伊地知紀子『消されたマッコリ』(1) ― 2015/12/08
伊地知紀子『消されたマッコリ―朝鮮・家醸酒を今に受け継ぐ』(社会評論社 2015年5月)を購読。 マッコリについては、4年ほど前に私自身の思い出話を書いたことがあります。
タッペギ(マッコリ)の思い出 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2012/03/04/6359741
マッコリは、元々は朝鮮の各家庭で醸造していた伝統酒で、日本でも在日朝鮮人家庭で醸造され、時には販売されました。 在日社会ではマッコリではなく、「タッペギ」と呼ばれていました。 しかし密造ですから、よほど親しくならないと出しくれないものでした。 私にはそういう思い出がありますから、こういう類の本には関心があります。 だから本屋でこの本を見つけると、すぐさま購入したのでした。
この酒はどんな材料を使ってどのようにして造っていたのか、この本では次のように記されています。
外祖母(母方の祖母)から母へと伝わったマッコルリの製造法を、尼崎市在住の李惇玉さん(1955年生)が語ってくださった。 ‥‥李惇玉さんの母(1930年生)は、自分の母の造り方を見習い、父と結婚後も20年ほど篠山に住んでいた間マッコルリを造り続けた。 外祖母はマッコルリではなく「タッペギ(濁白)」といっていた。 外祖父は器用にオンドルの家を自ら建てたので、これがマッコルリ造りに必要なヌルッ(麦麹のこと)を乾燥させるのに役立った。 大麦の収穫後、外祖父が一俵購入して担いで戻ってくると、その大麦を荒くつぶして蒸し、練ってオンドルの上で乾燥させながらカビを付ける。ツルニンジンを入れるときもあった。 マッコルリは、結婚式や葬式のときに客人に振る舞うには欠かせず、1回の宴会に必要な材料は米2升、米麹2升、円盤型のヌルッを半分、水を入れて全体で約60リットル容器にいっぱいとなる程度だ。 李惇玉さんの母はイースト菌を小さじ1杯くらい足していた。 発酵を促すために砂糖を入れるという手もあるが、それよりも夏場は材料をすべて冷まして水を入れ紙でフタをして発酵を待つときに、「呼び酒」として焼酎か純米酒を入れるとうまくいく。 冬場は、蒸した熱い米、米麹、ヌルッを混ぜたとことへ水を入れていくなかで温度を下げていくが、適温の目処は上腕の内側で計る。 この部分が気持ちよく感じる温度が36°Cくらいなので、そこで差し水を止める。(146~147頁)
大阪市西成区在住の尹美生さん(1954年生)が思い出す光景は、和歌山県有田川上流で飯場をしていた父の雇う人夫70名が飲むタッペギのために、母が長い板に乗せた蒸し飯に種麹を混ぜるところだ。 人夫の食事の材料すら事欠く現場でのタッペギづくり。生の小麦が入手しにくいことも影響したであろう。 代替としての米麹は日本の酒造りでは欠かせないものであり、麹屋が商売として成り立ってきたので購入も可能だ。 しかし、できるだけ経費を節約すべく、種麹を仕入れて米麹をつくる場合もあった。(148頁)
料理研究家の韓京孟さん(1948年生 仮名)が、母のマッコルリづくりを語ってくださった。 ‥‥母は商売用のマッコルリをつくるときはイーストを使った。 全て麹でつくると経費が高くつく。つくったマッコルリは、上澄みを「清酒」、下のドロッとした部分を「タッペギ」と売り分けていた。これは、高麗時代には記述も残る酒の区分である。 近所の人に配達を頼んで、在日朝鮮人が働く西陣織工場へ卸してもいた。 最初は水マクラに入れ、次に一升瓶を使うようになっていった。 小麦麹は使っていなかった。 小麦の入手が難しいなか闇米で流通する、「サレギ」(「砕け米」を意味するサラギの方言:慶尚道・全羅道・忠清道・平安道地方で用いる)が米麹づくりに一役買っていたのではないかと、韓京孟さんは推察した。 この時代は米麹やったと思います。京都の場合はね。‥‥このときは、統制からあったと言いながらも闇の米がなんぼでも出回っていたし、精米所から出るサレギという潰れた米を安く買って流用してマッコルリをつくることも可能やったわけね。 ‥‥自分とこでも家庭用で、夫のためのマッコルリづくりはけっこうやってたみたいやし。 お酒買うと高いからね。自分とこでやったら安い安い、麹と米と水だけやから。(152~155頁)
