日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(5)2020/02/25

 今、韓国では新型コロナで大騒ぎです。 保守系新聞の『朝鮮日報』はここぞとばかりに文政権を鋭く批判し、進歩系=政権側の『ハンギョレ新聞』はちょっと分が悪いようですね。 大統領は肺炎拡大を抑え込むのに成功したと自信満々に言っていたのに、数日の間で大逆転。 保守・進歩の対立がこれからどうなるのか、対岸の火事ですが興味深いものです。

 今回は『反日 種族主義』第17章の前半です。

17、「乙巳五賊」のための弁明     金容三

李完用は売国行為で名前を汚した人間です。 しかし大韓帝国滅亡のすべての責任を、特に乙巳条約の責任を李完用と「乙巳五賊」に帰することは正しくないと考えます。 乙巳条約の締結は、当時の皇帝であった高宗の決定があったためです。 その話を今からきちんと解説しようと思います。

李完用は1897年9月のロシア軍事教官招請に反対して、学部大臣から平安南道の観察使(長官)に追放されました。 その後、父親が死亡すると二年間の喪に服すなど、在野人として生活していたところ1904年11月に宮内部の特進官に任命されて、官職生活を再開しました。 当時の大韓帝国は甲午改革で何とか近代的改革を推進していたのですが、すぐに以前の状態に戻りました。 皇帝の専制権が強化されて、全ての政事が皇帝中心に執行されたのでした。 その外では日露戦争が真っ最中で、日本とロシアが国運をかけた対決をしていました。 日露戦争勃発の二週間後である1904年2月23日、日本は大韓帝国と一種の軍事同盟に当たる「日韓議定書」に調印しました。 この条約の締結によって、日本は戦争遂行のために必要だと判断する場所は、韓国政府の同意なく韓国領土のどこでも収用することができるようになりました。

8月22日には「第一次日韓協約」が締結されました。 この協約によって、日本政府が推薦する人を大韓帝国政府の財政顧問と外交顧問に任命し、彼らが大韓帝国の財政と外交を日本政府と協議して処理することになりました。 大韓帝国という独立国家は皮だけが残り、事実上日本の保護国にしたのです。

1905年3月10日、日本が奉天戦闘で辛勝し、5月29日には日本海海戦で日本連合艦隊がロシアのバルチック艦隊に大勝を収めました。 この海戦で、事実上日露戦争は終了しました。日本は7月27日にアメリカとタフト-桂協約を結び、8月12日に第二次日英同盟を結びました。 これを通して日本は大韓帝国を保護国とすることに、アメリカとイギリスの同意を得ました。

正常的な外交手続きを無視した高宗の条約締結

9月5日、ポーツマス講和条約が締結されロシアが朝鮮半島から手を引くと、日本は伊藤博文を特使として大韓帝国に派遣しました。 大韓帝国の外交権を剥奪する条約を締結しろという訓令を受け、11月9日にソウルにやって来た伊藤は、日本の首相を何回か歴任した、日本を代表するベテラン政治家でした。 11月10日、徳寿宮で高宗に謁見した席で、伊藤は高宗に日本の天皇の親書を渡しました。 親書には「東洋の平和と韓国の安全のために、日韓の両国は親善と協調を強化せねばならず、韓国が日本の保護を受け入れても韓国王室の尊厳は少しも毀損されないこと」という内容が書かれていました。

11月15日午後3時30分、伊藤はまた高宗に謁見し、大韓帝国の外交権を日本に渡す条約を締結することを要求しました。 外国と条約を締結するためには、厳格な外交的手続きがあります。 該当国の公使がまず韓国の外交部署と交渉して、外交部はこれを協議した後、皇帝の裁可をもらって調印するのが正常な順序です。 伊藤はこのような外交的プロセスを完全に無視して、大韓帝国皇帝高宗に条約文を直接出しておいて、締結を強要しました。

この日、伊藤は「東洋の平和を永久に維持するためには、韓国の対外関係を日本に任せることが不可避である。 日本の目的は、ただ東洋平和、韓国王室の安泰と尊厳を維持するだけで、他の意味はない。 内政は自治に委ねるのであるから、皇帝陛下におかれてはこれからも韓国を治めることには何ら変わりない」と懐柔しました。 高宗は「日本に外交権移譲することを拒絶しているのではない。 ただ外交権の形式だけでも残してくれ」と何度も要請しました。 伊藤は、「この条約は絶対に変更できません。 同意するのか拒絶するのかは皇帝陛下の自由だが、もし拒絶する場合、韓国は大きな混乱に陥ることになるという事実を覚悟せねばならない」と脅しました。

結局、高宗は「外交大臣の朴濟純と林権助公使の間で交渉が終われば、議政府の会議で決定します」と責任を内閣に押し付けました。 こうようにして伊藤は11月16日午後4時、韓国政府の閣僚と元老大臣を自分の宿所であるソンタクホテルに招集して「今度の条約案は絶対に変更できない。 ただし字句表現等の些細な問題は協議が可能だ」と融和策を提示しました。 次の日である11月17日午前11時、参政大臣の韓圭卨以下、大臣8人が日本公使館に集まって条約交渉のための会議を開きました。 しかし、どの誰も意見を出さずに顔色ばかりを窺っていると、林公使は時間の無駄だと判断し、大臣たちと一緒に宮城に行き、高宗の謁見を要請しました。

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(1) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/12/9200912

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(2) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/21/9204587

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(3) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/01/26/9206635

日本語版『反日 種族主義』で抜け落ちた章節(4) http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/02/05/9210404

 これを読んで内容がチンプンカンプンでよく分からないという人は、歴史を勉強してくださいね。 この時期の歴史は、色んな立場で色んな歴史観から解説されています。 『反日 種族主義』もその一つです。 この本を批判するものも含めて、できる限り論文や専門書も読むようにしてくださいね。

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