梁泰昊さんの思い出― 活動家と一般人との結婚2020/06/01

 梁泰昊(ヤン・テホ)さんといっても、今は知る人がほとんどいないでしょう。 1970年代後半から90年代にかけて、主に民族差別と闘う運動で活躍していた方でした。 いくつか本を出しておられますが、『釜山港には帰れない』が比較的よく売れた本だったようです。 また確か岩波の雑誌『世界』にアグネス・チャンとの対談が載っていたはずです。 何というミスキャストか!と、ビックリした記憶があります。 

 この方の思い出話をします。 プライベートな話になるのですが、彼はその方面では有名人であり、また20年以上前に亡くなられているので、今は名前をそのまま出しても構わないと思います。 しかしご家族はおそらくご存命でしょうから、名前は明らかにせずにイニシャルだけにします。

 私は1970年代後半に梁さん出会いました。 その時彼は大学時代に知り合った在日女性Sさんと結婚し、大阪近郊に住んでおられました。 彼はその地域で差別と闘う活動に邁進していましたから、私はその女性も活動家だと思っていたらそうではなく、ごく普通の一般女性でした。 これまで一生懸命勉強したらしく、かなり知識豊富な方でした。

 梁さんは自分の講演なんかに妻のSさんを連れてきて、活動を理解させようとしていました。 そういう時期に私はSさんと話す機会がありました。 その際に、梁さん一家の家庭内でどのような話が交わされているか、その一端を知ることになったのです。

 Sさん曰く、「主人から聞いたんですが、大阪って怖い所でしょ。 朝鮮人だからといって差別する人が一杯いるんでしょ。 私が育ってきた北海道はそんなことは全然ありませんでした。 もうすぐ子供ができるというのに、そんな怖い所に住むなんて。 主人には一緒に北海道に帰りましょうと言っているのですが‥。」

  梁さんは、日本は差別社会である、だからこそ我々は闘わねばならない、その闘いをこの地域から興すのだという民族差別と闘う活動の理念をSさんに教えていました。 しかしSさんはその活動を理解できず、なぜ差別のある所に家族を住まわせるのかという疑問を抱くばかりでした。

 そうすると活動家の梁さんは、日本社会がどれほど酷い民族差別であるかについて地域の事例を引いて強調し、だからこそ闘うのだと主張し、闘志を燃やします。 しかしSさんはこの地域にそれほど酷い差別があると聞いてビックリし、ますます不安になっていきます。 私は梁さん一家のこういう家庭内事情を知ったのでした。

 やがてCちゃんという可愛い女の子が生まれました。 一方梁さんは、今度は天皇制こそが民族差別だと主張を始め、その講演に家族を来させました。 SさんはCちゃんを抱っこしながら講演を聞いておられました。 終わってから私はSさんから話を聞きました。 曰く「天皇制がなぜ民族差別なのか、さっぱり分からない。」

 やがて梁さんとSさんは離婚したという噂が聞こえてきました。 なんでも梁さんがSさんを殴ったのが直接の原因だったということです。 私はその時、あの梁さんならそんなことはあり得るだろうなあと思ったものでした。

 民族差別に反対する運動はその活動を正当化するために、差別の実態が過酷であることを繰り返し強調します。 過酷であればあるほど、つまり在日の差別被害が大きければ大きいほど、闘いの正当性が増していくと考えるからです。 活動家は闘いが目的ですから、こうなる傾向になっていきます。 しかし一般の在日にとっては、特に家庭を預かる女性にとっては、過酷な差別があって自分たちが被害を受けるような場所には住みたくないし、安心して暮らせる所で生活したいとなります。

 同じ在日といっても、活動家と一般人とではこれ程に大きな違いがあります。 梁さんとSさんのすれ違いは、ここにあったと私は考えています。

 活動家が結婚するには相手方も活動家であるのがいいだろうし、そうでなければ活動を止めるのがいいということですね。

黄光男さんの思い出2020/06/11

 6月1日付の「梁泰昊さんの思い出」と題する拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/01/9252979  のコメント欄で、次のように書きました。

