朝鮮人学校閉鎖令後の「自主運営」2007/03/02

 韓東賢『チマ・チョゴリ制服の民族誌』(双風社)という本が最近出ました。民俗事象に関心を持つ私にはなかなか興味深いものです。  ところでそのなかに、終戦後の占領期における朝鮮人学校閉鎖令についての概要の記述がありました。

> だが、四八年一月、GHQの指示により日本当局は、朝連(朝鮮人連盟)が主導する自主的な民族教育を否認し、全国の都道府県知事に朝鮮学校を閉鎖すると通告した。‥‥  (五二年以降)朝連からの流れをくむ在日朝鮮人らの運動は‥‥朝鮮学校についても、自主運営の道が模索されることになる。>(74~75頁)

 1948年までの時期は「自主的な民族教育」が行なわれ、52年からは「自主的な運営を模索」ということです。これは別に言えば、48年までの民族教育は「自主的な運営」ではなかった、ということになります。  著者の真意は不明ですが、これはその当時の歴史の一面を語るものと思われます。

 終戦直後に朝鮮人学校が多数生まれましたが、その実態はどういうものであったか、概略は次の通りです。

 それまでは朝鮮人と日本人とは区別されることない混合教育でした。それが1946年から朝鮮人の生徒だけを別教室に集めて、朝連による「民族教育」が行なわれました。これが「朝鮮人学校」です。それは日本の教育に関する法律から逸脱するものでしたが、当時は終戦後の混乱と「解放民族」とされた朝鮮人の取り扱い方が定まらなかった影響もありまして、容認されました。

 朝鮮人学校では、日本の教員免許を持たない朝鮮人教師が朝鮮語などを教育することになりました。この意味では「自主的な民族教育」でした。  しかし教室や運動場の多くは日本の学校でした。つまり日本の公教育の場で「民族教育」が行われたという事態であったわけです。その意味では「自主的な運営」ではなかった、と言えます。

 GHQや政府が「朝鮮人学校の閉鎖」を命じたのは、このような状況によるものです。朝鮮人から見れば「民族教育の否定」となりますが、法治国家の立場からすると、日本の学校を利用しながら日本の法律に基づかない「教育」は認められないとなります。

 閉鎖後、朝鮮人側は校舎も運動場も自前で調達する「自主的な運営」を模索する民族教育に転換することになりました。

来日外国人犯罪は多いか少ないか2007/03/08

 移住労働者と連帯する全国ネットワーク『外国籍住民との共生に向けて』(現代人文社・大学図書 2006年6月)に次のような記述があります。

「“来日外国人”刑法犯の検挙人員を過去の約10年で比較すると、10年で2割あまり増加している。しかしその間に外国人の新規入国者数は8割以上増加しており、犯罪率としてはむしろ減少していると言える。‥‥各年の“来日外国人”刑法犯検挙人員は、日本全体の2%前後(2004年2.3%)を占めるにすぎず、1994年と同じレベルである。これをもって“来日外国人”を“治安悪化”の元凶のように言うのは偏見そのものであり、事実に反する。  また“来日外国人犯罪の凶悪化”というが、2004年の来日外国人の凶悪犯(殺人・強盗・放火・強姦)検挙人員は421人で、日本全体(7519人)の5.6%を占めるにすぎない。」(163~164頁)

 これが正しいのかどうかです。『犯罪白書』等の資料から調べてみました。

・まず過去10年だけではなく過去20年を調べてみますと、来日外国人の一般刑法犯は、84年が1,301人、94年が6,989人、04年が8,898人です。  過去10年で27%増ですが、20年前から比べると6.83倍です。

・次に日本の刑法犯のうち“来日外国人”の占める割合ですが、84年0.29%、94年2.27%、04年2.29%。  過去10年では変わりませんが、過去20年では7.9倍となります。

・新規入国者数は分かりませんが、外国人登録者数(在日含む)で見ますと、84年が840,885人、94年が1,354,011人、04年が1,973,747人です。  過去10年で45%増ですが、過去20年では2.35倍です。

