朝鮮人陶工の歴史(1)―こうして歴史は作られる2024/07/15

https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962 の続きとしてお読みください。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役―韓国では〝壬辰倭乱・丁酉再乱″)の際に、鍋島や島津などの日本軍は朝鮮人陶工を連行し、自領で陶磁器を焼かせたという歴史が語られており、最近映画まで制作されています。

 ところで鹿児島の沈壽官について、韓国の『ハンギョレ新聞』が通説・俗説を批判する記事を出しました。 2023年12月12日付けで日本語版が出ています。 https://japan.hani.co.kr/arti/culture/48627.html  記事のタイトルは次のようです。

日本に拉致された「ある朝鮮人陶工の神話」…真実は本貫も族譜もわからない

ノ・ヒョンソクの時事文化財_拉致された陶工の神話を探る(1)

 この記事の中で注目すべきことは、『ハンギョレ新聞』は第15代沈壽官さんを取材し、その際に次のような質問と応答があったことです。

―沈壽官先生の先祖は朝鮮で陶器を作っていた職人だったのでしょうか。 それとも白磁を作っていた職人だったのでしょうか。

「日本に来た私の先祖の1代目の職人(沈当吉)は陶磁器を焼いた人ではないと考えています。 陶磁器も土器もどちらも作っていなかったようです」

 沈さんの初代先祖は陶工ではなかった、ということです。 それまで薩摩焼の起源は、〝島津軍が朝鮮人陶工を連行してきて陶磁器を焼かせた″ことから始まるという話だったのですが、それとは明らかに違っています。 ですから記者と同行した教授らは驚きました。

全く予想できなかった返事が返ってきた。7月29日、九州の鹿児島県みやま市にある陶芸家の沈壽官さんの窯の作業場の会議室で開かれた沈さんとの対談の場は、パン・ビョンソン教授の調査団のメンバーを当惑させ疑問を持たせた。

 『ハンギョレ新聞』は沈さんの発言に対して「全く予想できなかった返事」「当惑」「疑問」と驚いています。 ところが沈壽官窯の公式HPにある「沈家のあゆみ」には次のように書かれています。 http://www.chin-jukan.co.jp/history.html

「慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の二度目の朝鮮出征(慶長の役)の帰国の際に連行された多くの朝鮮人技術者の中に、初代 沈 当吉はいた。 ‥‥見知らぬ薩摩(現在の鹿児島)の地で、祖国を偲びながら、その技術を活きる糧として生きていかねばならなかった。 陶工達は、陶器の原料を薩摩の山野に求め、やがて薩摩の国名を冠した美しい焼物「薩摩焼」を造り出したのである。」

 これを読めば、沈壽官家の初代(一世)である沈当吉は朝鮮で陶磁器を焼く陶工技術者で、その技術を持ったまま日本に連行された、と思うでしょう。 しかし当の子孫がそれを否定したのでした。 沈当吉は最初から陶工ではなかったというのです。 さらに沈さんは話を続けます。

「土器や陶磁器を作った人たちは姓もない賎民でした。 先祖の沈当吉には姓があり、幼い頃には讃(チャン)という名前もあったそうです。 400年前の朝鮮では姓を持つ人は一部だったと思います。 当時鹿児島を支配していた島津一族の軍が釜山(プサン)で捕らえて連れてきた捕虜をキンカイ、つまり『金海』と呼んでいました。 人の名前の代わりに釜山近郊の金海(キムヘ)の地名で呼んでいましたが、後にこれが彼らの姓になりました。 私たちの先祖は初代は陶工ではなかったと私は考えています。 焼き物(陶磁器)はここに来てからするようになったようです。 陶工が幼名を持っているなんてありえませんから」

 沈さんは、〝土器・陶磁器を作る人は「賤民」であって姓がなかった、しかし自分たちの初代である沈当吉には姓があり幼名もあった、 だから初代は賤民ではなく、もっと身分が高かった、そんな身分の高い人間が陶磁器を焼くはずがない″と話したのです。 彼は「私たちの先祖の初代は陶工ではなかったと私は考えています」と言い、陶磁器を焼くようになったのはそれ以降の世代だと語ったのでした。

 この沈さんの話が本当だとしたら、朝鮮の陶磁器は日本の薩摩焼の歴史につながりません。 薩摩焼は沈壽官家の二代目以降に新たに窯を開き、陶磁器を焼いたことになりますから断絶しています。 薩摩焼は「朝鮮をルーツに持ち‥‥」という説が広まっていますが、当の子孫がそれを否定したのでした。