ついでに書きますと、地域活動をしていた時期に彼が指導していた若者が、黄光男(ファン・クァンナム)さんです。 去年でしたか、ハンセン病家族訴訟の第一審判決で勝訴し、安倍政権側が控訴を放棄したことが話題になりました。その時の原告団の副団長だった人です。

 ここで出てきた黄光男(ファン・クァンナム)さんの思い出話をします。 彼は昨年ハンセン病家族訴訟の原告団副団長としてテレビに何度も登場し、新聞にもその名が書かれた有名人ですから、ある程度のプライバシーを書いてもいいと考えます。

 彼は1970年半ば以降に、民族差別と闘う運動団体(民闘連)に参加し、地元の子供会活動をしていました。 その子供会には韓国・朝鮮人の子供たちが集まっており、彼は子供たちに本名を名乗らせて、民族を取り戻させようと一生懸命活動していました。

 ところで彼のお母さんは李さんで、この方が元患者さんでした。 1970年代までには完治して療養所を出ておられました。 なかなか気さくな方で、私は時おりお家を訪問したことがあります。 このお母さんからご飯を食べにおいでと誘われて、何人かの仲間とお邪魔したことがありました。 そこでは黄さん一家の様子を見ることになります。

 その時、お母さんが息子の黄さんに「光男(みつお)ちゃん、これ食べるか?」と優しく言うのを聞きました。 それまで彼は光男(クァンナム)と名乗っていたし、周りもみんなそう呼んでいたので、お母さんが彼を「光男(みつお)ちゃん」と呼ぶのに、ビックリしました。

 そして息子の黄さんが今度結婚する相手の家が済州島出身だという話になった時に、お父さんが「済州島というのは北鮮系が多いからなあ」とポロっと言ったのにもビックリしました。

 終わってその家から帰る道すがら、仲間の一人が「クァンナムは民闘連の活動家と違うんか。 子供会で朝鮮の子供らに本名を名乗れと言っているんだろ。 なのに自分の親から『光男(みつお)ちゃん』と呼ばれて素直に返事するなんて、笑ってしまったで。」と言いました。

 そして別の仲間が「お父さんが『北鮮』と口に出していたけど、民闘連では『鮮』は差別語で使ってはいけない言葉じゃないのか。 一体あの運動はどうなっているのか?」と言いました。

 民族差別と闘う運動(民闘連)は民族差別で日本社会を糾弾していましたが、自分たちの身近なところは全く念頭になかった運動だったと言えます。 言いかえれば、自分のことを棚に上げる、外には厳しく内には甘い、外に向かって言っていることと内でやっていることが違う、ということですね。

 そう考えるようになった契機が、あの時に黄さんの両親が発した言葉だったと、今は思い出されます。

 ところで黄さんのご両親は10年ほど前にまことに不幸な亡くなり方をされました。 今はご冥福を祈るのみです。

対北ビラ散布風船の費用―詐欺なのか2020/06/19

 6月16日に北朝鮮が南北連絡事務所を爆破したことで、朝鮮半島がまた騒がしくなっています。 この契機となったとされるのが、脱北民団体が北朝鮮に向けて飛ばしたビラです。 大きな風船に大量のビラをぶら下げて飛ばし、北朝鮮に到達したところで落下させてバラ撒くというものです。 あの風船には一体どれくらいの費用がかかっているのか気になっていたのですが、6月15日付けのハンギョレ新聞に次のような記事がありました。    http://japan.hani.co.kr/arti/politics/36947.html

「米保守系団体が対北朝鮮ビラ活動に援助」…「金儲けの手段」利用疑惑

対北朝鮮ビラは、先月31日に自由北韓運動連合が撒いたものだ。パク・サンハク氏が率いるこの団体はその日、ビラ50万枚、小冊子50冊、1ドル紙幣2000枚、携帯用保存媒体(USBメモリ)1000個を大型風船にぶら下げて飛ばした。

