日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(4)2020/02/05

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/26/9206635   の続きです。

 今回は第16章の後半です。

16、亡国の暗君が開明君主に化ける(後半)   金容三

ロシア皇帝に「朝鮮保護」を要請

高宗は1896年2月11日の明け方、皇太子と一緒に宮女の服装に変装して宮城から脱出し、ソウルのロシア公使館に身を隠しました。この行動は駐朝鮮ロシア公使が計画し、ロシア軍人の支援と護衛を受けて断行されたものです。ロシア公使館に到着した高宗は、まず最初に日本と親しくしていた親日官吏たちを処断せよという命令を下しました。王命受けた親衛部隊出動し、総理大臣の金弘集を殺害して遺体を清渓川に投げ捨て、農工商部大臣の鄭秉夏、度支部大臣の魚允中は群衆の暴力で亡くなりました。10人余りの他の大臣たちは、千辛万苦の末に日本に脱出して亡命しました。

俄館播遷の期間中である1896年5月末、高宗はロシア皇帝ニコライ二世の戴冠式に閔泳煥を朝鮮代表として派遣しました。閔泳煥はベーベル公使の周旋でロシアの要員たちの保護を受けながらモスクワに行ってニコライ二世に謁見しました。この席で閔泳煥は「朝鮮をロシアの保護領にしてほしい」と求めました。そうして外務大臣ロバノフ、財務大臣ウィッテと面談してロシア軍隊の朝鮮国王保護、ロシア軍事顧問官派遣などを要請しました。

二ヶ月後の7月29日、ロシアは軍事教官団を朝鮮に派遣しました。ロシア教官団は朝鮮の宮城護衛隊を訓練し、この警備隊は1897年5月、元の宮城に戻った高宗が見守る前で、ロシア式の査閲をしました。

朝鮮末期の朝鮮軍隊は、日本の教官を招聘して別技軍して日本式に訓練を受けましたが、壬午軍乱が起きると清の軍隊編成に変わり、清の教官たちの調練を受けました。またアメリカの退役将軍を招聘してアメリカ式に訓練をしましたが、また日本軍の訓練を受けて訓練隊を養成しました。この訓練隊が閔妃殺害に動員されて、信じられないことになるやロシア教官を招聘してロシア式訓練を始めたのです。このころ、朝鮮が一瀉千里に親露政策を推進する姿を見守っていた駐朝鮮アメリカ公使のアレンは「朝鮮問題はすべて終わった」と虚脱状態で語っています。ロシアの軍事教官団は、宮城護衛隊を訓練するのに続き、ロシア軍の指揮下に6,000人の朝露連合軍の結成を試みました。

しかしロシアの朝鮮進出政策は、満州浸透を主張する勢力が優勢になって、満州進出に旋回するようになりました。1897年12月18日、ロシアは日本が返還した遼東半島要衝である旅順と大連港を租借して極東地域で不凍港の確保に成功することによって、朝鮮に対する戦略的関心がなくなっていき、この渦中に朝露連合軍計画は廃棄されました。朝鮮に対する関心が冷めたロシアは、1900年7月、日本に朝鮮半島を分割して「朝鮮で、ロシア・日本の勢力範囲を確定しようと提案しました。もしも日本がこの提案を受け入れたならば、韓国は1945年ではなく1900年に南北に分断されて、ロシアと日本の保護領となった可能性が濃厚です。

一部の学者たち、高宗を開明君主と美化

日清戦争を終わらせるために、下関講和条約が締結された1895年から日露戦争が開戦した1904年の10月は、朝鮮の立場から見れば国家改革を通して近代国家に成長できる最後の機会でした。朝鮮の国家指導部は、その機会を無為に過ごし、中国、日本、アメリカ、ロシアなどの外勢を引き入れて国家独立を守ろうと七転八倒しました。韓国近代史で「失われた10年」と呼べるこの時期を、国家指導部が有益に使ったならば、朝鮮の未来は肯定的に変わることが出来ただろうし、極東と世界の歴史も相当に変わったかも知れません。

日本はロシアと戦争して、朝鮮からロシア勢力を追い払い、朝鮮を保護国としました。高宗は1882年の壬午軍乱の時に、クーデター軍が宮城に乱入して閔妃を殺そうとした事件を経験した後、日本公使に「ひょっとして異変が起きれば、王室を保護してくれ」と言って日館播遷(日本公館内に朝鮮王室を移すこと)を要求し、日清戦争の戦雲が垂れ込めると今度はアメリカ公使館に避難を要請する美館播遷(アメリカ公館内に朝鮮王室を移すこと)を推進しました。閔妃殺害後には俄館播遷(ロシア公館に朝鮮王室を移すこと)に成功しました。

日露戦争の戦雲が漂うと、高宗は今度はソウルのイギリス領事館に身を避けて、自分を保護してくれとイギリスに要請しました。英館播遷を要請したのです。しかしイギリスは高宗の要求を拒絶しました。一体全体、国の国王が国家の安危を放り出しておいて、自分だけ生きようと日館播遷、美館播遷、俄館播遷、英館播遷をしようとした事実を見れば、「この人、本当に国王なのか?」という懐疑感に襲われます。

日本の首相である伊藤博文は、1895年に駐日英国公使であるアーネスト・サトウとの対談で「朝鮮の独立は現実性がないので、朝鮮は周辺の一番強力な国家に併合するとか、保護下に置かねばならないこと」と語った。海外の外交使節たちが朝鮮を信じられないと見る根源は他でもなく、高宗の情けない統治能力のためでした。グ・テヨル梨花女子大教授は「ダモクレスの剣?―日露戦争に対する韓国の認識と対応」という論文で、西洋の外交官たちは高宗を統治者としても資格が完全に欠如している人物と判断していたという指摘します。ある国の皇帝がこんな状況だったから、その下の主な大臣たちは果てしない政争に悩まされながら自分の命を守るために、国家がどうなろうが自分の安全だけを求めました。彼ら主要官吏たちは親しくしている外国人たちに、政変が発生すれば身を隠す場所をくれと要求する事例が頻繁にありました。

グ・テヨル教授は、旧韓末の大臣たちはほとんどが日本、ロシアなどの外勢と繋がっていて、意識的であれ無意識的であれ、外勢の利権争奪と対立の手先の役割をするようになったと指摘します。イギリス総領事のジョーダンは、「朝鮮朝廷は内閣の危機が終わりなく続き、外国公館らは朝鮮政府から閣僚が一週間に一回ずつ替わるという通告を受理する暇もないくらいだった」と指摘したのです。これが高宗の統治時代の素顔でした。

要するに高宗は亡国の暗君でした。それにも拘わらす、近ごろになって一部の学者たちは高宗を開明君主に化けさせて、彼が改革を熱心に推進しようとしたが、日本の妨害で挫折したという著書や論文が相次いで出ています。このような行為を「手のひらで空を隠す(到底できない)」というものではないでしょうか。反日種族主義が高まって「反日」ならばどんな学説であれ尊重される世の中となって、それが作り出す笑えない寸劇と言わざるを得ません。

【拙稿参照】

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/12/9200912

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/21/9204587

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/26/9206635

雑感-GSOMIA問題と『反日 種族主義』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/12/11/9187872

強制連行論への批判―『反日種族主義』の著者  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/09/24/9157076