 なお『ハンギョレ新聞』の記事では、「彼の発言は、日本国内の朝鮮人拉致陶工の本貫と現地への到着の経緯、作業活動の性格について、両国の学界とメディアでもう少し綿密かつ深層的な事実の探査が必要だということを示唆している」と、冷静にまとめています。

 沈さんがこのように発言するようになったのは、彼の先祖ルーツ探し活動と関係があるようです。 記事にはこうあります。

何よりも最近の沈さんの活動で目を引くのは、先祖のルーツを訪ねたことだ。昨年5月、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領の就任式に招待された際、青松の沈氏の宗親たちに会い、金浦に先祖の沈当吉の父親の沈友仁(シム・ウイン)と祖父の墓地があるという話を伝え聞き、その年の7月に礼服を着て墓前に行き、法事を行い子孫であることを告げたのだ。

昨年と今年にかけて、本貫だと明らかにした慶尚北道青松(チョンソン)と、先祖の沈当吉が拉致されたという全羅北道南原、先祖の墓があるという京畿道金浦(キンポ)などの地を訪問し‥‥

 青松沈氏といえば、李朝時代に領議政(日本の太政大臣に当たる)を10人も出すのほどの権勢家で、両班(ヤンバン)中の両班です。 沈壽官さんはこの名門両班に列せられたのです。 両班は貴族階級なので、汗水流すような肉体労働を絶対にしてはならないものです。 しかし陶工はそれこそ汗を流しながら窯を焼くのですから、両班がする仕事ではありません。 それは賤民がするものでした。 

 ところが沈壽官家は両班に列せられたのですから、初代の沈当吉は両班でなければならず、賤民の陶工であっては困るわけです。 ここで上記の沈さんの発言が理解できます。 〝陶工は賤民であるから、両班である我が沈壽官家の先祖が陶工であったはずはない″という主張なのです。

 それでは、沈壽官家はいつ両班なったとされたのか。 それは次の記事で判明します。

青松の沈氏一族は数年間隔で族譜を再刊行しているが、2000年に発行された「庚辰譜」の族譜では言及されていなかった沈当吉が、2017年の族譜「丁酉譜」には、義禁府の都事などを担った沈友仁(1549~1611)の息子である讃の最初の名前として突然登場する。

 「族譜」とは「家系図」のことで、朝鮮では両班の族譜に登載されるとその宗族の一員となって両班になります。 つまり沈壽官家はほんの7年前の2017年に両班である青松沈氏の族譜に登載されて、両班階級の仲間入りをしたのでした。 

 それでは沈壽官家が青松沈氏であったというのは、どんな根拠に基づいているのか、です。 記事はこう書いています。

先祖が南原など朝鮮で活動した経歴について言及していた内容は、一族の口伝と陶工の沈当吉が拉致された朝鮮の本来の居住地を南原とした著名な作家の司馬遼太郎の小説『故郷忘じがたく候』以外には明確な根拠は見いだせない。 ‥‥本貫が青松で、南原で先祖が活動し、金浦に先祖の墓があることを示す朝鮮時代や日本の江戸時代の客観的かつ明確な記録と物証は存在しない。

 つまり根拠は、明確なものとしては司馬遼太郎が1968年に発表した小説『故郷忘じがたく候』だけなのです。 小説ですから、いくら歴史とはいえフィクションです。 56年前のこの小説が根拠となって、沈壽官家は7年前の2017年に両班階級に上り詰めたのでした。 

 そして『ハンギョレ新聞』は、取材に同行したパン教授の指摘を記します。

パン教授は「戦闘中に捕虜になった貴族階級の武官が日本に連行され、身分の低い陶工にすぐに転業した後、新たな技術を習得して原料を見つけて難易度の高い白磁を作りあげたという話は、常識的には不可能なことであり、日本のどの記録にもみられない」としたうえで、「いかなる歴史的物証も見当たらないにも関わらず、沈壽官一族の1~15代目を青松沈氏の族譜に唐突に編入させたことも納得できないこと」だと指摘した。

 確かにこの疑問というか批判は当然です。 『ハンギョレ新聞』は記事の最後で、次のようにさらに厳しく批判します。

検証された根拠もなしに族譜に先祖の系譜を入れるなど、事実を加工しているという疑惑を呼んでまで神話を作りだすことは、後世に耐えがたい歴史的混乱を招くことになりうる。

 この批判は正論だと考えます。 こうして朝鮮人陶工の歴史は作られるのでした。 (続く)

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(1)https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/06/28/9696684

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/05/9698602 

壬辰倭乱後、祖国に残った朝鮮陶工たち(3) https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/07/10/9699962