ボースの評伝にある誤り2006/04/24

インドの独立運動の闘士であったR・B・ボース(チャンドラ・ボースとは別人)の評伝『中村屋のボース』(中島岳志著 白水社)を読む。戦前のアジアの独立運動であるから、ところどころに朝鮮問題が出てくる。  しかし筆者は朝鮮関係は専門ではないからか、間違いが多い。例えば下記である。

「1925年に施行されることになる普通選挙法をめぐって‥‥内地に住む朝鮮人に対して参政権を与えるか否かという問題も俎上にのぼった。(ちなみに、朝鮮に住む朝鮮人、台湾に住む台湾人は、法的には「日本人」でありながら、政治的能力や民度が低いとの理由から、独立まで一貫して参政権が与えられなかった)」(146頁)

 在日朝鮮・台湾人の参政権については、1920年第14回衆議院選挙で、参政権があることで決着がついている。ただしこの時は納税要件(3円以上)があり、実際に選挙権を持ったのはごくわずかであった。それから5年後の1925年に参政権を与えるか否かの議論はあり得ない。  なお一部の在日朝鮮人に、参政権は民族の裏切りとして否定する主張があったようだ。在日内部で「問題が俎上にのぼった」可能性はある。  当時朝鮮や台湾は植民地であって、それ故にそこに居住する人すべて(日本人も当然含まれる)が選挙権を有していなかった。「政治的能力や民度が低い」ことが理由ではない。

「R・B・ボースが、普段押しとどめている感情を表に出して泣くのは、日本人相手ではなく、一人の朝鮮人実業家が相手であった。二人は共に祖国を帝国主義によって奪われ、故郷に帰ることも侭ならない者同士であった」(220頁)

 ボースはインドの独立運動を首謀し、追われて日本に亡命した人物であるから、祖国に帰ることが侭ならないのは事実。しかし朝鮮人実業家は、その名のとおり実業を起こして生活の糧とするために内地(日本本土)にいるのであり、故郷にはいつでも帰ることができる身分である。二人の客観的状況の違いは大きい。

 ところでボースは1923年に日本に帰化し、名前を「防須」としたことを初めて知った。これは犬養毅の命名だそうである。(144頁) 日本の帰化の歴史について考察する材料を得た。

韓国の伝播論と日本の由来論2006/04/26

 韓国人の歴史の関心の対象は、わが民族の文化が日本にどのように伝播したか、である。来日する観光者だけでなく研究者も、この観点でやってくる。日本各地で、ここにも韓国文化がある、あそこでもわが先祖が活躍した、といった歴史を確認しようとする。極端な場合は、日本の文化はすべて朝鮮からのものであるとまで言う人もいる。

 一方日本人の主な関心は、わが文化の由来は何か、どこからの影響があったのか、というところである。様々なところからの影響があってより高い文化が成立していくと考える。その由来場所の一つが朝鮮半島である。それはいくつかあるうちの一つである。

 日本人なら、韓国の文化は中国からも日本からも影響があったはずだから、彼らも自分の文化の由来を我々と同じように関心があるはずだ、と考えるだろうが、実際にそういうことはない。韓国人は自分の文化の由来にほとんど関心を持たない。関心があるのは、自分たちの優秀な文化がいかに広まったかの伝播論である。

 韓国の伝播論と日本の由来論とは妙に一致するところとなるが、両者の歴史認識の根本は全く違うものである。 日本と韓国の歴史認識の一致は極めて困難である。

「韓国は差別がゆるい」?2006/04/28

 網野善彦・吉本隆明・川村湊『歴史としての天皇制』(作品社 2005年4月刊)のなかで、川村が次のような発言をしている。

・「韓国の場合は、全般的に差別がゆるいんじゃないかという気がします。」(124頁)

・「韓国では『エイ、ムンドンギイヤー』つまり『ええ、癩病め!』という悪口が今でも生きているということは、逆にタブー視をしていないからではないか、その意味で差別がゆるいというふうにいったんです。これはハンセン病だけではなく、身体障害者に対しても、いわゆる被差別の人に対してもそうだと思うんです。”ピョンシン(病身)”とか”ミッチンノム(気狂い)”とか、日本ではエラい差別語がまだそのまま使われています。」(127頁)

・「両班対非両班の差異が非常に大きくて、常民と白丁の間の差は、それに比べると小さいという構造になっているような気がします。もっとも常民と白丁の間でも通婚はまず考えられませんから、差別がないということではありません。」(133頁)

・「日本の水平運動と同じように衡平社運動という白丁解放運動があり、さらに日本の植民地支配、朝鮮戦争で流亡民とか失郷民が多数出て、いわばごちゃまぜになったので、白丁部落といったものが現実になくなった。‥‥  問題となるのはむしろ、ムーダンとか芸能民に対してです。それから現に大きくあるのは地域間での差別です。全羅道と慶尚道とかの対立が、表層的に現れています。そういう意味で白丁問題というのは、既に過ぎ去った問題ということになっているようです。」(134頁)

・「韓国にも、李朝の王様の後裔がまだいますけれど、社会的にはまったく力がない。天皇制に比べると簡単に覆ってしまったわけです。王制がなくなったことと、白丁差別がなくなったことは同じ文脈で考えられると思います。そういう意味では、韓国の方が可塑的ような気がします。そういうことも含めて、日本に比べて差別がゆるいというぼくの実感が結びついています。」(134頁)

 川村の言う事実がその通りならば、韓国はかなり厳しい差別社会と思えるのだが、彼は日本よりも韓国の方が「差別がゆるい」とする評価を繰り返し言っている。韓国への思い入れがこのような考えになってしまうのであろうか。  天皇制=王制と差別問題を安易に結びつけているのも、いかがなものであろうか。韓国では王制が否定されたから差別がなくなった、というのは一体どのような思考回路なのだろうか。

闇に消えた公金―芦原病院・同和行政2006/04/29

 同和行政の闇がまた一つ明るみに出てきました。 http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20060428i509.htm

 いま明らかになっただけでこれですから、闇に消えた公金は最終的に一体どれくらいになるのか。数十億円は確実でしょう。  他に同和行政全体になると、それこそ天文学的数字になるでしょう。

 思い起こせば1970年代、解放運動では、対行政闘争というのは役所からお金を取ってくること、という認識がはびこっていました。

 民闘連(現在の在日コリアン人権協会)でも、この影響を受けて、差別をなくすために活動しているのだから援助しろ、と役所相手に銭呉れ闘争を繰り返していました。その時の活動家が言うには、役所がどこからどのようにお金を段取りするかはどうでもよい、役所がお金を出したという成果がほしい、ということでした。

 この時私は、役所からお金を貰おうとするなんて乞食と同じじゃないか、それが何故闘争なのか、と言って非常に怒られたことを思い出します。