在日は日本の「豊かさ」を直感した2007/04/01

>(なぜ朝鮮人は母国に帰還しなかったか。)これも答えは簡単だ。日本が豊かだと考えていた朝鮮人が多数いたし、事実そうだったということである。>

 終戦時の日本は、空襲や原爆によってほとんどの都市が壊滅状態でした。社会基盤の多くが破壊されてしまいました。  一方、朝鮮は空襲をほとんど受けておらず、社会基盤は残っておりました。

 従って戦後は、朝鮮は日本より物理的な「豊かさ」において、はるかに有利な状況だったのです。  にもかかわらず、在日朝鮮人たちは解放された祖国よりも日本のほうが「豊か」と考えたのは何故なのでしょうか。

 これは、朝鮮人たちは朝鮮半島に残っていた「豊か」な条件を活かすだけの社会体制を構築できないだろう、  日本人たちは日本列島においてその条件が不十分にも拘わらず、生産基盤を復興させるだけの社会体制を再構築することができるだろう、  在日朝鮮人たちはこのような民族性の違いを知っていたのではないか、と考えています。

 「豊かさ」は物理的条件ではなく、社会を構成する人間の質だと思います。  この違いが出てくるものは何か?に関心があるところです。

コメント

_ 黒糖焼酎 ― 2007/04/02 00:55

はじめまして。なんだか最近歴史絡みの日本政府糾弾のキャンペーンがはられてる観がありますが、実際の所どうなんでしょうか?
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『ウォールストリート・ジャーナル』紙3月27日号に掲載の評論によると、

  そもそもの起こりは日本政府・与党側の思惑だった、

というから驚いた。

 へぇ、おまえはそんなこともしらなかったのか、ですって?

 ごめんなさい。コラム子には初耳の話でした。

 同じく「初耳だぞ」という方だけ、おつきあいください。

 この号はあくまでウォールストリート・ジャーナル紙記事の紹介でしかなく、裏取り取材など一切しておりませんので、その点はご了承ください。


■ 表向きは赤十字が推進、ということで ■


 記事は、オーストラリア国立大学で日本史を教えている Tessa Morris-Suzuki 教授が書いた

93,340‘Returnees’(93,340名の“帰還者”)。

 Morris-Suzuki教授の近著“Exodus to North Korea: Shadows from Japan’s Cold War”(Rowman and Littlefield 社刊)を著者みずから要約したものだ。

 その内容、コラム子には衝撃的だった。

 もし掲載紙が『ニューヨーク・タイムズ』だったら、「慰安婦問題に加えて次はこれかよ」と思ったかもしれないが、『ウォールストリート・ジャーナル』に掲載となると信用度は高まる。

 Morris-Suzuki 教授によれば、国際赤十字委員会などから最近になって公開された文書を精査した結果、

昭和30年から日本の政府官僚および政治家が、在日朝鮮人の朝鮮国へ送り帰す計画を立てはじめたことが分かってきた、というのだ。

 発案には、芦田均(元首相)、岡崎勝男(元外相)なども関わっていたという。

 表向きは「帰還事業は赤十字が推進した」ことにした。人道上の事業として。

「困窮して共産主義に染まりつつある何万人もの在日朝鮮人を追い払ってしまおう」という真意を隠すためだった、と当時の赤十字関係者が語っている、と Morris-Suzuki 教授は書く。


