日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(1)2020/01/12

 この11月に日本語版が出版された、話題の『反日 種族主義』(文芸春秋)。 韓国で7月に出版された『반일 종족주의』(2019年7月刊)からの翻訳本なのですが、両方を比べてみると翻訳では3つの章節が抜け落ちています。 つまり原本は全部で25個の章節があるのに、日本語版は22個の章節となっているのです。 しかし翻訳本の序文や解説には、そのことが説明されていません。

 なぜ省いたのか気になって、私なりに翻訳してみました。 章節の見出しの頭に出てくる数字は、原本の章節にあるものです。 ですから「09」は九番目の章節ということです。

09、学徒志願兵、記憶と忘却の政治史  鄭 安基

学徒志願兵制とは?

1944年1月20日、朝鮮人学徒志願兵3,050人は、特別志願の形で日本軍に入営しました。 解放以降、学徒志願兵出身者たちは、自分たちを「民族の十字架を背負った若い知識人」だったと主張しました。 在日僑胞出身の韓国近代史研究者である姜徳相は、学徒志願兵を「志願を仮装した強制動員」と規定しました。 2018年1月、大韓民国行政安全部は「日帝の朝鮮人学徒志願兵制度および動員部隊実態調査報告書」(以下、行安部報告書)を発表しました。

行安部報告書は日本軍を脱営して光復軍に身を投じた学徒志願兵を独立有功者として叙勲・顕彰する一方、彼らの学徒志願を独立運動に格上げしなければならないとまで主張しました。 果たして学徒志願が、日帝の欺瞞に満ちた強制動員であり、民族意識で充満した独立運動だったのでしょうか?

1943年10月20日、日本陸軍省は専門学校と大学の法文系に在学中である朝鮮人学徒を対象に学徒志願を募集する「1943年度 陸軍特別志願兵 臨時採用 規則」を公布しました。 1943年10月25日から11月20日まで志願者の受け付けと、12月11日から20日、までの適性検査を経て、入営学徒を選抜しました。 学徒志願兵の合格者は1943年12月、予備軍務教育を経て1944年1月22日、日本軍に入営しました。

学徒志願兵制の成立は、日本人の学徒出身とは違って朝鮮人を対象にした徴兵制が実施される以前だったので、法制的な強制性が欠如していました。 だから朝鮮人学徒志願兵は「特別志願」の形を借りなければなりませんでした。 日本政府の立場からすると朝鮮人の学徒志願は、同じ帝国臣民なのに存在する国民義務の差別、またはその逆差別を解消するための苦肉の策でもありました。

学徒志願の総数と実態

従来、姜徳相の研究と行安部報告書は、学徒志願適格者6,203人のうち、4,385人が日本軍に入隊したと主張しました。 これは学徒志願の実態と選抜過程を全体的に調べなかったという問題点を抱えています。 1944年の日本政府の資料によれば、学徒志願適格者は全部で6,101人でした。そのうち4,610人が志願し、1,491人が志願を回避しました。そして支援した者のうち、実際に適性検査を受けた者は4,217人、91%でした。 そして適性検査を受けた者で、合格者は3,117人でした。そのうち正式に入隊した者は、疾病その他の事由の67人を除外した3,050人でした。

このような学徒志願の実態は、それが従来から知られていたように無条件に強制されたものではないことを語っています。 適格者で志願しなかった者も24%にもなり、志願をしてからも適性検査を回避した者もおり、適性検査に合格しなかった者も多かったのです。 実際に京城帝国大学生として学徒志願をしてから適性検査を拒否したソ・ミョンウォンは、「一次の身体検査をした後、二次の検査に行かなかったために、締め切り日をやり過ごすことができた。 締切日をやり過ごしても徴用に行けば、それだけだった」と回顧しました。

当時は戦時期であり、若者たちは軍隊にいくにしろ工場に行くにしろ、強要される雰囲気でした。 ソ・ミョンウォンはどちらであれ、選択は自分のすることだった回顧したのでした。 もう一度言うと、学徒志願兵制は単純に「志願を仮装した動員」とだけ断定することは難しく、志願者たちの分別力のある判断と欲望が介在した過程だったのです。

千載一遇のチャンス

学徒志願兵は、入営してから幹部候補生を志願して日本軍初級将校に立身することができる特恵が与えられました。 当時の朝鮮人青年たちには、日本軍将校になることが不可能と思うくらいに羨望の対象でした。 学徒志願は軍人に変身して経済的安定と社会的地位を保障する立身出世の近道でした。

だから当時の世間では学徒志願を「千載一遇のチャンス」とも言いました。 幹部候補生に採用されれば、6ヶ月の集団教育を経て、甲種(将校)と乙種(下士官)に区分されました。 このうち甲種幹部候補生は再度陸軍予備士官学校の6ヶ月の集団教育と見習い士官の生活を経て、予備役陸軍少尉に任官されました。

学徒志願兵の幹部候補生志願は、入営学徒3,050人のうち1,869人で、61.3%の志願率を記録しました。 幹部候補生合格者は、甲種403人と乙種460人の合計863人で、合格率は46.2%でした。 これら合格者たちは、幹部候補生教育期間を経て、高い戦死率を記録した南方戦線の派兵も留保されました。 幹部候補生合格者の集団教育は、真夏の蒸すような猛暑の中で実施されました。 それでも彼らは、防毒マスクを着用した10キロメートル武装駆け足を完走する精神力を発揮しました。