ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(4)2024/10/01

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/26/9719415 の続きです。

 トンデモ話がどのような経緯で始まり、どのように信じられて広がっていったのか、分かりやすくするために時系列でまとめてみました。 これまでの『朝鮮日報』記事だけでなく、検索して得られた記事も参考にし、私のコメントを挿入しました。

・1988年11月:  詩人の高銀が『ハンギョレ新聞』に、「ホーチミンは茶山丁若鏞の『牧民心書』を読んで感動し、丁若鏞の命日にはチェサ(法事)を挙げるくらいに尊敬した」というトンデモ話を投稿。 今のところ、これが文献上に残る最初のトンデモ話記録である。 なおこの年にソウルオリンピックが開催され、ベトナムは北朝鮮がボイコットを呼びかけたにもかかわらずこの呼びかけに応じずに参加した。 このことがトンデモ話に関係した可能性はある。

・1992年:  作家のファン・インギョンが小説『牧民心書』を出版し、その序文に「ホーチミンは終生『牧民心書』を枕元に置いて教訓とした」と記した。 この年に韓国はベトナムと国交を正常化したので、両国友好の象徴としてこのトンデモ話が広がったとも考えられる。 

・1993年:  嶺南大学教授のユ・ホンジュンが『私の文化遺産踏査記』を出版し、その中で次のように記した。 「ホーチミンが不正と非理追放のためには朝鮮の丁若鏞の『牧民心書』が必読の書だと言ったという話が伝えられているので、これがあの方の偉大さを証明するものとしたい」。 ユ・ホンジュンは後に盧武鉉政権の文化財庁長官を勤めるような人だったので、韓国では権威ある研究者がこのトンデモ話にお墨付きを与えたことになる。

・1994年:  高銀が『京郷新聞』の「私の山河 私の人生―革命家の死と詩人の死」というタイトル記事で、「ホーチミンは少年時代、激動の朝鮮後期の実学者である丁若鏞の牧民心書を求め、彼の命日を知って追悼することを忘れないようにした」と書いた。 高銀は6年前の1988年にも同じことを『ハンギョレ新聞』に書いているから、トンデモ話を本当と信じ込んでいたと思われる。

・2004年6月:  『東亜日報』フランス特派員が、「フランスの作家が書いた『ホーチミン評伝』を見ると、ホーチミンは最も尊敬する人物として茶山を挙げた。 彼は『牧民心書』を読んで、体が震えるほどの感動を受けたという。 そしてこの本から霊感を得て、ベトナムを引っ張っていく方向を定めたと告白した。 毎年、茶山の命日にはチェサ(法事)まで執り行なったというから、彼の尊敬する心がどれ程かを推察できる」という記事を書いた。 なおフランスの作家が書いたという『ホーチミン評伝』の所在について、この特派員記者は15年後の2019年に問い合わせされた時に「忘れた」と回答している。

・2004年:7月  茶山研究所パク・ソクム理事長はHPで、「ホーチミンの枕元には『牧民心書』がいつも置かれていたという。 茶山の命日まで知っていて、毎年チェサ(法事)を手厚く執り行なっていた」と記した。 丁若鏞の専門研究機関までもがトンデモ話を持ち出した。 トンデモ話に更なるお墨付きを与えたのである。

・2005年:  丁若鏞の生地である韓国の南揚州市とホーチミンの故郷であるヴィン市との間に、姉妹都市が結ばれる。 このトンデモ話に基づいて、国際交流まで行なわれるようになった。

・2006年:  『聯合ニュース』は茶山研究所理事長とともにベトナムのホーチミン博物館を訪ねたところ、ウンウォン・ティ・ティン館長から「わがホーチミン博物館には『牧民心書』はない‥‥『牧民心書』に関連する主張は明らかに誤伝である」と言われたと記した。 これがトンデモ話を否定する最初の記事のようである。 しかしトンデモ話は鎮まることはなかった。

・2009年:  朴憲泳の伝記である『朴憲泳評伝』が発行される。 その中に「朴憲永はホーチミンに『牧民心書』を贈った。 この本は将来ベトナムの指導者になるホーチミンに生涯の指針になった。 ‥‥ 朴憲永が贈った『牧民心書』はハノイにあるホーチミン博物館に保管されていて、朴憲永は“親しき友”という意味の『朋友』と署名して贈った」と書かれていた。 実際にはホーチミン博物館は丁若鏞の『牧民心書』を保管していないし、過去にそんなものがあったとする記録も全く存在しない。 『朴憲泳評伝』はトンデモ話を検証せずにそのまま書き入れたようである。

・2017年1月:  丁若鏞の生地である韓国の南揚州市は、2005年に姉妹都市となったベトナムのヴィン市に援助して道路を作り、その道路名を丁若鏞の号から「南揚州茶山道路」と名付けた。 韓国のトンデモ話は、国際交流を進展させていった。

・2017年11月:  ベトナムで開かれた「世界文化エクスポ」に、文在寅大統領が開幕祝賀メッセージで「ベトナム国民が最も尊敬するホーチミン主席の愛読書が、朝鮮時代の儒学者である丁若鏞公が書いた『牧民心書』だということは広く知られている事実です」と書き送った。 世界では誰も知らないトンデモ話は、韓国では大統領までもが信じ込んで国家レベルの外交にまで利用された。 