■ ほんとに帰還したかったのは2千人たらず ■


 昭和31年から32年にかけて、日本赤十字が朝鮮赤十字と秘密裏に接触し、朝鮮国政府が在日朝鮮人の大量受け入れを行うよう要望を出す。




TITLE:国際派時事コラム「商社マンに技あり!」[まぐまぐ!]
URL:http://blog.mag2.com/m/log/0000063858/

_ マイマイ ― 2010/02/27 10:54

  二百数十万人いたといわれる「終戦時日本にいた朝鮮人」が祖国に帰らなかった理由を、一まとめにして考えるのはむずかしいと思います。
  そこで3つのグループに私流に大雑把に分けて考えてみました。
  A 1920年代頃に「出稼ぎ」のような形で日本に来た単身者とその家族です。ほとんどが「土地調査事業」に関連していると考えられます。終戦時までの20数年の間に仕事を開拓し、劣悪な居住環境にいたとしてもそれなりの生活基盤を日本に持っています。作家の金達寿氏のように十代で渡日した子は朝鮮語の会話能力はあります。しかし、父のように幼い頃に渡日したり、作家高史明氏のように日本で生まれた子は多少聞き取ることはできても会話はまったくできません。この差はけっこう大きいです。
  B 植民地行政中盤の頃で朝鮮半島での農村生活が破綻して、日本に渡ってきた家族または単身者たちで、比較的安定した生活を築いたAグループの一世の地縁・血縁の人間関係を頼ってきたケースが多く、定住期間は短くとも家族を呼び寄せたり、日本で家庭を持ったりして生活基盤は持ち、小さな子どもがいた人も多かったと思います。
  C 戦中の人出不足の時期に「徴用命令」で日本の炭鉱をはじめとする軍需産業の現場に来た単身男子です。いわゆる「強制連行」とも表現されているケースです。戦争末期にすでに「自由の身になった人」や「苛酷な労働現場から逃げた人」も相当数いて、短期間ですがABグループの一世を頼って生活していたと考えられます。この人たちはC‘としますが、家族持ちは少なかったと思います。
  Cの人たちは、戦後すぐに自由になって帰国したと考えます。というのは故郷に家もあり妻子や親兄弟もいる人がほとんどだからです。私はC‘をルーツにする在日コリアンに会ったことはないので、このグループもほとんどが故郷の家に帰国したと考えています。もちろん例外もあることは重々承知しています。
  韓国在住原爆被爆者の聞き取りを読んでいると、悲惨な状況の中「追われるように帰国した」と思わせる記述も多く、別個に考える必要があると思われます。
  よって問題は爆心地にいなかったABグループの人たち(たいていは家族がいた)が帰国をどう考えたかにあります。
  中国の東北部や朝鮮半島の北部から命からがら逃げてきた日本人引揚者の手記を読んでいると、幼い子どもを見失ったとか、栄養失調で亡くして現地で埋葬したり、河に流したとか、身動きとれない老人は置いてきたという悲惨なくだりにぶつかることがあります。
  しかしA、Bグループの大人は祖国が独立したという高揚感とそれに続く帰国への情熱は持てても、「追われるように帰る」切迫感を持った人はいませんでした。戦後の帰還輸送は朝連(在日朝鮮人連盟)、占領軍、日本の役所の連携よって進めていったそうですが、対象はあくまでも「帰国希望者」です。在日朝鮮人側には留まるか帰国するかを天秤にかけて考える余裕があったのです。故郷では生活できなかったという記憶を持つ人が圧倒的に多かったのですから、なんとか食べていけた20年前後の生活を清算するにはかなりの決断が要ったと思います。
  まだ自分たちの法的地位がどうなるかわかっていません。故郷に帰る場を無くしている人や、錦を飾って帰れないということで躊躇した人も多いと思います。朝鮮語の分からない子どもを連れて帰ることの不安を持った人もいると思います。いちはやく戦後の混乱期を「商機」と捉えた人もいたでしょう。
  にもかかわらずそれまでの生活を振り返り、独立した自国で生きる方がいいと選択し帰国を考えた人が圧倒的に多かったように感じます。しかし、いろいろな情報も入ってきて、したたかな庶民の直感で「ここのほうが生きていける」「ここなら食べていける」と判断したのではないかと想像します。庶民ですから、あまりあれこれむずかしく物事を考えていなかったと思います。「民族性の違い」というよりも、先に近代化を推し進めた社会の強さを底辺にいながらも感じ取っていた結果と思えます。私は都市部に住んでいたAグループの人たちに留まる傾向が強かったように感じられます。
  敗戦まで定住志向を持っていた祖父が帰国を希望したのは、20数年の定住生活で貯えができ故郷に土地を購入していたこと、息子の一人が朝鮮半島で就職していたこと、祖父の父が健在だったので帰る「場」があったこと、後年「よき思い出」を子や孫に語る心境に達していましたが、やはり苦労はしていたこと、広島から遠くにあったけれど「きのこ雲」はよく見えた農村部にいたことなどが考えられます。よって旧制中学に在学していた叔父に耐えてもらい、一家で帰国したとのことです。
  最後ですが、朝鮮民族は植民地行政のもとで近代的な自治を経験していません。戦災で都市が壊滅状態だったとしても、日本が明治以降自民族による近代化を成し遂げていることをもっと評価したいです。戦後まもない時期の両民族を比較するのは酷だと思います。

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