「韓国は差別がゆるい」? ― 2006/04/28
網野善彦・吉本隆明・川村湊『歴史としての天皇制』(作品社 2005年4月刊)のなかで、川村が次のような発言をしている。
・「韓国の場合は、全般的に差別がゆるいんじゃないかという気がします。」(124頁)
・「韓国では『エイ、ムンドンギイヤー』つまり『ええ、癩病め!』という悪口が今でも生きているということは、逆にタブー視をしていないからではないか、その意味で差別がゆるいというふうにいったんです。これはハンセン病だけではなく、身体障害者に対しても、いわゆる被差別の人に対してもそうだと思うんです。”ピョンシン(病身)”とか”ミッチンノム(気狂い)”とか、日本ではエラい差別語がまだそのまま使われています。」(127頁)
・「両班対非両班の差異が非常に大きくて、常民と白丁の間の差は、それに比べると小さいという構造になっているような気がします。もっとも常民と白丁の間でも通婚はまず考えられませんから、差別がないということではありません。」(133頁)
・「日本の水平運動と同じように衡平社運動という白丁解放運動があり、さらに日本の植民地支配、朝鮮戦争で流亡民とか失郷民が多数出て、いわばごちゃまぜになったので、白丁部落といったものが現実になくなった。‥‥ 問題となるのはむしろ、ムーダンとか芸能民に対してです。それから現に大きくあるのは地域間での差別です。全羅道と慶尚道とかの対立が、表層的に現れています。そういう意味で白丁問題というのは、既に過ぎ去った問題ということになっているようです。」(134頁)
・「韓国にも、李朝の王様の後裔がまだいますけれど、社会的にはまったく力がない。天皇制に比べると簡単に覆ってしまったわけです。王制がなくなったことと、白丁差別がなくなったことは同じ文脈で考えられると思います。そういう意味では、韓国の方が可塑的ような気がします。そういうことも含めて、日本に比べて差別がゆるいというぼくの実感が結びついています。」(134頁)
川村の言う事実がその通りならば、韓国はかなり厳しい差別社会と思えるのだが、彼は日本よりも韓国の方が「差別がゆるい」とする評価を繰り返し言っている。韓国への思い入れがこのような考えになってしまうのであろうか。 天皇制=王制と差別問題を安易に結びつけているのも、いかがなものであろうか。韓国では王制が否定されたから差別がなくなった、というのは一体どのような思考回路なのだろうか。
コメント
_ ブルージャスティス ― 2006/09/20 07:21
_ 芳樹庵 ― 2007/02/22 17:32
鄭棟柱の『神の杖』をきちんと読んでいるのでしょうか?
また上原善広の『コリアン部落』にも一度、目を通して
いただきたいものだ。吉本隆明が川村氏の言動に
乗せられる事のないことを信じたい。
_ 辻本 ― 2007/02/24 13:07
_ ねぎぼうず ― 2011/08/21 21:17
_ かい ― 2013/09/16 17:11
_ 辻本 ― 2013/09/16 18:22
35年前も変わらない在日の状況 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2011/01/10/5631713
ここ出てくる在日二世研究者の言葉が次です。
>韓国は身分上の差別がきびしいところで、僑胞(在日)と分かると、ソサエティにいれてもらえないんです。戦争前に徴用とか徴発で強制的に日本に連れてこられたわれわれの親たちは、ほとんどが貧しい下層階級だというわけなんです。
本国人の在日への差別感は、よく漏れ聞こえてきたものでした。これに対し、在日は反発するだけでした。冷静に分析する人はいなかったように記憶しています。
_ ヌルボ ― 2018/07/22 20:06
それは川村湊氏の「差別がゆるい」という言葉の、とくに「ゆるい」という意味について誤解というか、すれ違いがあるのでは?ということです。
たとえば、「ゆるい」のほぼ反対の「厳しい」という言葉も、「差別が厳しい」と「差別に厳しい」とでは全然違う意味になります。
私は川村氏の言う「差別がゆるい」は、「差別に対して厳しくない」という意味だと受け止めたのですがいかがでしょうか?
川村氏は「タブー視をしていないからではないか、その意味で差別がゆるいというふうにいったんです」とも言っていますが、これも内容的に間違っていないと思います。
もちろん、「タブー視をしていない」ということは社会的差別も差別意識もないということでは全然なく、逆に差別が差別と意識されないほど深刻な差別があると見た方が当たっていると思われます。
一方、日本の場合は放送禁止用語等をはじめいわゆる差別語には敏感ですね。上原善広「韓国の路地を旅する」によると、『神の杖』の作者・鄭棟柱氏が日本版翻訳について「韓国では普通の表現でも、日本では差別にあたると指摘されたので、けっこう直したな」と語っています。「ただ敏感だな、と思ったよ」とのことです。
しかし、それらの<差別語>を使わないことが必ずしも差別がないことの証左というわけでもなく、また差別をなくすことと直結するとも思えませんが・・・。
_ ヌルボ ― 2018/07/24 13:44
川村氏は仮面劇にハンセン病者が登場することを例にあげて「もちろん差別や嫌悪感はあったのでしょうが、もっとおおらかな感じがするんですね」と語っていますが、それは「おおらか」というより「無頓着」という気がします。
「”ピョンシン(病身)”とか”ミッチンノム(気狂い)”とか、日本ではエラい差別語がまだそのまま使われています」ということも、川村氏は肯定的に捉えているのかどうか、訊いてみたいものです。
同様の事例はたくさんあります。一昨年明洞で「白丁」という漢字の看板を見て驚きました。後で確認したら人気芸能人のカン・ホドンの焼肉チェーン店とのこと。これも差別がないことのあらわれなのでしょうか??
_ 紺碧太郎 ― 2023/05/21 20:35
在日が本国で差別される時、それは階級もあるのですが、韓国語がペラペラならばまた別です。いっそ韓国語ができなくても英語ができればなんとかなったり。日本語しかできなくても韓国で美男美女ならなんとかなったり(笑)。
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