武田砂鉄の被差別正義論―毎日新聞2018/03/24

 毎日新聞の「武田砂鉄の気になるこの人」という対談コーナーがあります。 3月24日付の、映画監督ヤン・ヨンヒさんとの対談では武田さんが次のような発言をしています。    https://mainichi.jp/articles/20180324/ddm/014/040/008000c

武田 「差別はよくないが、差別される側にも良くない部分がある」といった「どっちもどっち論」がはびこっています。

 「はびこっている」という言葉から、彼は、「差別される側にもよくない部分がある」という指摘は不当であるという考え方であることが分かります。 つまり差別問題はすべて差別する側が悪いのであって、差別される側に問題はないし、あっても問題にしてはならないという考え方です。 これはいわゆる被差別正義というもので、差別者側を一方的に正さねばならないし、それが解決だということになります。

 ところが、詩人の金時鐘さんは「差別される側のエゴ、独善」を強調し、「今でも朝鮮人、特に“在日”の不幸は、日本人のしでかしたことがそのすべてだ、という言い方が常識論のまま幅をきかす関係が少なくない」として、差別する側とされる側の「両側から超える」を以前から主張しておられます。 つまり差別問題は、差別者も被差別者も一緒に努力して解決していかねばならないというものです。

被差別者である朝鮮人について、金さんは次のように言います。

こと朝鮮人の問題に関するかぎり、事実は朝鮮人の内部で、同族同士がいがみあい、反目しあい、けなし合っては籠絡し合い、背を向け合っていて、向き合ったが最後、殺し合わないとも限らない関係が、手つかずのまま放置されている。 この内実の深刻さに比べると、日本人から受ける「差別」は物の数じゃない。

ところがこの深刻さを度外視して日本人との関係だけをみるとすると、とたんに朝鮮人には分裂、亀裂はなくなってしまうんですよ。 対日本人感情は、朝鮮人おしなべて一つの感情みたいなものだからです。 そういうところで取り組まれる連帯を連帯と見るべきかどうか。差別を論じ合っていながら、ぼくはウソ寒い思いを自分自身におぼえるときがよくあります。  (以上 『朝日ジャーナル』1977年4月22日 「金時鐘氏を迎えて―野間宏・安岡章太郎の“差別”鼎談」83頁)

 そして朝鮮人や被差別部落民も含んだ「庶民」「民衆」が持つ差別意識を語ります。

民衆は過酷な条件を生きれば生きるほど、差別を楽しむ体質みたいなものがあって、自分より低い弱い者を見つける意識をいつも持っている。 (同上 84頁)

 この金時鐘さんの言葉を知ると、今回の毎日新聞に出てきた武田砂鉄さんの発言は差別問題解決からかなり後退している、という印象を持ちました。

 差別する側に問題があれば、差別される側にも問題がある、両者が歩み寄って手を携える関係を作らねばならないという金時鐘さんの考えが正解だと思います。

 そしてそんな関係を作れず、ヘイトを繰り返すような人は、もはや精神的な問題を抱えていると考えた方がいいのかなあ、と考えます。