別の対北朝鮮ビラ団体「対北風船団」のイ・ミンボク代表も、「風船を1回飛ばすのに原価は10万ウォン(約8920円)ほどにすぎないが、パク・サンハク代表は1回につき150万ウォン(約13万4000円)、300万ウォン(約26万8000円)の援助を要求している」と非難した。

 風船は一回に10個ほどを飛ばすものですが、その費用が8920円だそうです。 へー!そんなわずかな費用で出来るのか!とビックリした次第。

 翌17日付で、その続報でその内訳が出ました。   http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/949625.html 

‘개당 150만원’ 삐라풍선 원가 12만원…살포 경험 탈북민 “완전 사기”

폭 1.8m, 높이 12m가량의 풍선 제작에 드는 비닐값은 하나에 2500원입니다. 비닐 절단 비용은 750원, 풍선 운반 차량의 유류비는 1개당 환산하면 5000원입니다. 풍선에 주입하는 가스 비용이 3만원, 일정 시간 뒤에 풍선을 터뜨리는 장치(타임기) 비용이 3000원 수준입니다. 비용이 가장 많이 드는 항목은 사실 전단 제작비인데, 풍선 하나에 실리는 전단 6만장(7.5㎏)의 가격은 3만7500원이었습니다. 홍씨는 상세 비용을 공개하며 “(일부 대북전단 살포 단체가) 12만원 정도의 대북 전단비를 150만원으로 뻥튀기를 해서 돈을 받는 중이다”라고 다시금 의혹을 제기했습니다.

 訳してみました。 なお「ウォン」は1000ウォン=90円で計算しました。

「一個当たり150万ウォン(13万5千円)」のビラ、原価12万ウォン(1万800円)‥‥散布経験の脱北民「完全な詐欺」

幅1.8m、高さ12mくらいの風船にかかるビニールの値段は、一個に2500ウォン(223円)です。 ビニール切断費用は750ウォン(約68円)、風船運搬費は一個当たりに換算すれば5000ウォン(450円)です。風船に注入するガスの費用が3万ウォン(2700円)、一定時間後に風船を落とす装置(タイマー)の費用が3000ウォン(270円)の水準です。 費用がもっともかかる項目は実はビラの製作費なのですが、風船一つにビラ6万枚(7.5㎏)の価格は3万7500ウォン(約3400円)でした。ホン氏は詳細費用を公開して「(一部の対北ビラ散布団体が)12万ウォン(1万800円)程度の対北宣伝費を150万ウォン(13万5000円)に大きく膨らませてお金をもらっているところです。」と再び疑惑を提起しました。

 この記事の添付写真には、これ以外に車のガソリン代6000ウォン(540円)、ビラの分離作業費1万2500ウォン(約1100円)、ビラの袋詰め作業費3750ウォン(約340円)、風船の飛ばし作業費3人分1万8000ウォン(1600円)、食事費3人分3000ウォン(270円)、広報費3773ウォン(340円)が挙げられており、合計12万ウォン(1万800円)と記されています。

 「ビラの分離作業」というのはおそらく、印刷されたビラは束の塊で納品されるので、空からビラを撒くためにこれを一枚一枚分ける作業のようです。 それはともかく、風船を飛ばす費用が15日の記事では「10万ウォン(約8920円)」とあるのは、一回当たりではなく1個当たりであり、しかも17日の記事の内訳をみると「12万ウォン(1万800円)」と膨らんだ数字になることが分かりました。

 ところでこの内訳を見て疑問に思うのは、ビニールの切断費があっても、それをつなぎ合わせて風船にする接着費がないことです。 ガス漏れを起こさないようにビニールを接着していくのはちょっとした技術と道具と手間が必要だと思うのですが、何故かありません。 さらに風船、ガスボンベ等を運ぶ車のガソリン代は計上されていますが、車の借り上げ賃や運転費がありません。 

 それから6月15日付けの記事にある、風船に積まれているはずの「小冊子50冊、1ドル紙幣2000枚、携帯用保存媒体(USBメモリ)1000個」が計上されていないこと。 これを私なりに計算してみますと、次のようになります。

