黄光男さんの思い出2020/06/11

 6月1日付の「梁泰昊さんの思い出」と題する拙ブログ http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/01/9252979  のコメント欄で、次のように書きました。

ついでに書きますと、地域活動をしていた時期に彼が指導していた若者が、黄光男(ファン・クァンナム)さんです。 去年でしたか、ハンセン病家族訴訟の第一審判決で勝訴し、安倍政権側が控訴を放棄したことが話題になりました。その時の原告団の副団長だった人です。

 ここで出てきた黄光男(ファン・クァンナム)さんの思い出話をします。 彼は昨年ハンセン病家族訴訟の原告団副団長としてテレビに何度も登場し、新聞にもその名が書かれた有名人ですから、ある程度のプライバシーを書いてもいいと考えます。

 彼は1970年半ば以降に、民族差別と闘う運動団体(民闘連)に参加し、地元の子供会活動をしていました。 その子供会には韓国・朝鮮人の子供たちが集まっており、彼は子供たちに本名を名乗らせて、民族を取り戻させようと一生懸命活動していました。

 ところで彼のお母さんは李さんで、この方が元患者さんでした。 1970年代までには完治して療養所を出ておられました。 なかなか気さくな方で、私は時おりお家を訪問したことがあります。 このお母さんからご飯を食べにおいでと誘われて、何人かの仲間とお邪魔したことがありました。 そこでは黄さん一家の様子を見ることになります。

 その時、お母さんが息子の黄さんに「光男(みつお)ちゃん、これ食べるか?」と優しく言うのを聞きました。 それまで彼は光男(クァンナム)と名乗っていたし、周りもみんなそう呼んでいたので、お母さんが彼を「光男(みつお)ちゃん」と呼ぶのに、ビックリしました。

 そして息子の黄さんが今度結婚する相手の家が済州島出身だという話になった時に、お父さんが「済州島というのは北鮮系が多いからなあ」とポロっと言ったのにもビックリしました。

 終わってその家から帰る道すがら、仲間の一人が「クァンナムは民闘連の活動家と違うんか。 子供会で朝鮮の子供らに本名を名乗れと言っているんだろ。 なのに自分の親から『光男(みつお)ちゃん』と呼ばれて素直に返事するなんて、笑ってしまったで。」と言いました。

 そして別の仲間が「お父さんが『北鮮』と口に出していたけど、民闘連では『鮮』は差別語で使ってはいけない言葉じゃないのか。 一体あの運動はどうなっているのか?」と言いました。

 民族差別と闘う運動(民闘連)は民族差別で日本社会を糾弾していましたが、自分たちの身近なところは全く念頭になかった運動だったと言えます。 言いかえれば、自分のことを棚に上げる、外には厳しく内には甘い、外に向かって言っていることと内でやっていることが違う、ということですね。

 そう考えるようになった契機が、あの時に黄さんの両親が発した言葉だったと、今は思い出されます。

 ところで黄さんのご両親は10年ほど前にまことに不幸な亡くなり方をされました。 今はご冥福を祈るのみです。