『在日コリアンが韓国に留学したら』を読む(2) ― 2024/12/11
https://tsujimoto.asablo.jp/blog/2024/12/06/9737449 の続きです。
次にアイデンティティと大いに関係のある言葉です。 韓光勲さんが韓国に留学した目的は、韓国語の習得です。
僕は母語が日本語で、韓国語を勉強するために韓国に留学しに来ている。 (151頁)
僕は、韓国語を「取り戻したい」と思って韓国にやってきた。 (157頁)
(韓国語は)僕の母方の家族が一度失ってしまった言語。 父方の家族が話す言語だ。 それは母語でもなければ、単なる「外国語」でもない。 (158頁)
韓さんは自分の民族的アイデンティティを確認するために韓国語を勉強しておられるようです。 これは私のように外国語を趣味や教養でやる者とは違って、勉強の意気込みがすごいですね。 しかし彼が民族を取り戻すべくここまで思い入れて学んでいる韓国語は、本国の韓国人から評価されません。
(韓国での)飲み会の席で初めて会った30代くらいの韓国人女性に、英語でこう言われたのだ。 「Can you speak English? Because your Korean is not fluent. (あなた、英語を話せる? あなたの韓国語は流暢じゃないから)」 驚いてすぐに反応できなかったが、やがて怒りでワナワナ震えた。 こんな侮辱はない。 「あなたの韓国語は流暢じゃない」なんて一番言われたくない言葉だ。 おまけに「韓国語じゃなくて英語を話せ」と言われているのだ。(150~151頁)
韓国語のレベルは中級~上級くらいだと思う。 当時、語学堂では、上から2番目のクラスに所属していた。 韓国語能力試験の6級(最高級)合格したこともある。 その韓国人女性の言葉は、僕をバカにしているだけでなく、韓国語を学びにわざわざソウルにやってきた僕の人格を否定する言葉だと感じた。 在日コリアン三世として育った僕が、どんな思いで韓国語を勉強してきて、語学堂にいま通っているのか。 少しでも想像力を働かせてほしい。 とにかく悲しかった。 (151頁)
こうやって僕が学んできた韓国語を、韓国人から侮辱されるのはたまったものではない。 (158頁)
誰でもそうですが、成人になって外国語をいくら学んでも、なかなか流暢に話せるものではないです。 「韓国語能力試験の最高級」を合格したとしても「レベルは中級~上級くらい」「上から二番目のクラス」であるなら、本国の韓国人と対話したら「かなり違う」「流暢でない」と感じられてしまうのは当たり前でしょう。 しかし韓さんはそれを言われて、「僕をバカにしている」「人格を否定している」「侮辱されている」と反発を感じたと言います。
私のように日本人なら「ハングンマル チャラシネヨ(韓国語、お上手ですね)」と言ってくれますが、在日は同じ韓国人ですから「ハングギニンデ ジェデロ モタヌンガ(韓国人なのに、ろくに喋れないのか)」と言われることになります。 本国の韓国人は「民族を取り戻すために韓国語を勉強しています」と聞かされても、「韓国人のくせに」となってしまうようです。 韓さんが「少しでも想像力を働かせてほしい」と願っても、相手の本国韓国人は温かい目で見るのではなく大きな違和感を持つのですから、先ずは韓さんの方が「想像力を働かせる」べきではないでしょうか。
また韓さんは日本でも似た体験をしたと言います。
初対面の人に名前を名乗ると、「日本語が上手ですね」とか「日本には長く住んでいるのですか」と言われることがあるのだ。 もちろんイラッとする。 僕は古文が昔から得意だし、日本史はセンター試験ではほぼ満点だったし、今でも明治以降の外交文書や擬古文はすらすら読める。 ライターもしているし、「あなたよりも日本語能力は高いですよ」と思う。 生粋の大阪生まれで、関西弁をこんなにべらべら話しているのに、「日本に長くすんでいるか」なんて愚問でしかない。 (152~153頁)
初対面の日本人に「韓光勲(ハン・カンフン)」と名乗ると、その日本人には来日した外国人なのか日本で生まれ育った外国人なのか、区別がつかないものです。 そんな日本人が失礼にならないように思って口から出た言葉が「日本語が上手ですね」「日本に長く住んでいるのですか」なのでしょう。 「愚問」ではないし、悪気もないので「イラッとする」こともないと思うのですが‥‥。 日本で「韓光勲(ハン・カンフン)」と名乗ると相手の日本人はどう受け取るのか、これもまた先ずはご自分の方から「想像力を働かせればいい」のではないでしょうか。 なぜ他人に「想像力を働かせる」ことを要求するのか、ちょっと理解できないところです。
日本で「日本語がうまいですね」と言われるとき。 あるいは韓国で「あなたの韓国語は流暢じゃないから」と英語で話されるとき。 僕の心はやっぱり傷ついてしまう。 同じ社会に住んでいる人として対等に扱われない感覚。 いつまでも「よそ者」として仲間に入れてもらえない感覚。 そうした感覚を抱かせてしまう言葉 (157頁)
韓さんは、日本では喋りや身のこなし等はすべて日本人と同じなのに外国籍であるから「よそ者」扱いされ、韓国では同じ韓国人なのに言葉が流暢でないから「よそ者」扱いされる、だから「仲間に入れてもらえない」「対等に扱われていない」という感覚になるようです。 これは韓さん個人の感覚なのですが、そうならばどう行動すればいいのか、です。 だからこそ「仲間入り」しようと努力するのか、あるいはどうせ仲間入りできないのなら「よそ者」でも構わないとするのか、それともそんなことは何も考えないとするのか、「よそ者」扱いする日本人が悪いとして闘うのか、‥‥いろんな道が考えられます。 その道は韓さん自身が判断して選択すべきことだと思います。
在日コリアンは「社会の常識」を揺り動かす存在になれるとも思う。 もし「あなたは韓国人の名前なのになぜ日本語が話せるんですか?」と質問されたり、少しでもこういうテーマに関心のある人に出会ったりしたときは、「名前や言葉、国籍、民族、出身地って、本当にいつも一致するものなのでしょうか?」と逆に質問してみたい。 その人の常識を揺り動かしたい。‥‥ 新たに出会う人にそうやって質問していけば、僕の周りにいる人の持つ「常識」をちょっと変えることくらいはできる。 (167頁)
「名前や言葉、国籍、民族、出身地はいつも一致する」という「社会の常識」を揺り動かそうという韓さんの話は、世の中にはそういう “一致しない”外国人もいることを知ってほしいという点に限れば理解できます。 なお「出身地」は、韓さんの言うものと一般に使われているものとが少し違っているようです。
ところで「名前や言葉、国籍、民族、出身地って、本当にいつも一致するものなのでしょうか?」という質問に対して、私ならこう答えます。
「 “一致しない”つまり “韓国人なのに韓国語ができない”あるいは “まるで日本人なのに韓国人”であることで本人が納得しているのなら、『イラッとする』事態に我慢できるだろう。 しかし子や孫の世代までも我慢させることが果たしてどうなのか。 いつまでも “一致しない”状態を続けるわけにはいかず、将来のいつかは “一致する”方向に行くことになると考える。」 (終わり)
【在日に関する論考集(20年以上前のものです)】