 一ドル紙幣2000枚ですから2000ドル。これは約247万ウォン(約22万円)になります。 飛ばす風船は10個ぐらいですから、1個当たりにすると24万7千ウォン(約2万2千)円です。 また同時に積まれているUSBメモリー1000個の値段もないこと。 USBなんて、ギガ数の少ない超安物の中古品を大量買いしたら一個500ウォン(約45円)くらいでしょうから、1000個なら50万ウォン(約4万5千円)。 風船一個当たりにすると、5万ウォン(4500円)ですかねえ。 小冊子の方は値段の付けようがありませんが、印刷製本費が一冊500ウォン(45円)として50冊で2万5千ウォン(2250円)。

 ということで、私の計算ではドル紙幣代247万ウォンとUSB代50万ウォン、小冊子代2万5千ウォンの計299万5千ウォン(約27万円)。 風船一個当たりにすると約30万ウォン(2万7千円)を更に追加する必要があります。

 6月17日付けの記事では風船の原価は一個当たり「12万ウォン(1万余円)」だということになっていますが、私の計算では上述の30万ウォンを加えて42万ウォン(約3万8千円)、さらにビニール接着費や車の借り上げ費等、その他私の見落としもあるでしょうからそれも加えて50~60万ウォン(4万5千万~5万4千円)くらいが実際の原価になります。 なおこれは私のまことに勝手な計算ですが、当たらずとも言えども遠からず、と考えています。

 これ以外に通信連絡費や消耗需要費、交通費等々の現場経費、事務所維持費、人件費等々なんかも加えれば、ビラ散布する脱北民団体が一個当たり150万ウォンだと言うのは、それほど不当なものとは思えないのですがねえ。

 ハンギョレ新聞が「完全な詐欺」だとするには疑問を抱いた次第です。

黄光男さんの思い出(2)2020/06/25

 ハンセン病家族訴訟原告団の副団長だった黄光男(ファン・クァンナム)さんは、1970~90年代に民族差別と闘う団体(民闘連)の活動をしていました。 90年代には民闘連の地域代表にもなっていました。

 当時の彼がいつも言うことは、‘自分たちは在日であって韓国人ではない、だから韓国語を勉強する必要はない’ということでした。 実際に彼の韓国語の実力はごく初歩で止まっていて、それ以上学ぼうとすることは全くと言っていいほどありませんでした。 ハングルの字面はちょっと読めるがパッチムは出来ない、そして単語の意味は分からないという状態が長年続いていました。 今もおそらくそうだと思われます。

 「民族」を前面に押し立てて活動する運動団体に所属しておきながら、民族にとって一番重要なはずの言葉を知らないし、覚えようともしない。 そして民闘連に参加したある在日女性が‘今韓国語の勉強に行っている’と言うのを聞いて、‘そんなこと、する必要はない’とかなり強調して言っていましたねえ。 これは私が直接聞いた言葉ですから、確かです。

 結局彼は、本名を名乗りしかもその名前をハングル風に読むということだけで、在日の「民族性」を主張していたのです。 「ハングル風に読む」と書きましたが、彼はハングルの正確な読み方が出来ず、そのカタカナ表記をそのまま読むしかなかったということです。

 民闘連に参加していた在日たちは、彼のようなタイプが多かったですねえ。 彼らは日本社会から差別されているということだけで「民族」を感じるようになります。 差別はどこかにあるはず、それを見つけ出して闘争を行なって「民族」を取り戻すのだ、という考え方になります。 私には馴染めるものではありませんでした。 

 その頃に私は『「民族差別と闘う」には疑問がある』(1993年)を自費出版しました。 黄さんは「ここの民闘連の代表が誰か知っているか。この僕や。この僕に断りもせずに、何であんな本を出したのか」と、えらく怒っていました。 もう25年以上も前の話です。

【拙稿参照】

 黄光男さんの思い出  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/11/9256337

元在日商工人の思い出話―拷問体験2020/06/30

 6月29日付の『朝鮮日報』に、「在日僑胞スパイ事件、再審で43年ぶりに無罪=ソウル高裁」と題する記事が出ました。 http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/06/29/2020062980043.html  1970年代に在日僑胞実業家が韓国でスパイ容疑に逮捕された事件です。 これを読みながら、以前にある在日のお年寄り体験談を思い出しました。

