終わったあと、実際役場で手続きをとっていないのに「創氏改名」をしたと思っている人が案外多かったのではないでしょうか。少なくとも14.2%よりはるかに多くの人が「創氏改名」したと認識していたように感じられます。
  興味がわいたので、名前に焦点をあてて手元の本を拾い読みしてみました。最初は作家金達寿著『わがアリランの歌』です。1931年に東京の尋常小学校の夜学に入学しましたが、朝鮮人が多く本名で通っています。次の年に昼間の尋常小学校に編入学していますが、連れていった従兄弟は先に自分の弟を入学させたときのいきさつで学ぶものがあり、「おまえは学校では、金山忠太郎という名にしよう」といったとあります。しかし担任が「本名でいいよ」といったとあります。著者の周辺ではもう日本人の名を便宜上使って生活する人が多かったことが伺えます。
  その後はいくつかの3Kの仕事をしますが、本名で技師見習いの職に応募したとき「日本名はないのかね」といわれたとあります。この頃には給与をもらう職あるいは仕事を分けてもらうような人は日本名を名乗らざるを得ない状況があったことがわかります。「創氏改名」の時期には「金光」という氏を日本にいた親族と話しあって決めたとありますが、手続きをしたというくだりは見当たりません。
「1939年12月からいわゆる「創氏改名」というのが強制されることになり、在日朝鮮人が便宜的に使用していた通名どころではなく、朝鮮人全体が日本式の姓名を名乗らなくてはならないことになっていた」と書いてあり、この作家でさへ当時は日本名を名乗ることと捉えていたように感じられます。
  次にイサンクム著『半分のふるさとー私が日本にいたときのこと』(1993年発行)の児童書ですが、15歳で帰国しその後大学教員をしていた女性の回想記です。父親が工場で働いたり、建築現場で仕事をもらうということで、周囲の朝鮮人が1930年代には日本人風の名を使わざるを得ない状況が率直に書かれています。著者は1937年に尋常小学校に入学しますが、親が役場にいったら「名前を日本名にするよう」といわれたので、「金村ヒロコ」という名前にしています。その後転校しあと担任(いい方です)が本名の方がいいということで「李相琴」と名乗らせていますが、1939年3年生の初めから「職員会で決まった」ということで「金村ヒロコ」に変えてもらっています。創氏改名の時期には著者の周辺はほとんどがもうすでに日本名を名乗っていたように考えられます。「創氏」の届けのくだりはありません。1943年に故郷の本家から手紙をもらったときに、「山川」と創氏したことを知ったようです。その後転居したときに「金村」から「山川」に変えたとあります。そのことを「変身した」と表現しています。著者も「創氏改名」を日本名で日常生活をおくることと混同しているような感じがします。
  二人の著者はどちらも「創氏改名」をしたと認識していたのではないでしょうか。
  第70題「創氏改名の手続き」に出てくる「金本春子」さんも創氏改名をしたと書いてあっても、混同しているだけで実際は日本で届けはしていない可能性を感じます。
  父は事情があって戦後は日本で生活した人ですが、家族を養うために苦労も多かったと思います。私はある時期まで通称で生きてきました。祖父の「創氏改名」と因果関係はありません。別問題です。父が通称を使わなくては生きていけないという判断のもと、なじみのある「創氏した名前」を選んだということです。「通称」は悪くいわれがちですが、個人的には「功」も語りたい心境を持っています。

_ 辻本 ― 2010/04/08 19:48

 金達寿さんは創氏改名令の翌年である1941年11月に大沢達男という名前で「族譜」という小説を発表しました。(『わがアリランの歌』192頁)
 「大沢達男」については、同書196頁ではペンネームとしていますが、創氏名だったという説があります。
 いずれにしても、この小説を一度読んでみたいと思っているのですが‥‥。

_ マイマイ ― 2010/04/10 10:36

  戦前の作品で全集にも入ってないので、手に入れにくいようですね。読んでみたいので、ついでの折に探してみます。勝手に「居候」させてもらっているので、お役に立てたらいいのですが。

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