伊地知紀子『消されたマッコリ』(2)2015/12/13

 朝鮮人は日常生活のなかでマッコリ(タッペギ)や焼酎を造って飲んできたという長年の慣習がありましたから、日本に渡って来てもその慣習が続くことになります。 しかしやはり当局の許可を経ないでの酒造りは違法ですから、取り締まりの対象となります。 『消えたマッコリ』では、戦前の在日朝鮮人の密造酒摘発について、次のように記しています。

戦前の密造酒摘発について、朝鮮史研究者の堀内稔は、「この密造酒摘発がもっともはやい時期に新聞報道されたのは、知り得る限り、1923年2月の下関においてであった」と指摘している。 阪神地域では1925年11月が最初であり、この記事を発掘した堀内の論文には、「西宮税務署では今秋酒の値が上がると同時に、阪神沿道へ入り込んで居る多くの朝鮮人が、高く酒が買へないのと日本の酒は口に合わず矢張り朝鮮酒がよいので、密にこれを醸造して居る者が多いのを探知し、(中略)自家用とし或は他の者に売っている事実あり」、「是れ等朝鮮人の内地移住とともに惹起した珍しい現象である」という内容が紹介されている。 堀内によれば、「その後密造酒の記事は年を追って増え、大がかりな摘発でなければ一段見出しの短信のようになってしまう」ほどであった。  酒は飲みたいが日本酒は高く口には合わず、やはり慣れ親しんだ味を求めるというところは誰でも頷けよう。(57頁)

 朝鮮人は長年に渡って慣れ親しんできた慣習や感覚を、日本にやって来てもそのまま持続しようとします。 マッコリもそれまで家庭内でごく普通に造って飲んできたし、しかも合法的に購入した米や麹を使って造るものですから、何故これが密造で違法となるのかが当初は理解出来なかったものと想像されます。

 在日朝鮮人は最初のうちは男性が渡日する場合がほとんどですが、日本での生活が安定するにつれて家族を呼び寄せることになり、女性の数が増えていきます。 マッコリは家庭内で女性が造るものでしたから、在日朝鮮人社会では女性の増加とともにマッコリ造り(=密造酒)が増加していったものと思われます。 それでも家庭内で造るのですから、ごく小規模です。 摘発されることはあっても「朝鮮人の内地移住とともに惹起した珍しい現象」という程度の認識でしたから、大きく問題化されなかったようです。

 これが日本の大きな社会問題となったのは、戦後です。 『消されたマッコリ』では、次のように記しています。

こうした密造酒づくりは、解放後の一時期大規模化した。戦後の日本では酒は配給制であったため、需要を満たせず密造酒が出回ることになった。(57頁)

 在日朝鮮人が戦後になって密造酒をつくり始めたという話は、しょっちゅう出てきます。 同じく『消されたマッコリ』です。

尼崎在住の池有吉さん(1939年生)は、解放後に長兄が焼酎を造っていた様子を語ってくださった。 ‥‥しかし、解放後に職がなく空襲後の片付けや建築現場にもいっていたが、家族で借りていた長屋をもう一軒借りて焼酎造りを始めた。(139~140頁)

姜斗名さん(1938年生)も、解放後に父親が焼酎を造っていたことを覚えている。両親と長兄・次兄は、1932年頃に慶尚南道から渡日し、大阪港で石炭運搬の船で働いていたが、解放後に同郷者のツテで尼崎に移り住んだ。 そこで父親が借りた長屋3軒のうち1軒を焼酎づくりにあてた。父親は麹も自分でつくり、長男が自転車で大阪市西淀川区の佃や御幣島まで配達に行った。(140頁)

李乙松さん(1925年生)は、山口県徳山市でしばらく生活していたときに焼酎をつくっていた。‥‥大阪で暮らし始めたときに、徳山での儲け話が伝わってきた。 空襲などで落ちた「ポッパルタン(爆発弾)」の破片を回収して売買するというものだった。 しかし、仕事の許可が下りず、李乙松さんは一緒にいった人たちと何ヶ月も許可が下りるのを待つ間に、そこで生活する糧として焼酎を造ったのである。(141頁)