 その方はいわゆる在日韓国商工人で、私と出会った時はもう引退されていて、アパート経営と年金で悠々自適の生活をしておられました。 その方が「韓国で、スパイ容疑で捕まって拷問されたことがある」とおっしゃったので、ビックリしてもう少し詳しい話を聞かせてもらったのです。

 彼は1970年代当時かなり手広く商売をしていたそうで、韓国にも手を伸ばしていました。 韓国にはしょっちゅう仕事で行くようになったそうです。

ホテルでキーセン(妓生)と寝ていたら、夜中の二時頃にドアを叩く音がして、何かと思って出たら、黒ずくめの服でサングラスの男が二人ほど部屋に入ってきて、直ぐに荷物をまとめろと言う。一体何事かと聞いても、何も答えない。 余りに威圧的で、仕方なく荷物をまとめて、その男たちについて行って車に乗せられた。 どこかの建物に着くまで、男たちは何も言わない。 しかし見るからに怖くて、こちらもじっと黙って従うしかなかった。

建物に着いてある部屋に入ると、いきなり素っ裸にされて、膝に棒をかまして固定された。 そうすると中腰になるしかなく、立つことも座ることも出来なかった。 何が何やらさっぱり分からず、その姿勢で殴って蹴られるしかなかった。 その時、生まれて二・三ヶ月しかならない生まれたばかりの子供と、ヨメさんの顔が頭に浮かんだ。

その素っ裸で中腰の姿勢で、取調べが始まった。 最初は何を言っているのか、さっぱり分からなかった。 そのうちに聞いたことのある名前が出てきた。 民団の商工会にいた人の名前である。 向こうはその人との関係をしつこく聞いてきた。 その時にようやく、その人が北のスパイで、自分がその仲間でないかと疑っていることがようやく分かってきた。

その人は名前を知っているだけで、会えば挨拶ぐらいはしたかも知れないが、何か話をしたことはないと言った。 そして当時の民団の商工会の知り合いの名前を出来るだけ出して、その人らに確かめてくれと言った。 次に彼らはある在日の名前を出して、その人を知っているかと、これも何べんも聞いてきた。 何という名前だったかなあ。 有名なスパイらしい。

 私は「ソ・スンですか?キム・チョリョンですか?」と尋ねた。 「いや、そんな名前ではなかった」。 「当時の言い方からして、じょ・しょう(徐勝)ですか?それとも‥‥」 「あ、それそれ、じょ・しょう、その名前。 その人のことを聞いてきたんだ」。 「その方は今は立命館で教授をやっておられますよ。」 しかしそれには関心がないようで、すぐに話題が変わりました。

結局、三・四日して疑いが晴れたとして、釈放されたんですよ。そうしたら、ちょっとした料亭に連れていかれて、そこで会食しながら、これまでのことは外で喋ってはいけないと言われたのだけれど、もう何十年も昔のことだから、もう時効だね。 だから喋るんです。

それから直ぐに、あのキーセンのところに行ったのです。 深夜に連れて出されて、三・四日で戻ってきたというので、キーセンもママも驚いていたなあ。 キーセンは黒ずくめの男から、このことは外で絶対に言ってはならないと、きつく口止めされたと言っていましたねえ。

 大体こんな話でした。 印象的だったのは拷問の話もそうでしたが、結婚して子供が生まれたばっかりなのに韓国でキーセンと一緒に寝ていたという話を、恥ずかしげもなく言っておられたことでした。 おおらかと言うか何と言うか、昔の男はこんな感じの人が多いですねえ。

【拙稿参照】

徐勝さんは二回も北朝鮮に行った  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2017/12/23/8753413

水野・文『在日朝鮮人』(20)―南朝鮮革命に参加する在日 http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2016/09/08/8173965

最初の韓流ブーム  http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2018/08/06/8934724