・日本人口のうち外国人登録者(在日含む)の割合は、84年0.7%、94年1.08%、04年1.55%。  過去10年で44%増で、20年では2.2倍です。

・来日外国人の刑法犯検挙人員は、日本全体の2%前後(2004年2.3%)とされていますが、20年前の0.3%に比べれば約7倍です。  ただしここで言う「来日外国人」は登録者以外の短期滞在者も含みます。

・凶悪犯(殺人・強盗・強姦等)における来日外国人の割合は2004年で5.6%とされていますが、一般刑法犯の2.3%に比べると、2倍以上です。

 つまり過去10年を調べると、外国人登録数は1.45倍、外国人犯罪の数は1.0~1.3倍ですので、確かに犯罪率としては減少しています。  ところが過去20年を調べると、外国人登録数は2.2~2.3倍、それに比べ外国人犯罪の数は6.8~7.9倍です。  そして日本全体のうち外国人犯罪者の占める割合は20年前に比べて7倍です。しかも凶悪犯罪が多いのです。  犯罪率は激増としか言いようがありません。  外国人犯罪は20年前から比べると激増しており、ここ10年の間はその高い数字を維持したまま現在に至り凶悪化しているのです。

 以上より「外国人犯罪は増えていない」という主張は、20年前から生起した犯罪の激増、そしてここ10年間はそれが高止まりしたまま推移してきたという事実を隠蔽するものと言わざるを得ません。

 上記ネットワークの「過去の約10年で比較すると‥‥“来日外国人”を“治安悪化”の元凶のように言うのは偏見そのものであり、事実に反する」と論ずるこの本は、過去20年まで遡るとその事実関係に間違いがあることが明白です。

 何でもそうですが、まずは事実関係を正確に把握することを出発点としなければなりません。「偏見」という問題はその次に考えるべきものです。

(ご注意)  なお本稿での「外国人」とは在日ではなく、来日外国人です。  在日は過去20年の数字を調べると、人口では2割減ですが、犯罪者数では5割減です。従って在日の状況は格段に良くなっています。

(追記)  来日外国人の数を調べることは、意外と難しいものです。3ヶ月以上の長期滞在者なら外国人登録するのでそれは分かりますが、観光などの短期滞在やあるいは密入国、オーバーステイなども多数います。ある時点での外国人数は、なかなか分かるものではありません。  外国人の犯罪率を正確に数字で出すことは、非常に困難です。

福岡安則さん2007/03/14

 福岡安則さんは、中公新書『在日韓国・朝鮮人』(1993)などを出しておられるなど、在日や人権問題の専門家の方です。  彼は共著『黒坂愛衣のとちぎ発《部落と人権》のエスノグラフィPart.1』(創土社 2003年12月)のなかで、藤田敬一さんについて次のような言説を開陳しておられます。

>10年くらい前に、藤田敬一さんという人が『同和はこわい考』という本を書いて、かなり評判になったことがあるのを思い出したからです。この本、いま書架をさがしたけど、すぐにはみつかりませんでした。─たしか、そこで、藤田さんは、同和問題の講演では、聴衆の大部分が寝ている。聴衆が同和問題の講演を真剣に聞こうとしないのは、同和問題にあいそづかしをしている人びとを無理やり動員で集めているからだ。そして、同和問題に人びとがあいそづかしをしているのは、部落解放運動がむちゃなことをやって『同和はこわい』とみんなから思われてしまっているからだ……というふうに議論を進め、そして、一般の人々に変われと要求するだけでなく、部落の側も変わらなければならない。両側から越えていくことが必要だ、という論理の展開をしていたはずです。  藤田さんの議論を読んでいて、違和感をおぼえたのは、同和問題の講演では聴衆の大部分が寝ている、と言うけれど、それは、藤田さん自身が講師となった講演のことではないか。自分が聴衆を寝かしておいて、寝かせてしまった講師としてのじぶんのを自己批判することなく、運動を批判するなよ、というふうに思ったものでした─もちろん、運動批判は批判としてあっていいのですが、それは自分を棚上げにした批判じゃダメだ、ということです。」 (148~149頁)

 このなかで「この本、いま書架をさがしたけど、すぐにはみつかりませんでした。─たしか、そこで、藤田さんは‥‥という論理の展開をしていたはずです。」というところに注目してください。