大阪市東成区在住の高始宗さん(1928年生)の母は、解放後の鶴橋に生まれた闇市で白飯と汁物を出す屋台を始め、マッコルリも出すようになった。 そのなかで、焼酎に専念したほうが儲かると判断し、当時住んでいた東成区二丁目の長屋のなかで焼酎づくりを始めた。 1948年頃のことである。 奈良から種麹を郵送で送ってもらっていたことを高始宗さんは覚えているが、母がどのようなやりとりで郵送という手段へ行き着いたのか定かでない。 蒸した飯に種麹をばらまいて、その上に毛布をかけて温度調節して麹をつくっていた。 母は父と2人で焼酎づくりと養豚だけで生計を立てていた。 ‥‥養豚に経費をかけないよう、焼酎づくりでできた滓をエサにすることはもちろん‥‥(148~149頁)
李乙松さん(1925年生)は、山口県徳山市でしばらく生活していたときに焼酎を造っていた。 ‥‥生活する糧として焼酎を造ったのである。 朝鮮半島で製造する焼酎は米を原料とするが、火山島であるため水稲の収穫が望めない済州島で造る焼酎は粟、大麦、唐黍などの雑穀、あるいはサツマイモである。 この焼酎を「コソリ酒」という。「コソリ」とは蒸留器を指す済州語である。 李乙松さんが徳山にいたとき、近所に住む済州島出身の人から「コソリ」を購入し、焼酎を製造し売ることで収入を得ていた。 ただ、この当時は米麹と米で造ったという。これも日本の米麹と異なるのは、朝鮮の麹を作る際にいれる薬草を7種類入れたところだ。 手にある技術で、有り合わせの材料からたまたま入手できた済州島の道具で製造したものが、李乙松さん作の焼酎だった。(141~142頁)
マッコリ(タッペギ)や焼酎の造り方についてはそれほど詳しくは書かれておらず、以上のように簡単に触れられている程度でした。 焼酎はいわゆる「カストリ焼酎」のことでしょう。
伊地知さんはおそらく自分でこれらのお酒を造ったことはないようです。 せっかく多くの人を取材し、副題に『朝鮮・家醸酒文化を今に受け継ぐ』とする本まで出すぐらいですから、在日朝鮮人女性たちがどのように酒造りしたのかを追体験して、その体験記を書いてほしかったと思います。
コメント
_ 辻本 ― 2015/12/10 18:52
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http://mainichi.jp/articles/20151210/ddf/012/040/004000c
刊行 密造酒摘発事件とその背景は 伊地知紀子さん『消されたマッコリ。』
毎日新聞2015年12月10日 大阪夕刊
伊地知紀子さん=棚部秀行撮影
朝鮮地域研究で知られる大阪市立大教授の伊地知紀子さん(49)が、マッコリに隠された在日コリアンの悲劇をたどった『消されたマッコリ。』(社会評論社・1994円)を刊行した。1952年3月、大阪府南部の多奈川町(現岬町)で発生した密造酒摘発事件「多奈川事件」を大きなテーマに置いている。
「ほろよいブックス」と題したシリーズの一冊だが、その名に対し内容は硬派だ。伊地知さんは母方のルーツが多奈川にあり、在日コリアンのお酒をテーマにするなら、多奈川事件のことをしっかり書きたいと考えたという。
「事件の話は聞いていましたが、取材して初めて当時の報道や現場のことを知りました。いろんな方が蓄積した資料を提供してくれて、一般の方につなごうと思いました」
戦前、軍需工場の計画が持ち上がった多奈川地区には多くの朝鮮人が暮らすようになった。戦後、人々の生活の糧になったのは密造酒。だがそれは摘発対象となり、警察当局は大規模な取り締まりを実施した。朝鮮人の男性1人が、もみ合いになった警官に撃たれて死亡した。
「なぜ彼らは日本に来なければならなかったか、違法と知りつつなぜ密造しなければならなかったか。これはたまたま多奈川ですが、読む人のそれぞれのそばにそういう場所があることを考えてほしい」。身近な在日コリアンの生活史から、日本の近現代を鋭く問うている。【棚部秀行】