・2018年以降:  大統領発言が契機になったのか、韓国のマスコミらはベトナムを訪問してファクトチェックを行ない、「虚偽」と判定したという報道が相次ぐ。

・2019年4月:  在ベトナム僑民雑誌の『グッドモーニング・ベトナム』が、茶山研究所のHP掲示板に「『牧民心書』とホーチミンとの関係」について問い合わせの投稿をした。 これに対して研究所は「ホーチミンが『牧民心書』を耽読したという話は根拠が全くない。 朴憲泳とホーチミンの牧民心書にまつわる逸話も確認できるものはない」と回答した。 しかしHPの“ホーチミンは牧民心書を愛読し丁若鏞のチェサ(法事)をしている”という文は削除されなかった。

・2019年11月:  茶山研究所のパク・ソクム理事長はローカル新聞で、「2004年の研究所HPにホーチミンと丁若鏞の関係について、『東亜日報』の記事を信じて書いたが、その根拠とされる『ホーチミン評伝』は見つからない、『東亜日報』記者に問い合わせたら“忘れた”という答えだった、あれを書いたのは自分の不覚であり間違いだった」と否定した。  なお理事長は2006年にホーチミン博物館を訪れた際に、丁若鏞関係の資料は一切ないことを確認していたにも拘らず、それを公表しなかった。 つまり2019年までの14年間、茶山研究所は韓国内でトンデモ話が飛び交っていることを黙認してきたのである。

 以上、年表風にまとめました。 ところで韓国ではこのトンデモ話を今でも信じて語る人が後を絶たず、ネットでも時おりそんな記事や映像が上がっています。 歴史の歪曲・捏造を正すには長い時間が必要ということですね。 (終わり)

  【追記】

 日本では東北文化学園大学の文慶喆教授が2016年に「この『牧民心書』はベトナムのホーチミンが愛読した本の一冊でもあった」と書いておられますね。https://www.tbgu.ac.jp/faculty/bl/kunimi-terrace/kunimi-blog/18914  文さんは韓国出身で、当時韓国に広がっていたトンデモ話を信じ込んでいたのでしょう。 これはトンデモ話が韓国以外で公表された唯一の例と思われます。 

ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(1) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/16/9717148

ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(2) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/21/9718240

ホーチミンと丁若鏞―韓国で広がったトンデモ話(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/09/26/9719415

日韓市民運動の悲観的記事-ハンギョレ新聞2024/10/04

 韓国で左派性向が強いとされる『ハンギョレ新聞』に、日韓の市民連帯の将来を悲観するちょっと異例な記事がありました。  https://japan.hani.co.kr/arti/opinion/51262.html

 『ハンギョレ』のキル・ユンヒョン論説委員が、韓国の「アジア平和と歴史研究所」と日本の「九州韓国研究者フォーラム」が共同開催する「学術大会」に出席しての感想です。 この学術大会の理念やこれまでの経緯を先ずは説明した後、次のように記しています。

しかしその後、状況はどんどん悪化していった。 毎年少なからぬ市民たちが会い、互いの考えを語り合っても、溝は大きくなるばかりだった。 ここで安倍晋三元首相(1954~2022)の名を取り上げずにはいられない。 日本軍「慰安婦」問題をめぐり韓日の立場がぶつかる中、「(日本の)子どもたちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」という安倍談話(2015)が出た。 それ以降、日本の首相はもう謝罪と反省を語らなくなった。尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が「屈辱外交」という厳しい批判を受けても2018年の最高裁(大法院)判決に対する「一方的な譲歩案」を提案したが、日本は応えなかった。おそらく最後まで応えないだろう。

一方で、日本の右傾化の流れに立ち向かい小さくも力強く抵抗してきた日本の市民団体は、後世がいない問題から、5年後も見通せない状況に追い込まれている。 国際情勢の悪化により、韓日を越え北朝鮮・中国を包括する民間交流はもはや遠い夢だ。 これがここ20年余り続いた東アジア市民交流の現実なのではないだろうか。

 『ハンギョレ』記事では、安倍談話(2015)以降「状況はどんどん悪化していった」「後世(後継者)がいない問題から5年後も見通せない状況に追い込まれている」と非常に悲観的な展望です。 歴史問題の市民連帯運動は、この「学術大会」の趣旨に賛同し参加した記者がこんな見通しを書いて記事にするくらいに追い詰められている、ということでしょうか。

 私が考えるには、そんな市民運動では若者が後に続いていこう思わないほどに魅力がなくて関心を持たれなくなっているからでしょう。 市民運動を続けてきた活動家や研究者たちは、お互いだけで話が通じ合う狭い関係のまま高齢化したという事情があったと思われます。

 記者は次のように言います。

行事が終わって訪れた居酒屋で、「日本にはもう期待できるものはない」と挫折する私に、日本のある友人は「あきらめてはいけない」と言った。「キルさん、私たちはまだ河野談話(1993)と村山談話(1995)を捨てていませんよ。あきらめたら、日本の右派の望み通りになってしまう」

 記者は「日本に期待できない」とまで言うのですが、日本の左派市民活動家が30年も前の河野談話や村山談話を持ち出して、「あきらめてはいけない」と慰めたといいます。 日本の左派リベラルは、「(日本の)子どもたちに謝罪し続ける宿命を背負わせるわけにはいかない」という安倍談話を否定できず、右派に対抗することだけを続けてきたようです。 これでは若い人は元気が出ないだろうし、ついてこないだろう、というのが私の感想です。 

 記者は最後に次のように言います。

安部が作り、尹錫悦が受け入れた「残酷な現実」をそのまま受け入れるわけにはいかない。そうだ。これからも力の限り書き、考え、抵抗するしかないのだ。

 最後になってやっと『ハンギョレ新聞』らしい記事になりました。 しかし歴史問題で日韓の連帯を続けてきた運動は、やはり縮小していくのでしょうねえ。