 要するに福岡さんは藤田さんに対して、10年前に読んだ本のウロ覚えで名指し批判をされたのです。内容は当然ながらデタラメとしか言いようがありません。これでは性質の悪い個人攻撃でしょう。

 これに対して藤田さんはHPのなかで、次のような感想を書いておられます。

「●2004.2.3(火)  こういう人を何と呼べばいいのかしら。『こわい考』が見つからないまま学生に送ったメールらしいけれど、それならそれで活字になる前に本を探し、探してもないのなら買うなり借りるなり図書館で調べるなりして確認するのが研究者としてのまっとうなやりかたではないか。うろ覚えとはったりと勘でやっているから、こういうことになる。この人はもう一度学問をはじめから学び直したほうがいい。そうでないと埼玉大学教授・社会学者の肩書きが泣く。ま、この人物の肩書きが泣いたって、わたしにはどうってことはないけれど。」 http://www.h7.dion.ne.jp/~k-fujita/diary/diary_bak/2004/200402.html (2月3日付けなので、かなり下のほうにあります。)

 福岡さんの他の著作・論文にも、同様のものがあると考えた方がいいのかも知れません。  人権関係の専門家には、こういった類の方が多いという印象を持っています。

水平社と衡平社2007/03/19

>「衡平社」は朝鮮の被差別民が政治犯から生まれたという考えを持っているため、日本の「水平社」とは交流がないという。>

 金永大『朝鮮の被差別民衆』(解放出版社 1992)の271~290頁に、翻訳者らによる補遺「<資料>衡平社と水平社の連帯に関する新聞報道」があります。  水平社と衡平社とは、かなり交流があったようです。

>白丁は存在し、現在でも残る日本時代の戸籍には職業が記載されていたといい、食肉業に携わる人は「屠漢」などとの記載もあったようで、今でも役所によっては残っているとされる。したがって、調べればわかるようだ。>

 これは疑問です。  甲午改革後の建陽元年(1896)、「戸口調査規則」「戸口調査細則」が布告され、戸籍が調えられました。  その戸籍には確かに「職業」欄があります。私の見た例では「幼学」とあります。ここでいう「職業」とは身分のことで、現代で使う職業とは違います。  次の隆熙3年(1909)の「民籍法」における戸籍には、「職業」欄はありません。  日本統治時代の大正11年(1922)の「朝鮮戸籍令」の戸籍にも、「職業」欄はありません。

>水平社と衡平社とは交流があったというか、水平社が活動家を派遣してオルグして、衡平社の結成を後押ししたのではと思います。>

 水平社運動の歴史は、かなり詳しく調べられています。果たして水平社の後押しで衡平社が結成されたのかどうか。  もしあったなら、朝鮮に派遣された水平社の人物の具体名が明らかになっているはずですが、出てきません。衡平社結成後の交流なら、名前が判明します。

大阪にある二つの「飛鳥」2007/03/26

 「飛鳥」は、奈良の明日香村が最も有名ですが、大阪にも「飛鳥」があります。羽曳野市、太子町、河南町一帯の地域で、『日本書紀』にも現れる地名です。奈良の明日香を「遠つ飛鳥」と称されるのに対し、大阪では「近つ飛鳥」と称され、由緒は古いものです。推古・用明・孝徳・敏達の各天皇陵や聖徳太子・小野妹子墓などが所在します。

 ところで大阪にはもう一つ「飛鳥」があります。「飛鳥会事件」という解放運動のとんでもない事件の舞台となった所です。ここは大阪市内なのですが、何故ここが「飛鳥」なのか、その由緒は何かです。

 これは大正14年に、西中島村が大阪市に編入された際に、このなかの南方新家という大字が「飛鳥町」と命名された地名が最初です。それ以前に、この付近で「飛鳥」に類する地名はありませんでしたから、突然現れたことになります。

 なぜ「飛鳥」と名付けたのか不明です。市町村合併などの時に、突拍子もないような名前が付けられることがありますが、この場合もそうなのでしょうか。その経緯がよく分からないところです。

 誰かご存知の方がおられれば、ご教示願うところです。