全斗煥政権がオリンピックを誘致し成功に導いた2018/02/08

 あの血塗られた光州事件(光州民主化運動)の翌年(1981)に、韓国はオリンピック誘致に成功しました。 この時の韓国民の喜びは、ちょっとやそっとではなかったです。 この様子を、『朝日ジャーナル1981年10月16日号』 「分断国家・韓国の期待と不安」が報告しています。

52対27という大差で、ソウルが名古屋を破って、88年夏季オリンピック開催地に決まった ‥‥開催地決定のニュースは、韓国民を喜びの渦にまき込んだ。10月1日付の『東亜日報』には「韓国外交の勝利」「単一チームのための対話可能性」「奇跡を勝ちとった韓国の国力」といった喜びの見出しが並び、「世界の大合唱ソウルで会いましょう」(『ソウル新聞』)、「発展途上国の勝利」(『朝鮮日報』)、「檀君(開国の祖)以来の最大行事」(『韓国日報』)といった見出しがそれぞれの紙面を飾った。

(開催地決定前に)「せめて日本の新聞の一つだけでも、名古屋はソウルに譲れ、と書いて欲しかった」とは、韓国人記者の述懐だった

喜びの絶頂に立ったのは、全斗煥政権であろう。 全政権は、去る二月の米韓首脳会談と共同声明によって米国から公式に認知され、いままたオリンピック開催地決定によって国際的認知を得た。 しかも表決では、経済大国に倍する快勝であった。それは何にも代え難い国威発揚であり、民族意識の高揚となった。

79年12月の粛軍クーデター、80年5月の光州事件と、暗い足どりを描いた全政権にとって、ソウル五輪は、国威発揚とともに政権の足固めともなった。 7年後の五輪開催を目標に、韓国民総参加運動が展開されるであろうし、国民もまたこれに呼応するだろう。‥‥全政権はまさに順風満帆の道程に立った。

(開催地決定で)期待にあふれるソウル五輪であるが‥‥これから7年間、内外の情勢がどう動くか、予期できない事件を含めて、それは予断は許されない。 例えば、全政権の任期7年が終わるのは、五輪開催直前の88年3月である。新憲法は大統領の任期を7年1期とし、全大統領自らも、再任はせず平和的政権交代の実施を明言している。 しかし、これから足固めした全政権が続き、次第に五輪ブームが高まりをみせたとき、大統領任期直前に迫った雰囲気の中で、側近たちの動きから、五輪開催を全政権の手で、という欲望が露わになりはしないか。 ‥‥過去に重任だけを認めた朴政権が、側近の権力集団に押されて憲法を改定して三選を貫き、さらに長期政権に走った実例があった。

 『朝日ジャーナル』が心配したのは、時の全斗煥大統領が憲法通りに7年で辞めるかどうかでした。 全大領は前年の光州事件で血なまぐさい弾圧を主導した人物ですが、そんなことには関心が行かなかったことが分かります。 これはその当時の韓国民の心情もまた、そうであったからです。

 在日韓国人でも多くの人がオリンピックに引かれていました。 韓国の民主化運動に連帯する活動をしていた在日が、軍事独裁政権の元でするオリンピックはナンセンスだといくら言ってもアボジ(父親)は全く聞いてくれなかったと、こぼしていたことを思い出します。

 そして韓国の全斗煥は7年後の1988年ソウルオリンピックを、国民の熱狂的な雰囲気の中で、見事に成功させたのでした。

【拙稿参照】

オリンピック誘致で全斗煥政権を応援した日本の市民団体 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/01/30/8778939