宮城県大崎市松山町で焼酎製造・販売をしていた玄従玟(1928年生)は、その作業を「焼酎絞り」と読んだ。 解放前父を亡くし、母が日本と行き来しながら子どもを育てていたが、解放後に日本にいる母を追って玄従玟さんも渡日した。 ‥‥1949年に仙台へ、「焼酎絞り」をしている母の知り合いを頼って行き、そこで結婚、自らも焼酎を製造販売した。鳴子温泉や川渡温泉まで、湯たんぽに入れて焼酎を運んだ。(142頁)

 ここに出てくる「焼酎」とは、いわゆる「カストリ焼酎」と思われます。 こっちの言葉の方が年配に方には馴染みがあるでしょう。 マッコリ(タッペギ)は発酵酒ですから造りたては美味しいですが数日もせずに酸っぱくなってしまいます。 保存がきかないので、蒸留酒にして焼酎として販売したと考えられます。

 以上の話では酒の密造を始めた時期が戦後(=解放後)であって、戦前から引き続き密造してきたという話がありません。 戦前・戦中に全く造らなかったことはないでしょうが、大々的にあるいは本格的に密造・販売を始めたのは戦後になってからと言っていいでしょう。

 この理由はやはり、戦前・戦中の日本は治安が行き届いていたが敗戦後は社会が混乱し、これに乗じて密造という違法行為が横行したからだと思います。 また戦後の在日朝鮮人は、自分たちは日本から解放されたのだから日本の法律を守る必要はないという意識が高揚していたことも関係があったと考えられます。 だからこそ戦後の日本の当局は在日朝鮮人の密造に対して厳しく取り締まったのでした。

 ところで伊地知さんの『消されたマッコリ』では、密造の理由が「生きんがため」「生活の糧」だったとして肯定する言葉が繰り返され、さらには「酒造りを『密造』させた日本社会」(112頁)、「住民が汗して造る焼酎を理由に弾圧する警察と税務署、その背後にある日本社会」(136頁)と日本に責任を振ろうとしています。 ここに私との見解の違いがありそうです。

 密造酒は酒税を払わず、また儲けたお金にも税金を払いませんので、安く売っても利益率が非常に高い商品です。 しかも何もわざわざ勉強しなくても普段の日常生活のなかで得た知識と技術だけで製造できる商品でもあったのです。 ですから酒を密造する在日朝鮮人は字の読み書きが出来ないような人でも大いに儲けることが出来たのです。

 戦前に来日した在日朝鮮人の女性は、今は80代後半以上の高齢者となりますが、彼女らの大半は字の読み書きが出来ませんでした。 彼女らが現金収入を得る手段は極めて限られ、その一つが密造酒だったということになります。 そして戦後に密造が大規模化するにつれ、男性も参加するのでした。

 しかし、やはり違法は違法です。 生活のためとはいえ、違法行為に手を出してお金を儲けるのは悪いことに決まっています。 違法行為の取り締まりを「弾圧」と表現する伊地知さんの考え方はいかがなものかと思います。 

【拙稿参照】

伊地知紀子『消されたマッコリ』(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2015/12/08/7940574

張赫宙「在日朝鮮人批判」(1)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/10/27/7024714

張赫宙「在日朝鮮人批判」(2)   http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/01/7030446

権逸の『回顧録』         http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/07/7045587

終戦後の在日朝鮮人の‘振る舞い’ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2013/11/14/7054495

コメント

_ (未記入) ― 2019/10/26 12:53

少し気になるのは「材料はどうしていたのだろうか」ということです。
麦とコメが必要になるはずですが、コメは当時配給制(麦も恐らくそうだと思う)だったと思うのですがそれをどのようにして入手していたのでしょうか。

_ 辻本 ― 2019/10/26 16:17

闇市では、米は配給制度とは関係なく売っていました。

ただし当然ながら、値段は配給よりはるかに高いものでした。

どぶろく(マッコリ)も、闇市で高く売られていました。

そんな時代でした。

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