日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(3)2020/01/26

http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/12/9200912  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/21/9204587  の続きです。

 今回は第16章です。

16、亡国の暗君が開明君主に化ける    金容三

亡国の主要原因は外交の失敗

中国の上海で発刊される日刊新聞『申報』は、1910年9月1日、「ああ、韓国が滅亡した」という記事を載せました。日露戦争を美化した「戦雲余録」を書いた日本短歌の巨匠である石川啄木は、9月9日「地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く」という歌を発表しました。朝鮮はそのようにして滅びました。

朝鮮が滅亡した原因はいろいろありますが、その中でも主たる要因を選ぶならば、高宗と閔妃の外交失敗だと言うことができます。自ら乱世を突破する力のない国は、チャンスを待ってこそ生存が担保されるものです。これが外交と同盟の基本原則でしょう。興味深いことに高宗と閔妃は世界史の覇権勢力(主流勢力、すなわち英国)ではない、覇権に挑戦する勢力(非主流勢力、すなわちロシア)と執拗に同盟を結ぼうと試みて、大勢を見誤りました。

外交に関する限り、国王である高宗は一種の案山子(かかし)であり、王妃である閔妃が1884年半ばから対外問題を左右するようになったのが、隠すことのできない歴史事実です。列強との外交関係は国王である高宗が出て推進しましたが、実情は閔妃の意中が朝鮮政府を代表するものだったのです。

閔妃に接見した西洋の女性たちは、閔妃が聡明な女性だった、優れた知性の持ち主だ、また有能な外交官として朝鮮の外交を主導したという評価を残しました。そうならば、そのような聡明で優れた知性の持ち主だった閔妃が何故あのように、ほとんど病的なくらいに、世界の主流勢力である覇権国ではなく、非主流勢力の側に立つという冒険を持続して推進したのですか?これは一種のミステリーだと言うことができます。

1880年代にロシアが南進を開始すると、朝鮮半島をめぐって英国の代理に日本がロシアと対立する構図が激烈に展開しました。この緊迫した対立から、高宗と閔妃はロシアとの修交、第一次朝露密約、第二次朝露密約を推進して、宗主国の清によって国王廃位されそうになる危機まで追い込まれることもありました。

日本は日清戦争という国運をかけた戦争まで行なって、辛うじて朝鮮半島の支配権を確保しました。ところで日清戦争が終わった後、ロシアの一言に日本がどうすることも出来ず、遼東半島を返還する姿を見た閔妃は、またロシアを引き入れて日本を退ける「引俄拒日」政策を推進しました。

日本が閔妃を殺した理由

外勢は閔妃と大院君の葛藤を利用しました。閔妃がロシアを引き入れ、清と日本を排斥しようとするたびに、清と日本は大院君を全面に押し立てて閔妃を牽制しようとしました。これが閔妃と大院君の対決した大きな流れでした。大院君と閔妃の対決は、義父と嫁の対決、すなわち政治の主導権を誰が握るのかの闘いではなく、清・日と閔妃の対決と見なければ、その本当の意味が理解できません。高宗と閔妃は、ロシアを引き入れて清の圧政から逃れようとし、三国干渉で日本がロシアに屈服する姿を見ては、ロシアを引き入れて日本を拒絶する先鋒に立ちました。

このようになるや、駐朝鮮日本公使である三浦梧楼が日本軍、領事館警察、剣客の浪人たちを動員して、閔妃殺害という極端な選択をします。一言でいえば、閔妃殺害は酒に酔った浪人たちの偶発的殺人事件ではなく、朝鮮半島の支配権を争った日本とロシアの国益がかかった勝負でした。それは朝鮮半島支配をめぐって、ロシアと日本が角逐を繰り広げる渦中に、お互いが全面戦を始めることの出来ない状況から、ロシアと朝鮮王朝の連結点である閔妃を除去する措置でした。日本が閔妃殺害に挑戦するや、ロシアはしばらく後に、国王高宗をロシア公使館に脱出される、俄館播遷(ロシアの公館に朝廷を移す)で応戦しました。

日本の指導部は、朝鮮国王である高宗を閔妃の手のひらで踊らされている孫悟空くらいだと酷評しました。三浦公使の回顧録によれば、「閔妃が女性としては珍しく才能を持った豪傑のような人物」で言って、「事実上の朝鮮国王は閔妃」だと評していましたから。彼の回顧録によれば、三浦公使は時々宮城に参内して見ると、朝鮮の宮中の規則によって、女性が男性に会うことが出来ないようになっていて、閔妃に会う機会がなかったと言います。ところで国王高宗に謁見して対話するとき、国王の椅子の後ろから何かひそひそ言っている声が聞こえるが、よく聞いてみると、それは王妃の声だったというのです。王妃は国王の後ろに簾をかけて、その中から外国公使との対話内容を聞き、外国公使に返事をしていたのです。このような状況接した三浦は、事実上の朝鮮国王が王妃だと主張したのです。

国王高宗が閔妃の指示を受けて外国公使と対話を交わす場面は『高宗実録』を始めとした我が国の歴史記録には全く登場しません。しかし三浦の前任公使だった井上馨の謁見場面でも確認されます。井上公使は高宗に面談する時、いつも内謁見、つまり臣下を退出させて国王と直接対話し、謁見時間は5時間以上になることもありました。井上の高宗謁見記によれば、彼が高宗に謁見する時になれば、いつでも国王が座る後や横に簾が下ろされていて、その中に閔妃が座っていました。閔妃が二人の対話内容を聞いていて、国王に注意を与えたり助言をする声がひそひそと聞こえてくるのでした。そうして対話がうまくいかないと、簾を二・三寸開けて顔を半分ほど出して助言したと言います。  (続く)

【拙稿参照】

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/12/9200912

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/21/9204587

雑感-GSOMIA問題と『反日 種族主義』 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/12/11/9187872

強制連行論への批判―『反日種族主義』の著者  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2019/09/24/9157076

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